STEP3 Starless 99
生きていた。あの女が。
とっくに病で倒れたことになっていた女は、実は家を捨てたのだ。死亡したと言うのは、外聞を憚ってのことだったに違いない。
晃がその事実を知っていれば、どうしただろう。
綾瀬は珍しく埒のないことを考えてしまい、自分を嘲笑いたくなった。
「どうするおつもりですか?」
綾瀬は、ついに仮面を脱ぎ捨てた。
悲痛な表情を浮かべた綾瀬を、老婦人は優しい慈母のような微笑みで包む。
「仕事を頼もうと思っていたの。あの可愛い女の子に。あの子が来てくれるものとばかり思っていたのだけれど」
老婦人の言葉は、作ったところのない無邪気なものだ。
「生憎、躾ができていませんので、置いてきました」
綾瀬はすぐに無表情な顔に戻ると、再び普段の綾瀬になった。
「ほほ。年頃の娘を躾るのはどだい無理というもの。今度は、あの子一人で寄越して下さいな」
もう流れは、止めることができないのだ。
綾瀬は、確かに承りましたと言うように、軽く頷いて見せた。
愛美がクラブリスキーと関わった時、既にこの展開は決まったも同然だったのだ。
ここで綾瀬が愛美を止めたところで、始まった流れに逆らうことはよっぽどでない限りできない。
リスキーのパーティーに潜入したのが、従来通りの西川で、愛美が関わっていなかったとしても、この世界に生きている限り、遅かれ早かれ出会うことになったのも分かり過ぎたことだ。
綾瀬は用はこれで終わったことを悟り、失礼にはならない程度の動きで、老婦人に背を向けた。
「楽しみにしていますわ。愛美さんに会うのをね」
綾瀬はもう何も言わずに、扉に向かって歩いていった。
ここは、綾瀬の作り出した場所ではない。
老婦人の領域だ。
人の土俵で相撲をとることほど、分が悪いことはなかった。
綾瀬はサンルームを辞去すると、一刻も早くこの場から離れたいと言うように、廊下を大股で歩いていく。
玄関ホールの手前で、綾瀬は奥の廊下に何か茶色のものが動くのを見た。
綾瀬は少し立ち止まると、ある筈の二階を窺うようにする。
すぐに何もなかったように歩き始め、先ほどの執事の無言の礼を受けて、屋敷内から送り出された。
綾瀬は、車寄せに停められた車に辿り着くと、一瞬後部座席に目をやって愛美が眠っていることを確かめた。
車に乗り込むと、ようやく綾瀬は少しだけホッとする。
皮の座席に身体を沈めると、暫く動かずにいた。
思わず綾瀬は、深い吐息を吐く。愛美は何も知らずに、ただ無心に眠り続けている。
まるで王子様のキスを待っている、眠れる森のお姫様だ。
綾瀬は、後部席に眠る愛美に腕を伸ばしかけた。
このまま眠り続ける方が、どれだけ楽だろうか。
流れを変えられるとすれば、方法はそれしかないだろう。
綾瀬が、ほんの少し手を触れるだけで、愛美は永久の眠りを貪ることができるのだ。
何も知らず何も見ずに、夢もない眠りを。
それは、光の届かない深い闇だろう。
そして自分は、罪を作るのか。
綾瀬はそう自問自答しつつ、目を閉じる。
そして綾瀬は、愛美に手を伸ばした。
――悪いな。




