履歴書4
その日もとても暑い日だった。
さすがに外に出るのは躊躇われて、部屋の中でお気に入りのDVDを観ながら過ごしていたときだった。物語のヒロインが幾多の困難を乗り越えて、運命の人と結ばれる。実はそのヒロインはお姫様で、国中がヒロインとヒーローの帰還を喜んでハッピーエンド。確かそんなストーリーだったと思う。
私はそのDVDを観ながら少し冷めた気分でいた。ストーリーやキャラクターは好きだ。特にヒーローがヒロインに心動かされる場面は思わず涙ぐんでしまうし、うっとりだってしてしまう。
けれど、そのヒロインが私のようにブスだったらどうなのだろうと想像して、冷めてしまうのだ。きっと百年の恋だって、前世からの運命だって、一気に冷めてしまう。少なくとも、恋にはならない。よくて友情止まりだろう。あんな煌びやかなドレスだって、綺麗だから似合うのだ。きっと、私のようなブスが着ても似合わない。
「お姫様になりたいなぁ」
あんな風に綺麗で、強くて、逞しい、お姫様になりたかった。心が強くて、芯があって、そばにいる誰もを虜にしてしまうような心根も欲しかった。
そんな私の発言にトモ君はぽかんとしていた。
口を開けたまま気の抜けた表情で、私をじっと見つめていた。こんなブスが何を言っているのだろう。もしかしたらそう思ったのかもしれない。
私は呆ける彼に「ごめんね」と苦笑いを返した。
本当にそう思っていたとしても、責める気にはなれなかった。
だって本当のことだ。毎日、鏡で何度も自分の顔を確認しているのだ。間違いない。
「ミキちゃんはお姫様みたいだよ!」
少しの間をおいて、トモ君はそう言った。大きな声で。
大きな瞳を糸のように細くして、彼は歯を見せて笑う。
嘘だったのかもしれないし、お世辞だったのかもしれない。子供らしからぬ心遣いで、気を使ってくれただけかもしれない。きっとそうだ。そうに違いない。
けれど、自分を否定する言葉しか吐けなかったその時の私にとって、その言葉は重く、そして、優しかった。
温かい何かが腹の奥底からせりあがってくる。
「……お姫様に、ならなくちゃだめだよね」
呟くようにそう言った。
顔の造形は今更変えることはできない。持って生まれたものだ。
けれど、強くはなれる。逞しくもなれる。それ以外のところは磨けるのだ。そして、いつかお姫様と比べて違うところは顔だけだと言えるようになりたかった。
ならなくてはいけないと思ってしまった。
それに、せっかくできた弟分に、これ以上かっこ悪いところは見せられない。
「頑張らなくっちゃね」
「ん? がんばって?」
よくわからないというようにトモ君は首をかしげて笑った。
夏休みが終わった後、私はまた学校に通い始めた。
長期休暇を挟んだということも大きかったのだろう。クラスとのわだかまりもそんなになく、私はわりとすんなり元の生活に戻ることができた。
そしてトモ君も、夏休みが終わったにも拘わらず、暇を見つけては遊びに来てくれた。純真無垢な笑顔を向けてくれる彼は本当に可愛くて、何回でも抱きしめたくなった。
きっと彼がいなかったら、私は学校に戻るきっかけが掴めずにあのままずるずると無為に時間を過ごしていたと思うのだ。
ブスだと自分を卑下して、誰かを羨んで、呪っていたかもしれない。
背筋を伸ばして生きようとは思わなかったのかもしれない。
そんな彼ももう高校生のはずだ。
最近はめっきり会わなくなったけれど、元気にしているだろうか。久しぶりに見かけた彼は身長も高くなっていて、ずいぶんとあか抜けていた。たまに女の子と帰っているところを見かけるので、彼女でもできたのだろう。
なんとなく寂しい気分になってしまうのは、私が本当に彼を弟のように思っていたからだ。きっと……
◆◇◆
「なんか、長々とすみません」
私は苦笑いを浮かべながら頬を掻いた。胸に蟠っていた気持ちをすべて吐き出したからか、心なしか気分はすっきりとしている。まるでデトックスだ。
私は一息つくように、少し温くなった珈琲を口に運ぶ。
「斉藤さん。シュークリームを最初に見たときのことを覚えていますか?」
それまで私の話を黙って聞いてくれていた四月一日さんは突然そんなことを聞いてきた。
私は首を横に振る。シュークリームを最初に見た時なんて、そんなもの覚えているはずがない。何事にも初めてはあるのだから、きっとそういう瞬間はあったのだろうけど、それは私が物心つく前の話だ。
四月一日さんは、私の皿の上にある食べかけのシュークリームを見ながら、静かに微笑んだ。
「ボクはね、最初シュークリームを見たときに『岩だ!』って思ったんですよ」
「え?」
「だって、見た目はごつごつしているし、ざらざらだし、あれに甘いカスタードクリームが入っているなんて外側からは分からないじゃないですか! だから全然美味しそうに見えなくて……」
確かに言われてみればそうだ。私はもうあのシュー生地が柔らかいことも中身にクリームが入っていることも知っているけれど、本当に初めてシュークリームを見た人はそう思ってしまうかもしれない。
四月一日さんは続ける。
「人間、中身が全てだとは言いません。外見は最初の印象に大きくかかわる部分ですし、中身の一番外側はやっぱり外見です。……けれどね、中身に甘いクリームが入っているのを知っている人から見れば、その外見も違って見えるものですよ」
そこでやっと私は四月一日さんの言いたいことを理解した。
彼は励ましてくれているのだ。
私はなんて返したらいいのかわからないまま、「ありがとうございます」とだけ言い、再びシュークリームを口に運んだ。
ほろ苦い口腔内に優しい甘さがとろりと広がる。
私の中のクリームに気付いてくれる人はいるのだろうか。
そもそも、私の中身はクリームなのだろうか。
ぐるぐるとそんな思いが駆け巡る。
結局、食べ終わるまで私は終始無言で、四月一日さんもそんな私に付き合うように黙って傍にいてくれた。
皿を綺麗にした後、私は鞄を持ち立ち上がった。
そうして、四月一日さんに頭を下げる。
「今日はなんか色々ありがとうございました。履歴書、よろしくお願いします」
「はい、かしこまりました。仕上がりは明後日になります」
誰も彼もを包み込むような優しい笑顔に、私もつられて微笑んだ。
「あと、さっきはシュー生地にたとえましたけど、ボクは本当に斉藤さんのこと可愛らしい女性だと思っていますよ。自信を持ってください」
「……ありがとうございます」
最後のお世辞に、私は苦笑いでそう返した。
◆◇◆
訪ねたときに比べて、私の足取りは軽くなっていた。
代筆屋の優しく緩やかな雰囲気は、私の心を回復させてくれたらしい。
英気を養うという意味でも、あの代筆屋に行ったのは本当に正解だった。
結構長く居たつもりなのに時間はそんなに経ってなくて、時刻は十二時を過ぎたあたりだった。先ほどシュークリームをご馳走になったせいか、お昼だというのに小腹も空いていない。しかし、このまま家に帰ってしまうのも少しもったいなく感じてしまい、私は久しぶりに近所にあるお気に入りの場所を訪れることにした。
『Têtard』――テタール。
フランス語で『おたまじゃくし』という意味だそうだ。
三階建て、クリーム色のビルの一階。テタールは白い木の扉と、かまぼこ型のポストが特徴の小さな雑貨屋さんだ。大きな窓から見える店内は、照明により温かい橙色に染まっていて、可愛らしい小物が所狭しと置いてある。陳列に使われている木の台や、吊るされている照明はいい意味で年季が入っていて、隅々まで店主のこだわりが見て取れるお店だ。
ハンドメイドの可愛らしい小物や見たこともない輸入雑貨が並ぶ店内を見るのは、まるで宝探しのようで面白い。就職活動が始まってからはあまり訪れてはいなかったが、高校生のころは足繁く通っていて、店主のお姉さんとはもう旧知の仲だった。
久しぶりにお姉さんの顔も見たいと、私は店内に足を踏み入れた。こぢんまりとした店内にはエアコンが効いていて、入った瞬間に汗が引いていく。
「涼しい……!」
肌を駆け抜ける爽快感に私は思わずそう零した。顔を隠すために伸ばしている髪を持っていたシュシュで手早く結んで、私は店内を見渡した。おもちゃ箱をひっくり返したようなそこは、以前来たときと同じように私をやさしく迎えてくれた。
今日はいい日だ。
多分、就職活動が始まってから一番いい日。
代筆屋では癒されたし、久々にお気に入りの雑貨屋を訪れることもできた。
これできっと、明日からも頑張れる。
私は目に留まった水色のリボンバレッタを手に取りながら顔をほころばせた。
「ご褒美に買って帰ろうかな」
今の私がつけるには少し幼くて可愛らしすぎるデザインだ。けれど、それでいい。こういう可愛らしいものは集めるのが好きなだけで、付けることはないのだから。
付けたってどうせ似合わないのだし……
再び落ち込みそうになる気分に頭を振って、私は会計をしてもらおうと奥へ向かった。
しかしそこで、私の足はぴたりと止まってしまう。
カウンターの奥で椅子に座り、携帯電話をいじっていたのは、見知ったお姉さんではなかった。髪を短く借り上げた細身の男子大学生。私はその顔に見覚えがあった。
「え? 飯田くん……?」
「斉藤?」
私の声に彼は顔を上げて、目を大きく見開いた。
小学五年生の頃に比べれば、身体は大きくなっているし、顔つきだって大人びているが、顔のパーツは間違えようもないほどに飯田くんだった。
『学校くんなよ! ブス!!』
耳朶によみがえってきた声に、私の身体は強張る。
「久しぶりだな! 元気にしたたか?」
からっ風のような明るい声に、私はどぎまぎした。どう反応すればいいのかわからなかったからだ。今更、彼に恨みがあるというわけではない。あれからもう何年もたっているし、彼だけが悪いわけではない。きっと、あの時は私にも非があった。
けれど、私が容姿を気にするようになったきっかけに彼は確実に絡んでいて、あの言葉は未だに時々、私の胸を抉るのだ。
「なんで?」
その言葉がやっとだった。私のその問いに彼は目を細めて笑う。
「ここ、姉貴の店なんだよ。んで姉貴は、去年結婚して今は産休中。俺は暇なときに手伝いに来てんの! もう、内定も出たから暇でさ!」
「……そうなんだ」
どう返すのが正解だったのだろか。私はそれだけ言うと、曖昧に微笑んだ。
内定が出ているという彼の言葉に再び焦りだす私と、突然の邂逅に混乱している私がいて、上手く表情が作れなかった。
私の態度を気にしていないのか、彼は椅子に腰かけたまま満面の笑みを見せる。
「懐かしいなぁ。小学校卒業してからだっけ? 小五と小六は同じクラスだったよなー」
「そうだね。中学校は同じクラスにならなかったからね」
「……そういえばさ、小学校のとき、お前一時期、学校来なくなったよなー」
自分でもわかるぐらい表情がひきつった。どういう表情で言っているのだろうかと顔を上げれば、彼は懐かしむような視線をこちらに向けて微笑んでいる。
「そう、だったっけ?」
「そうだよ! なんか、合唱祭の曲決めでクラスのやつらと喧嘩したとかでさー」
彼はまるで自分は無関係という風にそう言った。
何年たっても胸を抉り続ける棘を刺したのは彼なのに、棘の存在も、刺したこと自体も忘れているような口ぶりだ。いや。実際、彼は忘れているのだろう。いつだって誰だって、手を振り上げた方は忘れているものだ。傷ついたほうだけがいつまでも痛みを覚えている。
彼にとって私の胸に残った棘は忘れてしまうぐらい些細なこと。それまでのことだ。
飯田くんは私の顔をまじまじと見つめた後、ふっと笑った。そして、私の顔を指す。
「なんか、変わってないなぁ。お前」
『相変わらず、ブスだな。お前』
そう言われたような気がした。
ひゅっ、と吸い込んだ空気が肺の中でそのまま固まる。
目頭がジンと熱くなって、私はまた下唇を噛み締めた。
変わらないと彼は言うけれど、私は変わった気でいた。少なくとも彼の知っている私よりはいい方向に変わった気でいたのだ。
あの頃よりは化粧もするようになったし、身なりに人一倍気を遣うようにもなった。流行りの服を着てみたり、美容院だって間を置かずに行っている。女性誌は隅から隅まで読むようになったし、メイクの勉強だって欠かしていない。
ブスな私は、それでもお姫様に近づけるように背筋を伸ばして、踵を上げて、生きてきた。
しかし、彼は一言で私の努力を無かったことにする。
「あ、それ。買うのか?」
私は持っていたバレッタを慌てて背中に隠した。また馬鹿にされるに決まっている。私には似合わないと、また棘を刺してくるに決まっている。
似合わないのは知っているのだ。買ったって付けるつもりなんてない。
だけどそれを他の人から言われたくはなかった。突きつけてほしくなかった。
私はこんなに傷ついてもなお、もしかしたら、と思っているのだから……
「こ、これは、たまたま見ていただけで! ……えっと、帰るね!」
「え? おい⁉」
少しだけ乱暴に商品を棚に戻し、私はまるで逃げるようにその店を後にした。
楽しかった気分が潰れて、まるで膨らまなかったシュー生地のようにべっとりと地に張り付いた。
地を這うような気分で家の玄関までたどり着いた時、一通のメールが届いていることに気が付いた。私は携帯電話でそのメールを確認する。そして、トドメを刺された。
届いたメールは企業からのもので、いわゆるお祈りメールというやつだった。つまり、会社の不採用通知だ。文末に『今後のご健勝とご活躍をお祈り申し上げます』という文言が入っていることから、就活生にそう呼ばれているメールである。
その会社は先週受けたばかりの会社で、面接での感触も悪くなかった。残っている会社の中では一番行きたい会社で、企業のこともしっかりと調べて挑んだのだ。
だからこそ、そのお祈りのメールは辛かった。
だんだん黒く塗りつぶされていく一日に、私は玄関前で思わず泣いてしまった。悔しくて、苦しくて、惨めで、どうしようもない程に疲れていた。涙が頬を滑り、パンプスの先で跳ねた。手で拭っても、腕で拭っても、涙は後から後から溢れてくる。
どうして、私じゃダメなのだろう。どうして、私を受け入れてくれないんだろう。
会社に落ちる度に自分はいらない人間なのだと、居場所などどこにもないのだと、そう言われているような気分になる。
こんなに頑張っているのに……
ようやく涙が止まったのは、それから十分ほど経ってからだった。私は泣きはらした顔を家族に見せないようにと、急いで自分の部屋に戻った。そして、ベッドに飛び込み、顔を枕に押し付ける。
「こんなんじゃ、だめだ……」
自分の心の弱さに辟易した。
ブスと言われたからなんだ。今更一社落ちたぐらいで落ち込むな。
『文字はその人となりを顕著に表しますからね。……そして、それは何も知らない人にも無意識に伝わってしまうものです』
四月一日さんはそう言っていた。
それならば、私の履歴書を見た面接官にも、私の中身が透けて見えていたのだろうか。表面上は繕っているが、自信なんて欠片もない、自己嫌悪の塊のような私の中身を。
もしそうなら、私はどうしたらいいのだろう。自信なんて、そうそうつけられるものじゃない。そもそもどうやって付けたらいいのかも分からない。
「髪の毛、切ろうかな……」
私は、顔にかかる髪の毛を一房指でつかんで顔の前で揺らした。
長い髪が好きというわけじゃない。これは私の顔を隠すためのものだ。けれど、もしかしたら、この髪が余計に私のことを暗く自信なさげに見せているのかもしれない。
「ちょっと、寝よう……」
まるで現実逃避をするように、私は足元から這い上がってきたまどろみに身を投じた。




