結婚式の手紙1
最近、思うことがある。
私にとっての『幸せ』が、誰にとっての『幸せ』でもあれば良いのに、と。
そんなことは絶対に起こりえないし、私の『幸せ』は大半の人にとって、『どうでも良いこと』だろう。それはわかっている。
けれど身近な、私の『幸せ』を願っている人ぐらいには、私の『幸せ』が彼らにとっての『幸せ』であってほしいと切に願ってしまう。
私の『幸せ』には、きっと棒が一本足らない。
その二階建ての一軒家は、一見おしゃれな喫茶店のように見えた。
白いモルタルの壁にはめ殺しの大きなガラス窓が三枚。
その窓の間にある出入り口の扉も大部分がガラスで占められていて、外から見ても中の様子がなんとなく見える作りになっている。
窓ガラスを囲うのは紺色の木枠。建物の周りには背の高さ半分ほどの木が植えられていて、そこには紫色の小さな実が成っていた。
三角屋根の一軒家を改築したと思われるその建物に看板は出ていない。
「きっと、ここよね?」
その建物を見上げながら、私はそう呟いた。
今日は午後から休みを取ってここに来ているので、まだ太陽は高く、明るい。
四月のはじめということで、風はまだ少し冷たかった。
目的の建物の隣には寄り添うように一軒の古民家がある。
黒い瓦に黒い柱や梁。格子型になっている引き戸や、二階の窓からせり出した小さなバルコニーのような高欄も真っ黒である。それらの黒を引き立たせるように壁だけが一際白い。
まるでそこだけモノクロの世界から飛び出したかのように、黒と白の色しか使っていない古民家の方には、隣の喫茶店風の建物とは違い、看板が掛けられていた。
しかし、看板には理解しがたい文字が並んでいる。
横文字で『具房文八倉』
「ぐぼうぶん……?」
「倉八文房具、ですよ」
「――っ!?」
いきなり背後からかかった声に私はびっくりして跳び上がる。
慌てたように後ろを振り返れば、そこにはおっとりと微笑む男の人がいた。
その手には箒とちりとりが握られている。
恰幅のいい腹に、大柄な体躯。くりくりとしたつぶらな瞳に、よくわからないマークのついたエプロン。垂れた目尻には笑い皺が寄っていて、全体的に丸みを帯びたフォームが、どこかゆるキャラやご当地マスコットのような雰囲気を漂わせている。
短く切りそろえられた栗毛の髪の毛は清潔さを醸し出しているが、少し癖があるようだった。
成人男性を表す言葉ではないかもしれないが、なんだか彼はとても可愛らしい。
彼はその丸い瞳を細めて目尻の皺を更に窪ませた。
「ほら、少し前まで横文字は右から書いていたでしょう? これはその時の名残が残っているんですよ。結構味があって良い看板ですよね」
そう言いながら、ほっこりと彼は微笑んだ。
自分たちが生まれる前の出来事を『少し前』と言ってしまう彼は、どう見積もっても三十代半ばぐらいだろう。
八十代、九十代の方が『少し前』と言ってしまうのならわかる気もするが、三十代半ばでその時代のことを『少し前』と言ってしまうのは違和感があった。
なんだかその時代のことを知っているような口ぶりである。
「ここは夕方までは開きませんよ。どうしても欲しい物があるということでしたら、鍵を開けますが……」
私を文具屋の客と勘違いしたのか、彼は古民家に視線を移しながらそう言った。
鍵を持っているということは、彼が文具屋の店主なのだろか。
しかし、それならば店が閉まっているのはおかしい。
そもそも、どうしてこの文具屋は夕方からしか開かないのだろうか。
「貴方は……?」
色々な疑問がまぜこぜになって、気がつけば彼にそう質問をしていた。
その問いに、彼は私の目的地である喫茶店風の建物を指す。
「ここの隣で代筆屋をやらせていいただいている四月一日という者です。手紙や書類の代筆。企業さん向けだとキャッチコピーとか、看板の文字なんかも書きます。まぁ、文字に関する何でも屋だと思っていただければ良いですよ」
「貴方が四月一日さん?」
「はい、僕が四月一日です。……もしかして、うちの方にご用でしたか?」
その言葉に私が頷くと、彼はきらきらとした嬉しそうな笑みを浮かべた。その瞳には星がちりばめられているかのようだ。
そうして、彼は私のために道を空けてくれる。
「どうぞ」
私は彼に促されるまま、その一軒家に足を踏み入れた。
店内は外観以上に喫茶店っぽかった。
内装は焦げ茶色の木を基調としていて、全体的にレトロ感が漂っている。
縦長の店内には長いカウンターと机が二つ。吊り下げられた照明には薄い平皿のような傘がかかっていた。
壁に取り付けられている棚の上にはなぜか盆栽。しかも結構古そうな木だ。まるで両手を広げたような松の木は素人目から見てもとても立派な代物だった。盆栽には詳しくないけれど、もしかしたら高価な物なんじゃないだろうかと少しひやひやしてしまう。この棚から落ちれば盆栽なんてひとたまりもない。
四月一日さんはカウンターの方へ行くと、奥の部屋に向かって「ヤコさん、お客さん来たよ!」と声をかける。その声に呼応するように「へーい」と機嫌の悪そうな声が聞こえた。
しばらく待っていると、奥から金髪のイケメンが顔を覗かせる。本当にびっくりするぐらいのイケメンだ。
金糸のような髪の毛に切れ長の目。服装はいかにも今時の若者といった感じのオシャレさんだ。年齢は二十歳前後ぐらいだろう。
そんな彼の見た目での欠点を一つ挙げるとするならば、目つきが鋭いナイフのようで、怖い。なまじ顔が綺麗なだけに余計に怖いし、恐ろしい。
柔らかい雰囲気で人なつっこい笑みを浮かべる四月一日さんとは、色々な意味で対照的である。
彼は奥に通じる扉から顔を覗かせ、私を見るなり鼻筋を窪めた。
そして、さっさと奥に引っ込んでいく。
その睨んだ顔はもはやそこら辺のゴロツキそのものだ。
「えっと……今のは……?」
「ちょっと待っていてくださいね」
にこやかな顔で四月一日さんがそういうものだから、私はカウンター席に腰掛けて彼を待った。
その間に私は代筆屋の注文書を書いていく。名前と住所、電話番号。
書かなくてはいけない項目はそれぐらいだ。
「名前だけはお呼びするときや手紙を書くときに必要になってくるので書いてほしいんですが、それ以外は任意ですので書かなくても大丈夫ですよ」
四月一日さんに似て、何ともゆるゆるな注文書である。
私は名前と電話番号だけ書いて渡す。住所を書かなかったのは個人情報を大事にしているというわけではなく、単に面倒くさかったからだ。
「佐伯春香さん、ですね。春香さんとお呼びしても?」
「はい。大丈夫です」
「私のことは好きに呼んでくださいね」
まるで友人に言うように彼は砕けた笑みでそう言った。
四月一日さんはカウンターから出て、窓ガラスのロールスクリーンを下げる。すると部屋の照度が一気に下がり、更に落ちついた雰囲気になった。
もう外の風景は入り口の扉からしか見えない。逆に中の様子も外からは殆ど窺えなくなってしまった。
恐らく、彼は私のプライベートに配慮してくれたのだろう。
代筆屋を利用したというのは、確かに隠したい人もいるかもしれない。
見る人によっては、それが手間暇を怠ったということに直結するからだ。実際はどうであれ、そういう印象を誰かに持たれるのは確かにあまりよろしくない。
(あぁ、だから看板が出ていなかったのか……)
利用する人の心に配慮して看板が出ていなかったのなら、納得がいく。そういった細かいところにまで心配りが行き届いているから、きっとこの代筆屋は看板を掲げていないのにやっていけているのだろう。
私はそう勝手に理解をした。
それから数分も経たないうちに、ヤコさんはお盆に何かを乗せてやってきた。
「ん」
そして、私の前にお皿と薄桃色の湯飲みを置く。がんっ、と。
乱暴ではないが、決して丁寧には置かれなかった。
「ヤコさん! もうちょっと丁寧に!」
「へいへい」
面倒くさそうにそう言って、ヤコさんはそのまままた店の奥へ消えてしまった。愛想もへったくれもあったもんじゃない。
そんな彼の態度に四月一日さんは頬を掻いた。
「ヤコさんが無愛想ですみません」
「……いえ」
「でも、味は折り紙付きですよ。それでも食べながらのんびり話しましょうか」
彼の視線を辿るように私は目の前の皿を見た。するとそこには丸くて白い物体が乗っている。大きさは私の拳と同じぐらいだろうか。それはまるで粉でも吹いているかのように全体が白い粉で覆われていた。
「ちょっと大きいけど……大福?」
「良いですねー。今日は当たりですよ! ちょうどこの前、とってきたんですよ」
とってきた? なにを? 大福を? と、一瞬にしていろいろな疑問が湧いてきたけれど、そこは口を噤んだ。あまり話を脱線しすぎてもしょうがない。
私はここに大福の話をするために来たわけではないのだ。
へらりへらりとした腑抜けた笑みを収めて、彼は居住まいを正した。
そして、暖かな低音を響かせる。
「さて、今日はどんな想いをお届けしましょうか?」
彼は人の良さそうな笑みを浮かべながらそう言った。
まるでそれは彼の決め台詞のようだった。