履歴書3
小学五年生。
そのときまで私は自分のことを人並みだと思っていた。二重だけれど小さい目も、少し上を向いた団子鼻も、高学年になり出てきたニキビも。全部、些細なものだと思っていた。誰にでもあるものだと思っていた。雑誌のモデルと比べれば、それこそ月とミジンコというような感じだろうが、一般的な小学生の〝一般的〟に私は含まれるものだと思っていた。
そんな私は昔から、学級委員長的な立ち振る舞いをしていた。実際にそう任命されていたわけではない。ただ単に、そういう立ち位置に勝手にいた、というだけなのだ。
先生の言葉が一番で。ルールは厳守しなければならないもので。みんな仲良く、楽しくがモットーで。乱す奴は許さない。そんな、どこにでもいる。『勝手にルールブックを気取っている生徒』だったのだ、私は。
クラスでもめごとが起これば、仲裁に入り。何か決めなくてはならないことがあれば、率先して進行役を務めた。輪を乱す生徒がいれば、恐れず声を上げ。困っている子がいたら誰よりも早く声をかけた。
その頃の私はお節介も多かったけれど、それでも誰かの役にたっていたと思う。
いけなかったことがあるとすれば、それは心の在り方だったのだと思う。
一言で言って、私は思いあがっていた。いい気になっていた。
私がいることでクラスがいい方向に進んでいっていると勝手に思い込んでいたし、私がいなくては、このクラスはだめになってしまうと信じていた。
小学五年生の夏、夏休みに入る前。その出来事は起こった。秋の合唱祭で歌う曲を決める時のことだ。
私の通っていた学校には学級委員という役割はなく、立候補形式で話し合いの進行役、書記役などを決めていた。多分、自主性を高めるとか、そういう目的があったのだろう。
だから私は、当然のように壇上へ立ち、進行役を務めていた。
合唱祭で歌う曲は二曲。課題曲と自由曲だ。課題曲は決まっていたけれど、自由曲は本当に好きなものを歌っていいことになっており、毎年、その年にヒットしたJPOPなどが選ばれていた。
クラスの話し合いでは、当然のように案は出ない。
みんな面倒くさいのだ。何かを言って否定されるのも面白くないし、その案で決まったとしても後々文句が噴き出すかもしれない。民主主義らしく多数決で決めて、みんなで責任も分散しているはずなのに、案など出さなかった者たちこそ、こぞって「この曲は歌いたくなかった!」など文句を言うのだ。そりゃ、案など誰も出したくなくなる。
こうなることを予期して、私はあらかじめいくつかの候補を絞っていた。今年ヒットした曲や、ノリがいい曲、歌いやすい定番の曲。そして、私が好きな曲。
少し前から、合唱祭でその曲を歌いたいと考えていた。そのバンドが好きだったというのもあるし、ノリが良い曲なのでみんなで歌ったらきっと楽しいと思ったからだ。
私は四つの曲名を黒板に書き、そうして多数決を取ろうとした。そのときだった。
みんなでの話し合いになるといつもつまらなそうにしている飯田くんが急に立ち上がった。そうして不機嫌な顔で黒板を指さす。
「その最後に書いてある曲って、斉藤さんが好きな曲なんじゃないんですか?」
その指摘に私はぎくりと身体を強張らせた。
私の様子に飯田くんはまるで鬼の首を取ったかのように声を大きくする。
「なんだか、それってズルくないですか? みんなだって歌いたい曲があるのに!」
「……それなら、最初のときに案を出せばよかったんじゃないですか?」
私は動揺を隠して、極めて冷静にそういった。私は一番初めに「何か案がある人はいませんか?」とちゃんと聞いている。ここで文句を言われる筋合いはない。
すると飯田くんは鼻筋をくぼめてさらに気炎を上げた。
「今から出そうと思ったんですー。でも、その前に斉藤さんが黒板に勝手に決めた曲を書いちゃうから!」
「確かに、最初の時間、短かったよな?」
「私も案を出したかったんだけど、斉藤さんが早すぎて……」
飯田くんに賛同するような声が口々に上がる。もうこれには私が口を噤むしかなかった。
結局、その日のうちに曲は決まらず、私たちは午後の授業を終え、放課後を迎えた。
その間、私はもやもやとした気分のままでいた。煮え切らないというか、不満が胸の奥底で燻っているというか。それはきっと飯田くんも同じだったのだと思う。
放課後になると、私は毎日、集めたクラスのノートを職員室までもっていっていた。その日の放課後も私はノートを職員室にまでもっていっていて、帰ってきた教室の前で、偶然その言葉を聞いてしまった。
「なんか、斉藤さんってウザくない?」
誰なのかわからないが、女の子の声だった。
「わかるー! なんか、『私がこのクラス先導しています!』って感じだよねー!」
「正直、ちょっとね……」
賛同するような声に身体が凍り付き、冷や汗が流れた。
呼吸がだんだんと浅くなっていく。
「今日だって、何気なく自分の好きな曲候補の中に混ぜてさー」
「それ、私もズルいと思った!」
「曲のチョイスも微妙だったしなー」
ところどころ男の子の笑い声も交じってくる。
クラスの一部が私のことを快く思っていないのはわかっていた。世の中にはいろんな人がいて、だから私のことを好きな人も嫌いな人もいる。今まではそう折り合いをつけてきた。ただ、こうもまざまざと突きつけられると、辛いものがあった。
嫌ならば聞かなければよかったのだろうが、家に帰ろうにも鞄は教室の中にあるのだ。帰りたくても帰れない。それに、あまりの衝撃に動けなくなっていたというのもある。
彼らは私に聞かれているとも知らずに会話を続ける。
「それになんか、斉藤さんの顔おかしくない?」
「ブスだよね。あれ!」
「よくあの顔で人前に立てるよなぁって思う!」
その瞬間、呼吸が止まった。
そのときまで私は私のことを〝ブス〟だと思っていなかった。綺麗だとか可愛いとかも思っていなかったけれど、人並み以下だとも思っていなかったのだ。
「俺、斉藤の顔真似します!」
扉を隔てた教室の中で、どっと楽しそうな笑い声が起こる。
私は唇をかみしめた。涙をこらえるために。
爪が食い込んで、白むまで、私は掌を握りしめた。
「ブスは黙ってクラスの隅にいればいいのにね!」
「偽善者ぶって、人に声かけまくるし!」
「私、転校してきたころ超ウザかった! めっちゃ、話しかけてくるじゃん? 人は静かに過ごしたいのにさー!」
「ブスがうつりそう!!」
「あと、美姫って名前負け過ぎるでしょ! あの顔であれはないわ!」
「わかる! わかる! 私もいつ言おうか悩んでいたところ!」
「美しい姫とか! あの顔で? って感じだよな!」
斉藤美姫それが私の名だ。お父さんとお母さんから貰った大切で大好きな私の名だ。だけどその瞬間、私は私の名前が嫌いになった。大っ嫌いになった。
大切な宝物を一瞬にして壊された。そんな感じがした。
「もうそろそろ帰ろうぜ!」
「賛成!」
「あっ……」
しまったと思ったときにはもう遅く、私は教室の前でみんなと鉢合わせしてしまった。
唇から間抜けな音が漏れて、そんな私を見たみんなも固まってしまった。
「斉藤さん……」
「……いつから」
呆然と立ち尽くす私に彼らも狼狽えているようだった。
彼らだって私を傷つけるつもりはなかったのかもしれない。憂さ晴らしにと吐いていた言葉を私はたまたま聞いてしまっただけだろう。
不幸な偶然が重なった。きっと、それだけだ。
彼らは顔を見合わせると、視線を泳がせた。そして、その中の一人が私の隣を焦ったように通り過ぎていく。
「ごめんね! 冗談だから!」
「そうそう冗談!」
「また明日ね!」
それを合図に、みんな逃げるように立ち去っていく。
そうして、私の目の前に残ったのはあの飯田くんだけになった。
彼は私を見据えると、心底嫌そうに眉を寄せた。その表情だけで彼は私のことが嫌いなのだとわかるようだった。
「学校くんなよ! ブス!!」
まるで吐き捨てるようにそう言って、彼は帰っていった。
そして、その日から私は学校を休むようになった。
仕切ろうとする私を、気に入らない人がいるのは知っていた。だから、そのことに対して『ウザい』とか『面倒くさい』とか言われるのは、あまりショックではなかった。
私がショックだったのは容姿の不出来さを指摘されたことだった。
ブス。
その言葉が胸に突き刺さったまま抜けなかった。
学校に行かなくなっても、両親は私を責めなかった。母はむしろ「こうして長く休むのって義務教育中じゃないと難しいから、好きなだけ休めばいいのよ」と笑ってくれた。
私はその言葉に甘えるように一週間、二週間、三週間、一か月、と休みを積み重ねた。
そうして、そのまま夏休みに入った頃だった。一人の男の子がうちに来た。
「幼稚園が休みの間だけ預かることになったの。昼間だけだけどね。知っているでしょう、トモ君」
母がそう説明をして、その足元で彼は小さく頭を下げた。
うちに来ることになったことが不本意だったのだろうか。頼りない大きな瞳が、今にも不安で押しつぶされそうに揺れていた。
その子は、半年ぐらい前に越してきた向かいに住む男の子だった。
何度か話したことはあるが、あいさつ程度だ。
幼稚園の年長だというその子はどちらかといえば大人しめな子だった。くりくりとした黒目に、ふくよかな頬。足りない身長に、小さな手のひら。
この世の『かわいい』を集めたらきっとこんな感じなのだろうと、そのときは思った。
握った手のひらの温かさに、びっくりしたのも覚えている。
夏休みということもあって、四十六時中一緒にいたせいか、私たちはすぐ仲良くなった。
私のお節介好きがここでは功を奏したようで、彼はまるで実の姉に甘えるように接してきてくれた。また、私もまるで彼が実の弟であるかのように接した。
最初は大人しいと思ったトモ君だが、彼は意外にもおしゃべりだった。エアコンの利いた室内で、セミが鳴く公園で、私たちはずっと一緒に遊んでいた。
トモ君の両親は共働きで、夕方の六時頃になると仕事を終えた彼の母が彼を迎えに来る。その時に彼は決まって涙目になり、「また明日遊んでくれる?」と私に問うのだ。
その頃の私は学校の友人と全く連絡を取ってなく、暇を持て余していた。だから私は、その問いにいつも笑顔で頷いていた。
嬉しかった。誰かに必要とされているということが。
楽しかった。彼と遊んでいる間は自分を卑下する暇なんてなかったから。
彼と出会って一か月ほど過ぎた頃、私は夏休みが終わるのが怖くなっていた。まだ夏休みは残っている。けれど、それが終わればトモ君はまた幼稚園に通うようになるだろう。そうすれば必然的にうちに来ることもなくなってしまう。
私は無為に過ごしていた日々を思い出して、身体を震わせた。
夏休みが終われば、私の〝姉〟という役割は終わり、またやることを見失ってしまう。
けれど、だからといってどうすることもできないまま、私は新しくできた弟との時間を惜しむように過ごした。




