ラブレター2
「ワタヌキは今接客中じゃけぇ、今日は特別に俺が相手しちゃる。早く選べよ」
そう言いながら店の鍵を開け、彼は入り口の丸椅子にドカンと腰掛けた。腕と足を組んでいるその姿は実に大仰としている。
店の中にはやはり人気はない。この金髪ヤンキーが鍵を持ってきたことから、彼はこの店に対してある程度の権限が与えられているのだと思う。しかし、だとしても彼が店長ということはないだろう。なぜなら、その店の中は彼とは真逆といってもいい雰囲気に包まれていたからだ。
広くない店の中には背の低い木の棚が並んでいた。その棚には、クラシカルで可愛らしい雰囲気の文房具が所狭しと並んでいた。
ブリキの缶で出来た筆箱。お尻に消しかすを払うためのブラシがついた消しゴム。『完全文廻し』なんて名前で、三角形の箱に入ったコンパス。今でも現役で使えそうなペン先。箱には『ライオンペン』の文字。端が錆びたクッキー缶の中には使い終わった外国の切手。
そういったものに混じるような形で、僕も知っているような今時の文房具も混ざっている。
時代も年代も、きっと商品を求める客層だってバラバラだ。だけどそれは、単なる整理整頓ができていないという雰囲気ではなく、その不揃いさを楽しんでいるような感じがした。
そして、金髪の彼が座っている隣には小さな冷蔵庫。ガラスの扉をスライドさせて開けるタイプのヤツだ。その中には瓶詰めの飲み物が入っていた。
今時、瓶詰めの飲み物など珍しい。縁日で瓶に入ったラムネなどがたまに売られているが、僕はそれを買ったことなどなかった。ましてや、冷蔵庫の上に置かれている栓抜きなどは、使ったことがない。使い方もいまいちわからない。
物珍しそうに眺めていた僕の視線をどうとったのか、金髪の彼は冷蔵庫を指しながらぶっきらぼうに声をかけてきた。
「飲むか?」
「え? いいんですか?」
「ばーか。お前の奢りだっつーの!」
一瞬でも甘い期待をした僕が馬鹿だった。
彼は冷蔵庫から二本のラムネ瓶を取り出し、一本をこちらに投げて寄越してくる。
僕はそれをしがみつくような形で受け止めた。
瓶だぞ! 落としたらどうすんだ!
そうは思ったが言えない。当然だ。なんせ迫力と目力が半端ない。
……というか、これは俺が奢らないといけないんだろうか……彼に? なんで?
瓶を持ったままじっとりとした視線を向けていると、彼はラムネ上部を叩きながらニヤリと笑った。
「嘘だよ。ワタヌキに奢らせるから安心しろ」
まだ見ぬ、どこぞのワタヌキさんとやらに奢られてしまう僕である。
しかし正直、その提案はありがたかった。
扇風機もない、エアコンもない屋内は、それなりに蒸し暑い。日本家屋なので風通しがよく、外よりは圧倒的に涼しいのだが、それでも今週は一年で一番暑い週なのだ。涼しいよりは圧倒的に暑い。
僕はラムネの値段を見る。一本一〇〇円。消費税を入れても一〇八円だろう。これぐらいなら、万が一僕が奢ることになっても大した痛手ではない。もちろん奢りたくはないのだが、まだ見ぬワタヌキさんが本当に奢ってくれるとも限らない。
いつの間に封を開けたのか、彼は気持ちが良いくらいに喉を鳴らしながらラムネを飲んでいく。瓶の中では小さな泡達がぴちぴちと跳ね踊っていた。しゅわしゅわという音も耳に気持ちがいい。
僕もラムネ飲もうと封を開けた。上のビニールを取ると白い蓋のようなものがコロリと手のひらに落ちてくる。そして見慣れない飲み口。しかもその飲み口は透明なガラス玉で封がしてあった。
ラムネを実際飲んだことがない僕だって知っている。これはビー玉だ。これを落とすことにより、ラムネが飲める仕組みになっている。けれど、わからないのはそのビー玉の落とし方だった。
僕はそのビー玉を指で押す。――開かない。
もう一度、今度はもっと力を込めて押す。――やっぱり開かない。
「お前、ラムネも開けられんのんか?」
そうこうしているうちに飲み終わった金髪の彼が、呆れたようにそう言った。そうして、僕のラムネを取り上げる。
「ぽんってやんだよ。ぽんって」
「ぽん?」
彼は白い蓋のような物を分解して、丸っこい板に円柱の柱が立っているようなプラスチックを取り出す。そして円柱部分をラムネの飲み口に当てて、ぽんっ、と飲み口を叩いた。その瞬間、瓶の方からも、ぽんっ、という景気の良い音がする。
彼が持っているラムネ瓶は一瞬にして小さな気泡で埋め尽くされ、全体が白みを帯びる。そうして、下の方から徐々に這い上がるようにまた透明が戻ってきた。ラムネ瓶のへこみには先ほどまで封の役割をしていた透明なビー玉。宝石のようにきらめくそれは炭酸の泡に包まれていた。
「そこのくぼみにビー玉引っかけて飲むんだよ」
そう丁寧に説明をしてくれながら、彼はラムネの瓶を僕に渡してくれた。顔は怖いし、態度も良いとは言えないが、彼は案外悪い人間ではないのかもしれない。
そんな風に彼を少しだけ見直していると、いきなり女の子の高い声が耳朶を叩いた。
「あーもー! 店の中で飲み物飲まないでって言ったじゃないですか!」
その言葉に僕は戸の方を振り返る。
開け放たれた戸の向こう側には、一人の女の子がいた。日の光を背負いながら、彼女はずんずんと僕らのところにやってきた。
彼女の年齢は僕と同じぐらいだろうか。
服装は近所にある高校の制服で、白色のセーラー服。手に持っているものも、その高校の指定カバンと、中身の入っていなさそうなへにゃへにゃのトートバックだった。髪の毛はボブカットで内側にくるんと丸まっていて、前髪はまっすぐに切りそろえられている。
制服で現れた彼女に僕は首を傾げる。
今日は八月の始めだから通常の学校は休みのはずだ。登校日か何かだったのだろうか。
彼女は金髪の彼の隣に佇む僕に目を止めると、寄せていた眉の筋肉を緩めた。そして、数度目を瞬かせる。
「って、お客さんですか? もしかして、ヤコさん接客してくれていました? ありがとうございます!」
鋭い目つきの悪い彼に怯むことなく、彼女はそう言って微笑んだ。……というか、この金髪の彼はヤコさんというのか。
「だけど、飲み物は外で飲んでくださいね。うち紙物多いんですから! 濡れたら困るんですよ!」
「へいへい」
ヤコさんは心底どうでもよさそうにそう返したが、別に嫌がっているというわけではないようだった。どちらかと言えば、仲は良さそうである。
彼女は肩に下げていたトートバックから黒色のエプロンを取り出し、身に着けた。その胸元には白抜きで『倉八文房具』の文字。
そうして彼女は僕に深々と頭を下げた。
「この度はご来店ありがとうございます。倉八文房具の店長をしています、安倍文音です」
高校生が店長!? そんな驚きが顔に出ていたのか、文音さんは頬を掻きながら困ったように笑った。
「店長と言っても、管理してくれているのはワタヌキさんやヤコさんだし、実際の権利は親が持っているんですけどねー。でも、心意気は店長ですよ! バリバリです!」
そう言って彼女はガッツポーズを掲げた。その仕草が何とも可愛らしい。
彼女の登場で飲む機会が失われてしまったラムネは、僕の手の中で、カラン、とビー玉を転がした。
文音さんはその大きな瞳をキラキラと輝かせて僕に詰め寄る。
「今日は何をお探しですか?」
「いや、実は何も……」
「はぁ!? つまり、さっきのは嘘だったっちゅーことか!?」
「ひぃいぃ!!」
ヤクザもかくやというような表情でヤコさんが声を荒げる。
僕の口からは間抜けな悲鳴が上がった。凄む彼はやはり怖い。
「まぁまぁ、ヤコさん。せっかくの金づ……お客さんなんですから、そんな風に睨まないでください。お客さんもそんなに怯えなくても大丈夫ですよ。ヤコさん、こう見えてそんなに悪い人じゃないですよ。ちょっと空気が読めないだけで、普通にいい人です。甘いものも好きですし!」
「甘いものは関係ねぇじゃろ。大体、空気って読めるもんなんか?」
「読めます! たぶん! ワタヌキさんとか読むの上手ですよー。私もあんまり読むの得意なわけじゃないですけど!」
お客さんをうっかり『金づる』と呼んじゃいそうになる人は、確かに空気が読める人間には入らないだろう。
「じゃぁ、お前あんなところで何しとったんじゃ?」
「それは……」
「それは?」
二人の視線から逃れるように顔を背けたが、このまま何も言わずに済まされる雰囲気ではない。ヤコさんはこれでもかと睨んでくるし、文音さんもきょとんと首を傾げてしまっている。
僕は半分脅される形でここに来た理由を説明することになった。僕がストーカーをしていたことを。していた理由を。
二人は途中で茶々を入れることもなく、意外にも黙って静かに話を聞いてくれる。
そうして、話し終わった後、ヤコさんは呆れたように息をついた。
「じゃぁ、オマエは客じゃなくて、ウチの客を追いかけてここまで来たっちゅーことか」
「そうです。なんか、すみません」
「いやいや。お客さんと勘違いして問答無用でここに連れてきたヤコさんにも責任はありますよー。ヤコさん、もうちょっと愛想がよくなればいいのに」
「やなこった」
鼻筋を窪めながら心底嫌そうにヤコさんはそう吐き捨てる。
文音さんは僕をカウンター前の椅子に誘いながら、にっこりと微笑んだ。
「そういえば、お客さんお名前は?」
「客じゃねぇだろ」
「いえいえ。もうラムネを一本お買い上げのようなので、立派なお客様ですよ!」
文音さんは僕の手元に視線を滑らせながらそう言った。
僕の手の中では飲む機会を失ったラムネが汗をかいていた。もしかしたらもう温くなっているかもしれない。キンキンに冷えたラムネはあんなに美味しそうだったのに、今ではもう魅力半減である。大変もったいないことをした。
ヤコさんは僕のラムネを一瞥した後、めんどくさそうに頭を掻く。
「あー……、これは俺のと一緒にワタヌキにつけといてくれ」
「えー。またですか? いい加減、ワタヌキさんに怒られますよ?」
「アイツはなかなか怒らねぇし、怒ってもこわかねぇわ」
意外にも律義にヤコさんはそう言ってくれる。別にラムネの一本ぐらい買ってもよかったのだが、そのやり取りに僕は口を挟めないでいた。
「あ、でも、ラムネいいですねー! 夏の風物詩って感じで! あ。いいこと思いついちゃいました!」
そう言って文音さんは手を打った。そうして、バタバタと店の奥に引っ込んでいき、ガラスのコップを三つ持ってくる。まるでトンボ球を引き延ばしたような少し分厚いガラスのコップだ。水色のグラデーションに白の斑点がなんとも夏らしい。その少し不揃いな三つのコップに彼女は僕の持っていたラムネを注ぎ入れた。
「そして、氷の代わりにこれです!」
どこから持ってきたのか、彼女は銀紙に包んである棒アイスを取り出す。その銀紙には『ホームランバー』なんて書いてあった。彼女は果物用の小さな包丁を使い、器用に銀紙の上でそのアイスを三等分する。そして、三等分したアイスをラムネの海に浮かべた。
「こうしたら、なんちゃってクリームソーダです!」
白いアイスがしゅわしゅわのラムネに包まれながら、ゆっくり溶けていく。汗をかき始めたガラスのコップが木のカウンターに丸いシミを作った。
渡されたスプーンでアイスと表面についた氷を一緒に掬い上げる。アイスをひたひたにしているラムネも一緒に、だ。
それらをそっと口に入れた瞬間、下の上で小魚が躍るように泡が跳ねまわった。小泡が弾けるのと同時に甘ったるいバニラの香りが口いっぱいに広がる。舌の上ではバニラアイスの表面に付いていた氷がシャリ、と音を立てて崩れた。
「店の中で飲み物はダメなんじゃなかったんか?」
「今日は私が許可します! だってこんなに暑いんですもん! ぶつぶつ言うなら、ヤコさんは飲みませんか?」
「……飲むに決まっとるじゃろうが」
二人のやり取りを聞きながら僕は不思議な懐かしさに囚われていた。
そう言えば、あの日もこんな暑い夏の日だった。
クリームソーダが飲みたいと呟いた僕に、ミキさんが炭酸飲料とバニラアイスで、今日みたいに即席のクリームソーダを作ってくれた日だ。
『命名、クリームソーダモドキね。おいしそうでしょう?』
耳の奥で彼女の楽しそうな声が蘇る。そう言えば、彼女の楽しそうな声はこの言葉を境に聞けていない。そして、今後聞けるかどうかもわからない。
あの日を境に、僕の初恋はこじれてしまった。ずっともう、覚えていないぐらい前から僕は彼女のことが好きだったけれど、こじれたのはあの日から。
僕の想いが質量を増した日である。
「どうかしました?」
呆けていた僕を覗くように文音さんがそう声をかけてくれる。僕は彼女に苦笑を漏らした。
「いえ。なんだか昔のことを思い出してしまって」
「それって初恋のおねぇさんとのことですか?」
「いや……」
言葉を濁した僕に文音さんはキラキラとした視線を向けてくる。
「気になるー! 話してくださいよ! ね、ヤコさんも気になりますよね?」
「俺は別に」
「ほら、ヤコさんも気になるって言っていますし!」
「言ってねぇわ!」
ヤコさんの言葉を無視して、文音さんがぐっと距離を詰めてくる。
その距離に僕は頬を引きつらせた。女の人は恋バナが好きだというけれど、あれは本当なんだなぁと実感させられる。なんで人の恋愛話を聞いて、自分のことのように盛り上がれるのだろう。僕にはちょっとわからない感覚だ。
「いいじゃないですか。話して減るものじゃないですし!」
「僕の話なんて、面白いものじゃないですよ」
「面白いですよ。じゃぁ、そのアイスのお礼に話してください!」
ラムネの海に浮かぶ白い氷山のようなアイス。
自分自身の恋愛話なんて精神力ががりがりとすり減りそうな気がしたが、僕は懐かしいクリームソーダモドキのお礼にと口を開いた。