遺書1
最終話です。
あれは、私がまだ東京に住んでいたときのこと。
久々に訪れたおばあちゃんちの縁側で、小学生の私はうつ伏せに寝転がりながら、いつものように彼女が作った物語を聞いていた。
童話作家になりたかったおばあちゃんの話は、いつも面白くて、優しくて。聞いていると、自分がまるでその物語の主人公になったような気分になるのだ。胸躍る物語が聞きたくて、私はおばあちゃんに物語を聞かせてほしいと、よくねだっていた。おばあちゃんはその度に文机の奥から物語を綴ったノートを引っ張り出して、楽しそうに物語を聞かせてくれた。おばあちゃんの語り口はいつもゆっくりだったから、早く物語の続きが聞きたい私は、いつもじれったく思ったものだった。
おばあちゃんの穏やかな声とノートのページがめくれる音だけが、心地よく耳をくすぐる。
「そうして少女は、末永く幸せに暮らしましたとさ。……おしまい」
そんないつもの締め文句。私は肘で上半身を支えながら、手を叩いた。
「ねぇ。おばあちゃんの作った物語っていつも面白いね」
私がそう賞賛の声を上げれば、おばあちゃんは少女のような可愛らしい顔で、静かに微笑んだ。
「ありがとう。けれどね、これはおばあちゃんが考えた物語ではないの」
「え、……そうなの?」
おばあちゃんは緩く弧を描く唇に人差し指を立てる。
「そうなの。でも、みんなには内緒よ」
いたずらっぽく笑う彼女に、私はゆっくりと大きく首肯した。
そのとき語ってくれた物語が、どんなものだったかは覚えていない。童話らしく、森の仲間たちが出てくる物語だった気がするけれど、それだけだ。けれど、登場するキャラクターたちが、皆一様に個性的で感情豊かだったことは、今でもはっきりと覚えている。彼らと友達になれたらどんなに楽しいだろう。私は物語を聞きながらずっとそう思っていた。
あの物語は、結局誰が書いたのだろう。
おばあちゃんではないのだろうか。
おばあちゃんでないのなら、一体だれが書いたのだろうか。
一体誰が――……、そこで目が覚めた。
おばあちゃんが死んだ。
目が覚めて一番にしなくてはいけないことは、その現実を受け入れることだった。
私は体を起こす。いつの間にかおばあちゃんの部屋で寝てしまっていたらしい。
おばあちゃんの部屋は家の西側にある小さな和室で、昔はおじいちゃんと一緒にここで寝ていたらしい。おばあちゃんがお嫁に来るときに持ってきた箪笥や鏡台で、その和室はさらに狭く感じられた。
喪服代わりの中学校の制服には皴が寄っていて、立ち上がってスカートをはたくと、まるで粉雪のように、暗い室内に小さなほこりが舞った。部屋にある小さな窓から外を覗けば、こちらにも粉雪が舞っている。
「何もこんなときに亡くならなくてもな。大雪になったら帰れんぞ」
「確かになぁ。まぁ、チェーンも巻いてきたから大丈夫だとは思うが……」
心無い親戚たちの言葉を扉越しに聞きながら、私は壁に寄りかかり、息を殺して瞳を閉じた。
おばあちゃんが死んだのは三日前。原因は、癌だった。
癌が見つかったのは、私が小学校六年生の頃。別のことで体調不良を訴えていたおばあちゃんは、そこで癌だと宣告されたらしい。
手術をして、入院すれば延命できる。でも、癌は至る所に転移をしていて完全に取りきるのは難しい。医者からはそう説明されたそうだ。
おばあちゃんは手術を受けない選択をした。弱った身体にメスを入れるのが怖かったからだとか。手術をしても癌を完全に取りきることができないからだとか。きっと理由はいろいろあったのだろう。おばあちゃんは忍び寄る死の気配に、抗おうとはしなかった。
もしかしたら、その前の年におじいちゃんを同じく癌で亡くしてしまっていたのも大きかったのかもしれない。
しかし、黙っていなかったのは母だった。来なくてもいいというおばあちゃんの言葉を無視し、母は半ば強引に彼女との同居を決めた。
東京から広島へ。
私ももちろん同時にこちらへ越してきた。中学生になる直前のことだ。
年齢が年齢だからか癌の進行はゆっくりで、おばあちゃんは死ぬ一週間前まで元気だった。時々体調を悪くして病院に行くことはあったけれど、それ以外はいたって普通。抗癌剤をたくさん使わないようにしていたのも、もしかしたら大きかったのかもしれない。
だから私はおばあちゃんが死ぬ直前まで癌だと知らなかった。知ったのはおばあちゃんが肺炎を併発し、危篤になった日。おばあちゃんが眠るベッドの前で、母から聞かされた。
それから二日後、おばあちゃんは亡くなった。七十三歳だった。
お通夜と葬式はつつがなく執り行われ、あっという間におばあちゃんは白い陶磁器の壺に収まるサイズになってしまった。
私はおばあちゃんが大好きだった。優しくて、静かで、それなのに可愛い。お父さんとお母さんは四角や三角のイメージだけれど、おばあちゃんは角の取れた球体のイメージ。丸くて、つるつるで、誰が触っても痛くない。ころころと転がり、私の傍まで来てくれて、そっと寄り添ってくれる。
口元の皴も目尻の皴も、笑ったときにクシャっと潰れるその顔も。起伏のない落ち着いた声色も、慰めてくれるときの少し高い膝枕も。私はおばあちゃんのすべてが大好きだった。
なのに、私は泣けなかった。
亡くなったと理解したときも。死に装束に着替えたおばあちゃんを見たときも。お葬式のときも。出棺のときも。おばあちゃんが煙になり、昇って行ったときでさえも。
理由は、よくわからない。
「おねぇちゃん! どこにいるの?」
母の声で私は瞼を持ち上げた。頬を触るが、涙はやはり流れてはいなかった。
◆◇◆
「遺書?」
「そう。おばあちゃんがね、死ぬ前に遺してくれていたみたいなの。文机を整理していたら出てきて。これ、おねぇちゃんの分」
「私の?」
仏間のある広い和室で、母が渡してきたのは白い洋形封筒だった。左下から伸びるように黄色の小さな花が咲いている。表には『ふーちゃんへ』の文字。
隣にいる弟へも、母は同じような封筒を渡していた。
「ここに来ている全員にあるみたいなの。お母さんにも。ほら」
そう言う母の手にも封筒が握られていた。しかも、私とは違う桃色の封筒だ。よく見れば弟のも違う。親戚全員に手紙を書いただけでなく、まさか懇切丁寧にそれぞれ違うレターセットを準備したのだろうか。
「癌がわかってから準備したんでしょうね……」
染み入るような切ない母の声を聞きながら、私は封筒を開けた。その封筒の中には便箋が二枚。しかも片方は封筒と同じ白色ではなく、薄緑の便箋だった。
私は白色の便箋の方を開く。こちらにも黄色い花が描かれてあった。
『ふーちゃんへ
今から宝探しをします。
ふーちゃんにこの問題が解けるかな?
おばあちゃんより』
遺書らしくない文面に私は目を丸くした。
宝探し? なんだそれは……? それこそおばあちゃんの描いた物語じゃないか。
私は頭の上に疑問符を浮かべたまま、もう一枚の便箋を取り出す。薄緑の便箋には竹が生えていた。まるで文字に傘をするように、右から左上にと力強くぐんっと伸びている。
そして、その便箋には二文字だけ書かれていた。
『単司』
「なにこれ……?」
私はその便箋を握りしめたまま困惑していた。宝探しという意味も分からないし、薄緑の便箋の方はもっとわからない。司に単って、一体なんなのだ。
「宝探しっていうんだから、そっちが宝のヒントなんじゃない?」
竹の便箋を指さしながらそう言うのは弟だ。彼の便箋にちらりと目を向ければ、私の手紙とは対照的にびっちりと文字が並んでいる。近くで手紙を読んでいる親戚たちが私のように変な顔をしていないところから見て、どうやらこんなおかしな遺書を残されたのは私だけらしい。
「ヒントってこの二文字が?」
「そうとしか考えられなくない?」
罫線を無視するかのように大きく書かれた二文字。私は首を捻った。
「わかんない……」
「諦めるの早くない?」
弟は便箋を私の手から奪うと、じっとその文字を見つめた。しばらく無言で見つめて、突然はっとしたように顔を上げた。
「これもしかして、どっちも竹冠つけるんじゃない?」
「たけかんむり?」
「そう。竹冠」
彼は机の上に転がっていたペンをつかむと、二つの文字に竹冠をつけ足していく。
『箪笥』
「たんす……?」
「そう。多分ね」
思い出したのは、おばあちゃんの部屋に置いてある嫁入り道具の箪笥だった。
私は先ほどまでいた彼女の寝室へ走っていき、箪笥を開けた。両開きの扉を開けると。中には木でできた薄い引き出しが幾重にも積み重なっている。今ではあまり見かけなくなったが、この薄い引き出しは着物を入れるための仕様だ。昔、おばあちゃんから聞いたことがある。
おばあちゃんももう着物を着ることは殆どなくなったけれど、それでも母親から受け継いだ着物を保管しているのだと前に教えてくれた。
私はその薄い引き出しの一番上を引く。
「また、手紙……?」
そこにあったのは私がもらったのと同じ封筒。表にはやはり『ふーちゃんへ』と書いてある。私は焦ったように手紙を開けた。
『ふーちゃんへ
おめでとう! 今回のお宝は着物です。
さぁ、次のお宝を見つけることができるかな?
おばあちゃんより』




