そんなもん
信二は、ジョッキに入ったレモンサワーを握りしめながら、半分泣いている目で遼太郎の方を見た。
「俺はさあ、後悔してるのかなあ」
何度目かになる信二のそのセリフを聞き流して、遼太郎は大衆居酒屋の少しうるさすぎる心地よさに身を預けていた。
「もう、佳奈子を振ってから一か月以上たつのに、まだあいつのこと考えちまうんだよ。違う女のこと考えようとしてもさ、あいつの顔がちらついて、どうもうまく動けねえんだよ」
「そいつはたいへんだなぁ」
冷めてしまったことに作ってくれた店員に対して少しの申し訳なさを感じながら、遼太郎は残っていた砂ずりの串焼きを口に入れた。ティッシュを噛んだような感触と、やけに主張の激しい塩味が口の中にのそりと座って、いつまでも喉を通ってくれない。「温かいうちはもっとおいしかっただろうに」と砂刷りに対する申し訳なさを上乗せしてから、砂ずりを無理やり飲み下した。
「とりあえず、食えよ。飲んでばっかりだと胃に悪いぞ」
飲酒の量に比例して増えていく信二の泣き言。泣き言の量に感化されて胃に入って行く酒。信二のそんな状態を見て、遼太郎は早々に一人で帰らせるのを諦めていた。おそらく、うちへ一緒に連れて帰ることになるだろう。
「ありがとうよお。ごめんよこんな女々しいやつでよお」
「長く付き合ってたんだ、そうもなるさ」
信二は、四年だか五年だか付き合っていた彼女と最近別れた。理由は「将来ずっと一緒に居るには、信頼関係に不安がある」だそうだ。振ったのは信二だから、信二なりのゆずれない部分や矜持のようなものがあるのだろうけれど、理由を聞いた遼太郎が思ったのは、言われた彼女も理解できないだろうな。という感想だった。
信二と遼太郎は小学校からの付き合いである。信二は昔から、変わった奴だった。小学生の時、授業の一環で人参を育てていた。プランターは、遼太郎の右隣りでないといけない。学校の一輪車は黄色い色の方がうまく乗れる。本棚に並んだ漫画は背の順で、シリーズごとに右から一巻じゃないと気持ちが悪い。左隣を歩かれると違和感があるなど、変なところで頑固でこだわりのあるやつだった。そのこだわりは、時々遼太郎の理解の範疇を越えることもあった。
そういう変わったところがめんどくさくも面白くて、ワンマン行動が多く友達が多くない遼太郎だが、信二とは特別仲良くしていた。
小学校からの付き合いだが、信二が涙を流すのを見るのは久しぶりだった。中学生の時に愛犬が死んだのを見たとき以来だろうか。自分の行動に後悔していると信二の口から聞くのは初めてだった。
はじめは興味深くて面白かったのだが、さすがの遼太郎も飽きがきている。
「ほれ、お前が食べたくて頼んだ手羽先、冷めてきてるぞ」
「ああ。ごめんよ。本当にいろいろとごめんよ。ありがとうな愚痴聞いてくれて」
「わかったから食え」
とにかく、信二の気持ち悪いという言葉で起きるのだけは嫌だった。遼太郎も信二も翌日は仕事が休みだが、酔っ払いの回復待ちで休みを潰されるのはさすがの遼太郎も看過できない。
「何も悪くないんだよ。俺が臆病だっただけなんだよ」
「そうだな」
遼太郎の頭の中には、信二の彼女……元彼女の顔が浮かんでいた。目の大きい犬みたいな彼女だった。自己主張の激しそうな彼女と、同じように我が強い信二は、傍目には衝突の多そうなカップルだっただろう。けれど、遼太郎は信二のベタぼれ具合に気付いていた。犬みたいな彼女に対して、噛まれるのも吠えられるのもリードをちぎって逃げていかれるのも信二は恐れていた。
遼太郎と違って気持ちをストレートに出す信二だが、遼太郎と同じように友人が少ない理由の中に、元彼女の存在は少なくない。ご機嫌取りとまではいかないが、深い愛情の裏返しというのならば、恋愛というのは難しいのだろうかと考えていた。
遼太郎自身、今まで彼女が居なかったわけではない。しかし、比較的ドライな付き合いを好む遼太郎は、一人の女性と長続きがしなかった。
「お前は偉いよ。一人の女に五年も尽くしたんだから」
いよいよ鼻をかんだあとのティッシュのような様相を呈してきた信二。サラダや余っていた焼き鳥なんかを無理やり食べさせて、信二を落ち着かせようと試みる。
「偉くなんかねえよ。最後まで結局、信じるなんて口だけだったんだ。俺はいつまでも、あの子を信用できなかった」
一度だけ、子犬の元彼女が信二を裏切ったことがあった。それ以来、信二は臆病さを増した。信二は、臆病と愛情を取り違えてしまったのかもしれない。それも愛情の形なら、恋愛感情なんて簡単で安易なものだと、遼太郎は思った。
「余裕を見せるべきだったんだ。そうじゃないと、あの子にも負担だっただろう。俺が臆病だったばっかりに、俺はあの子を振るなんて選択をしてしまった」
「それだけ好きだったんだろう」
遼太郎は店員を呼んで、お冷を一つ頼んだ。過剰な作り笑いと共にやってきたお冷を信二に渡して、遼太郎は食べきれていない料理を片づけにかかる。
「わかった遼太郎。俺、あの子ともう一度話をするよ。間違っていたってきちんと話をする。そんで、仲直りしてまた一から始めたい」
「おう、お前がそうしたいならそうしろよ」
そうなると思ったよ。遼太郎は、その言葉を喉の手前で留めた。ああ、信二も安い少女漫画みたいになってしまった。失望に似た虚無感を感じた遼太郎は、少しだけ残っていた日本酒をあおった。
なんてことがあったのが、二年前のこと。
遼太郎は今、タキシードに身を包んだ信二の背中を見ていた。信二の隣にたつウェディングドレスの女性は、懐いたペンギンを思わせる小柄な人だった。犬のようにきゃんきゃんと吠えず、猫のように気まぐれでもない。後ろをぺたぺたとついてくるような、可愛らしい人だ。
居酒屋泥酔泣き言事件と遼太郎が名付けたあの翌日、信二は元彼女とよりを戻した。しかし、三か月ほどで別れてしまった。信二曰く「一か月で変わってしまった」とのことで、二度目の別れはえらくさっぱりしたものだった。
結婚式は滞りなく進み、披露宴も終わって二次会へと向かう道すがら、遼太郎はコンビニの喫煙スペースに立ち止まって煙草をふかした。
二度目の分かれ話をした信二の顔を思い出す。一度目が何でもなかったような顔は、変なこだわりについて語る信二だった。
「好きだのなんだの言ったって、所詮みんなそんなもんだろ」
遼太郎の吐く煙草の煙に文字が浮かぶのなら、そんな言葉が描いていたかもしれない。そして、「そんなもん」な信二が、みんなが、遼太郎は面白くて仕方がなかった。
遼太郎は灰皿の底へ、吸い殻と一緒に結婚願望も捨てた。見ている側だけで十分だ。自分には向いていない。遼太郎はぼんやりとそんなことを考えた。