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進学祝いの手紙1

先週はすみませんでした。

 歳を取ると、いろんなものが見えなくなる。

 近くても遠くても、文字は霞み、人の顔はぼやけてしまう。

 でも、俺はそれでいいと思っていた。

 歳を取った分だけ世の中には見たくもないものが溢れている。経験を積み重ねた分だけ人の良くないところや悪いところが目に付いてしまう。

 歳を重ねると目が悪くなるのは、きっと人に元々兼ね備えられたそういう機能なのだろう。老眼が出始めたころは自分の老いを突き付けられた気がしてショックだったが、今ではそう解釈している。

 だから俺は老眼鏡など持たない。見えないものは見えなくてもいいものなのだ。

 それに、五十年以上続けている今の生活は老眼ぐらいではびくともしない。

 今までも、そしてこれからも、俺は見えないものまで見ようとは思わない。

 そう思っていた。そう思っていたはずだった。

 少なくとも一週間前までは……


 やまのべ食堂。

 磨き上げられた白木色の机と椅子。机の上には割り箸や醤油、紙ナプキンに爪楊枝などがおいてあり、少し高い台の上にはブラウン管の箱型テレビがニュースを流している。元は白色だった壁の色はくすんでしまっていて、先日の地震で落ちてしまった水彩画の部分だけが浮き出るように白く輝いていた。

 開店はしているが、まだ客の来ていない午前十時。

 俺は自分が営んでいる食堂のテーブル席で数枚の便箋を前にうんうんと唸っていた。

 久々に机の奥から引っ張り出した筆ペンの後ろで、俺は頭を掻く。脇には先日、俺宛に届いた一通の手紙があった。

山野辺(やまのべ)寿和(としかず)様』

 封筒の表面には、俺の名前とここの住所が書いてある。

 送り主はもう何年も前に家出したまま帰ってきていない娘からだった。俺は筆ペンを机の上に転がすと、封筒を空ける。中には三枚の便箋と一枚の写真が同封されていた。

 俺はその中の写真だけを取り出す。すると、客からは強面だと揶揄される顔の筋肉が、一斉に弛緩した。自分でも明らかに表情が腑抜けたのがわかる。

 そこに映っていたのは一人の男の子だった。年齢は五歳ぐらいだろうか。

 少年は新聞紙で作った兜を頭につけたまま、カメラに向かって歯を見せて笑っている。スポーツでもしているのか、髪の毛は短く切り揃えられていて、大きくて黒い瞳は太いマジックで書いた線のように細められていた。手には戦隊ものの剣が握られている。見るからに元気で活発そうな男の子だ。

 少年は娘の子供だそうだ。つまり、俺の孫にあたる。

 孫の名前は手紙に書いていなかったが、持っていた剣に『かっちゃんの!』と子供の字で書いてあったので、おそらくそれが彼の名前なのだろう。

「幼いころの舞弓(まゆみ)にそっくりだ」

 思わず零れ出た感想を、俺は慌てて咳払いで消し去った。孫は可愛いが、娘のことを許したつもりはない。こうやって連絡を取ってきたというのに、手紙には謝罪の一つも書いていなかった。手紙に書いてあったのは近況報告と、写真に写る彼が来年進学するという旨だけ。

 正直、何を伝えたいのかよくわからない手紙だが、謝ってこない者を許すことはできない。

 手紙に並ぶ稚拙な文字を眺めながら、俺は苦々しい想いをかみしめていた。

「まったく、アイツは。久々に連絡をしてきたと思ったら……」

 鼻息荒くそう言ってしまうが、胸に広がるのは安堵の感情だった。

 もう長く連絡を取っていなかったのだ。不出来な娘だが、親として彼女のことはそれなりに心配していた。

 もちろん、娘の身を案じていたわけではない。人様に迷惑をかけていないかどうかを案じていたのだ。

 どこかで倒れて人様に迷惑をかけていないだろうか、とか。

 金がなくて人様に借りていないだろうか、とか。

 病気になって病院にお世話になっていないだろうか、とか。

 そういうことを心配していたのだ。断じて、娘の身を案じていたわけじゃない。

 しかし、そういう娘とのわだかまりも、孫には関係のないことだ。娘の舞弓にはまだ思うことがあるが、孫はかわいい。

 孫が進学するというのなら、祝いの一つでも送ってやりたい。学習机を買っていないというのなら、買ってやるのもいいだろう。ランドセルだって今どきのものを買ってやるつもりだ。最近は色とりどりのランドセルが流行っていると聞く。娘の時ときは、確か赤と黒の二色だけしか選べなかった。それだけ色の展開が豊富ならば、赤でも青でも黄色でも緑でも、好きな色を買ってやりたいと思うのが爺心というものだった。

 何はともあれ、まずは進学のお祝いを伝えないといけないだろう。手紙の差出人は娘だが、手紙は孫に送りたかった。進学するのは孫なのだし、最近の幼稚園児はひらがなぐらいなら読めると聞いたことがあるからだ。

「しかし、この文字は……」

 便箋の上に並ぶミミズが這ったような文字を見下ろしながら、俺は眉を寄せて目頭を揉んだ。実は、うまく文字が書けないのだ。老眼が進んだ俺の瞳には、すぐそこの便箋に並ぶ自分の文字でさえもぼやけてしまう。もう少し大きく書けばそうでもないのだろうが、そうすると便箋の罫線との間に入りきらないし、手紙としても不格好になってしまう。さらに言えば、俺は元々字が上手な方ではないのだ。望んでもいないのに続け字のようにゆるゆると繋がっていく文字を、娘と妻はよく「波線!」と言って馬鹿にしていた。

「ひらがなで書かなくてはならないのが、また地味に辛いな……」

 手紙は小学生になる孫にでも読めるようにとひらがなで書きたい。けれど、ひらがなだと余計に意味が分かりづらくなってしまう。

『卒園と進学、おめでとう』という簡単な一文でさえ、『そつえんとしんがく、おめでとう』になると急にわかり辛くなってくる。ここに同音異義語など入れば、それは大人でも首をかしげてしまう難解さになるだろう。もちろんそんな難しい言葉を使うつもりはないし、できるだけ簡素な文章で済ませるつもりだが、それでも小学生が理解のできる文字で、かつ、不格好ではない手紙というのは俺には難しかった。

 俺は下書きに書いた波線を見下ろしながら鼻の頭を掻いた。

 もう手紙の内容は出来上がっている。あとは誰かに代筆を頼めればそれでいいのだ。

 どうしたものかと考えて、ため息がこぼれた。それと同時に客が来たことを知らせるドアベルが鳴った。


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