STEP4 最後の女神 72
八年前に九十一と言うことは、文香との年の差は。
文香は今、七十一だから。
愛美が計算していると、文香が横合いから口を挟んだ。
「十五の時、四十三才の夫と結婚しましたの」
愛美は、驚いた。
いくら昔は女性の婚期が早かったとは言え、十五才とはまた幼い妻だ。愛美よりも、年下ではないか。
「二十八も違ったんですか」
親子ほども年が離れている。
「うちも元々裕福な家庭でしたけれど、取引相手の財力に目をつけて、興入れさせられましたの。当時の結婚なんて、それが当り前でしたわ」
つまり、政略結婚という訳か。
「政略結婚でも愛せたんですか?」
夫が六十歳になっても、まだ文香は三十二才だった訳だ。
枯れていくだけの夫と、まだまだこれから一花も二花も咲かせられる妻。
あたら若い一度きりの人生を、父親と同じぐらいの年の良人の世話に明け暮れて終わるのを、悲観しなかったものだろうか。
それこそ人事。大きなお世話かも知れない。
文香はチェス盤の駒を元に並べながら、
「もちろん。私の全てでしたわ。それ以外の方など、知らないんですもの」
と、言って、ほんの幼い娘のように微笑んだ。
この屋敷に嫁いだ十五の時のままで、心の成長を止めてしまったかに見える。
七十一になる女の笑顔とは到底、思えない。
しかし、老人はある意味子供に最も近い存在ではないか。
テレビなどで見る認知症の老人の目は、鈍いようでいて不思議に澄んでいる。
無垢な赤子の目のように、世の中の汚いものを見ずに済む瞳の透明度だ。
赤ん坊は成長するにつれて社会の澱を知っていき、無垢を失い、老人は世の中の汚れを知り尽くした詫びとして、再び無垢が死ぬ前に与えられるのかも知れない。
原点回帰のように。
しかし文香は、本当に根っからのお嬢様なのに違いない。
骨の髄まで、染み付いているのだ。
人間を、型に当て填めてしか見ることのできない人間。
使用人や、役に立つ人間という肩書きしか必要としない人。
文香は老人ではあるが、今だって美しい。
交際を求める男は、それこそ何人でもいるに違いない。文香の財力を、含めてにしても。
しかし文香は、そんな男達を虫けらぐらいにしか見ていないに違いなかった。
肩書きを得るに相応しい人間以外は、彼女にとって無に等しい。
それがここ何日か、老女と過ごして分かったことだ。
「君乃もそうでした。戦時中という時代が時代でしたし。まだ年の近い男の方と言えば、榊原さんだけ。どうやら、思いを寄せていたようですわ」




