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履歴書5

 私が起きたのは、その日の二十三時を軽く過ぎたころだった。

 窓の外には星が瞬いていて、部屋は暗く、しんと静まり返っていた。

 私は部屋に置いてある姿見で自分の姿を確認する。

「ぶっさいくだなぁ……」

 月明かりに照らされた青白い私の顔は目が向けられないほどに酷かった。

 泣きはらした両目はもののみごとに腫れていて、ウォータープルーフのマスカラをつけているにもかかわらず、目の周りは黒かった。パンダなんて可愛らしいものじゃない。

 そのとき、ふと視界の隅に向かいの家が目に入った。道路を挟んでちょうど向かい。そこはトモ君の家だった。

「まだ、起きているんだ……」

 彼の部屋には煌々と明かりがついていて、机に向かう彼の影が締め切ったカーテンに映し出されていた。勉強でもしているのだろうか……

「元気にしているかな」

 彼が最後に遊びに来たのは三年ほど前。彼が中学一年生の時だった。

 大人びてきた彼の性格に合わせるように身長はすくすく伸びて、もうその頃には私と変わらないぐらいの背丈になっていた。顔はまだ幼さを残していたけれど、声はもう低い男性の声になっていたし、態度だってはしゃぐようなことはなくなっていて落ち着いていた。

 今思い返してみても、あの頃は楽しかった。

 幼い頃から一緒にいるためか、彼と一緒にいる時間が一番気楽だった。癒されていたと言うべきなのだろうか。学校で嫌なことがあっても彼が遊びに来てくれたら忘れることができたし。年上としてしっかりしなくては、と、自分に発破をかけることができた。

 だから、彼が急に来なくなったときはどうしていいかわからなくなって、何回か声をかけてみたりもしたけれど、結局関係は修復されることなく今に至るというわけだ。

 あの頃は寂しく感じていたが、振り返ってみれば彼が離れて行ったことは私にとっても良かったことだったのかもしれない。だんだんと大人に近づいていく彼に、距離が異様に近い彼に、少しだけ、ほんの少しだけ、どぎまぎしていた自分がいたのだから。

 彼は実姉のように甘えてきてくれただけなのに、本当に迷惑な話だ。

 トモ君にとって六歳も年上の私など、ただのブサイクなおばさんだろう。

 それにもう、一緒に下校する可愛い彼女だっている。

「勉強がんばれ」

 こんなに遅くまで机に向かう彼に、私は呟くような声でそうエールを送った。


◆◇◆


 それからあっという間に時間が過ぎて、履歴書を受け取る日になった。

「こちらご依頼の履歴書です」

 渡された履歴書を見て、私は顔を綻ばせた。優しくて、暖かくて、染み入るような文字が私の経歴を綴っている。白い紙に浮き出てくるような黒が目に焼き付くようだ。

「これって、何のペンを使って書いたんですか?」

 なにか特別なペンでも使ったのだろうかとそう問いかければ、彼はカウンターの下から一本の黒い高級そうなボールペンを出してきた。クリップ部分の金色が眩しい。

「パイロットのカスタム74、0.7㎜のボールペンです。カスタム74のシリーズには万年筆や油性ボールペンなどもあるんですが、今回使用したのはゲルインキのものになります」

「そんな高級そうなものを使うといいんですね……」

 やはりペンが違うのかと感心していると、四月一日さんは苦笑を漏らした。

「履歴書のペン選びには確かに少しコツがいりますが、別に高級だから良いってわけじゃないんですよ。ボクはたまたまこういうペンを持っていたから使っただけで、数百円するものでも十分いい文字が書けます」

「そうなんですか?」

「そうですよ。TPOを弁えていれば、ペンの値段はあまり関係ありません。もちろん、持ちやすさや書きやすさは高いペンの方が良かったりしますが、だからといって安いペンではいい文字が書けないということはないです」

「TPO?」

 TPO―― Time Place Occasion

 簡単に言えば、時と場所と場合を考えようというやつだ。

 暗黙の了解。無言のルール。不文律。そんなものと掛け合わさって使われる。

「はい。服装にTPOってものがあるでしょう? 服装ほど厳格ではないんですが、文字やペンにもそういうものがあって、わかりやすい例で言えば履歴書を赤やオレンジ色のペンで書くのはご法度でしょう? 丸文字や草書体もダメ。黒色のペンで楷書がベストです。逆を言えば、そういうのを守っていればどんなペンで書いてもいいってことなんです」

 仕事道具の話はやはり楽しいのだろか。いつもより饒舌に四月一日さんは語る。

「今回は履歴書ということでしたから、色は黒。ペンの太さは1.0㎜だと太すぎるし、0.5㎜では細すぎるということで、間の0.7㎜にしてみました。インクは耐水性と書きやすさを兼ね備えたゲルインキ。これなら万が一、水に濡れても少しは安心ですからね。まぁ、少しは滲みますが、全く読めなくなるということはないでしょう。……それで、その特徴を兼ね備えたペンは安価でたくさん出回っています。300円もあればお釣りがくるぐらいですよ」

 もちろん高いのもたくさんありますが、と彼は笑う。あまり文房具に興味がなかった私でも、その話を聞いているうちに少しだけワクワクしてきた。今度ペンを買いに行ったらその辺もじっくり見てみよう。

「それともう一つお渡しするものがあって……」

 履歴書を抱えた私に四月一日さんは薄黄色の洋形封筒を差し出してきた。レモンの皮で染めたような明るい黄色だ。宛名はなく、裏面にも差出人の名前はなかった。ただ、まるで開けてほしくないかのように、封だけはきっちりとしてある。

「これは……四月一日さんからですか?」

「違いますよ、斉藤さんのよく知る方でからです。貴女に渡すよう頼まれました」

「私のよく知る……?」

 最近知り合ったばかりの四月一日さんと私の間に、誰か共通の知り合いなどいただろうか。いるとすればヤコさんぐらいだろうが、彼はきっとこういう手紙などは書かない。文句だろうが何だろうが、言いたいことは自分の口で言うタイプだ。きっと。

「はさみ、貸してもらえますか?」

「それは貸せませんねー」

「え?」

 その穏やかな拒否に私は間抜けな声を出した。きっと彼なら、「いいですよー。どうぞー」と微笑みながらはさみを出してくると思っていたからだ。

「その手紙はここで読まないで、帰ってから部屋でお一人の時に読んでください」

「なぜですか?」

「手紙というのは本来一人で読んで噛み締めるものだからですよ。そういう手紙は特に。だって、それは貴女に向けた、貴女のためだけに綴った言葉なんですから」

「私のためだけに……?」

 誰かが自分のために書いてくれた。その事実を実感しただけで胸が温かくなった。差出人が誰だかはわからないけれど、内容がどんなものかはわからないけれど、もうそれだけで胸の中に住まう小人が跳ね回るようだった。

 頬が緩む。この高揚感は、福袋を買ったときに似ていた。何が入っているかわからないドキドキとワクワク感。そして、少しの不安。

「ありがとうございました」

 お金を支払い。私は履歴書とその黄色い封筒を胸に抱えた。

 早く読みたくてたまらなかった。でも、少し怖い気持ちもあった。

 向けられた言葉が鋭い棘に変わって、胸に刺さり続けることを私は知っていたからだ。

 部屋に帰ると、私は恐る恐るその封筒を開けた。中には封筒と同じ黄色い便箋が入っている。

 誰から? どんな内容? いやがらせの手紙だったら? 飯田くんからだったら?

 想像がどんどん俯いていく。私は息をのみながら二つ折りになった便箋を開いた。

 そして、そこに並んでいた文字を見た瞬間、懐かしさが噴き出した。


『美姫さんへ

 お久しぶりです。友樹です。

 突然、こんな手紙を送ってしまってすみません。

 今回、手紙を書こうと思ったのは美姫さんへ伝えたいことがあったからです。

 こうやって美姫さんに手紙を書くこと自体初めてだし、もう何年も話してさえいないので、いろいろ前置きとかも考えたんですけど上手く文字になりませんでした。

 だからもう、率直に書きます。

 僕は美姫さんが好きです。もちろん女性として好きです。

 いつだって笑顔で優しく迎えてくれる美姫さんが好きです。

 人の悪口を決して言わない美姫さんが好きです。

 普段はクールぶっているくせに、可愛いものに目がない美姫さんが好きです。

 猫が大好きなのに、猫アレルギーなところも可愛くて好きです。

 出会ったころから今までずっと好きでした。

 美姫さんは僕のことを弟だと言うけれど、ボクは美姫さんのことを姉だと思ったことはありませんでした。

 だから、どんどん綺麗になっていく美姫さんを見て、焦って飛び出してしまったのが、あの中学校一年生の夏休みです。

 あのときは何度も声をかけてくれたのに、無視ばかりしてすみませんでした。僕はどうやったって美姫さんより子供だし、六歳の年齢差はどうやったって埋まらない。あの頃の僕は美姫さんに追いつきたくて、早く大人になりたくて必死でした。

 僕は美姫さんが好きです。

 困った人を放っておけない優しさも、自分より他人を優先してしまうその健気さも、手を握った時のはっとするような温かさも、全部好きです。

 この前おばさんから就職活動をしていると聞きました。

 もしかしたら今の家を出てしまうということも。

 美姫さんならどんな会社に入っても、どこへ行っても、大丈夫だと思っています。

 がんばってください。応援しています。

                              友樹

追伸

 今、専門学校へ行って美容師になるための勉強をしています。

 いつか、美容師として立派になったら、美姫さんの髪を切らせてください。』


 気が付いたら目の前が滲んでいた。

 目から零れた水滴が手紙に落ちて、水色のインクがじわりと滲んだ。

 私が泣いてしまったのは彼の告白がうれしかったからではない。いや、彼の告白は嬉しかった。でもそれよりもびっくりした感情の方が勝っていて。だから、私が泣いてしまった理由はまた別だった。

 彼が私の好きなところを書き連ねてくれたのが嬉しかったのだ。自分が認められたような気がして、ここにいてもいいのだと言われたような気がして嬉しかった。

 彼の文字からは不思議とお世辞とか嘘とか、そんな印象は感じられなくて、自分でも馬鹿だとは思うけれど、書いてある文字の全てを彼の気持ちとして信じてしまった。



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