惡の施術
補足。
薬の正体は感情によって自己回復機能を増長させるもの。
(笑顔が自己免疫力を高めるようにそういった精神と肉体の関係性における活性化を手助けする薬)
試験薬なので失敗もしており、憎悪や悪い感情に反応して自己破壊細胞を生み出すため、日頃から人を憎んだりネガティブになっている患者に使用すると際限なく服用者の肉体を破壊し死に至らしめる。
その苦痛は癌の全身転移と同じくらいの激痛をもたらす。
新庄が一般的な人間の限界を越えて活動するために服薬していたのは同じ薬。
新庄はプラス効能のみを活性化させる手段を知っている。
この薬は司法解剖しても検出されない。
「おめでとう、新庄君」
男は白衣を纏った者達の拍手に包まれて卒業証書を手にしていた。
「首席卒業おめでとう、新庄君」
「ありがとう」
凛と通った鼻筋に綺麗なラインを持った顎。
薄い唇と聡明な瞳は新庄という男の顔立ちだった。
その眉には一縷の陰りもなく、新庄は希望に胸を躍らせながら院内を歩いていた。
「新庄君、ちょっといいかね」
この学院での理事長が新庄に話しかけるのもこれが最初ではない。
少なくともそう思わせるだけの親しみが2人の間には感じられた。
「この間の論文、実に素晴らしかった。人の感情が及ぼす自己治癒能力と自己破壊能力、この2つをコントロールする医学的なアプローチについては学会でも大変な評判だったよ。アメリカの医療学会も注目しているほどだ」
「恐れ多いです」
「時に新庄君、君は今1人かね」
理事長の瞳には期待が見え隠れしていた。
時折でかい鼻をひくつかせながら話すその様子は実に奇妙である。
この少々不摂生が祟り始めたような体の遺伝子を継ごうという気は起きない。
しかし理事長がそういう話を持ちかけるかも知れないことを新庄は察していた。
「申し訳ありません、僕には婚約者がいるんです」
理事長の目は如実に細くなった。
新庄とて譲れぬ一線だったのか……新庄は理事長の顔をじっと見つめた。
ふと理事長の頬が上がる様は不気味としか例えようがない。
「はっはっは、実にしっかりしているようで安心したよ。何、ちょっとした確認だ。それではな……」
理事長の尻目は鋭く光っていた。
今にも舌打ちをしそうな表情を新庄は想像して聞こえない溜息を着く。
〇〇〇
バイブ機能に急かされるように新庄は携帯を持ち上げる。
繊細でいて無骨さも残す長い指を画面にスライドさせた。
画面には 住西静佳と書かれている。
雨を傘に打ち付けながら取った携帯の向こうでは女の澄んだ声が鳴った。
『もしもし 湊人? 今どこに居るの?』
雨の中でもよく通ったその声は新庄の胸にわずかばかりの動悸を与える。
「もう近くだよ」
マンションの一室から濡れるのも構わず身を乗り出して手を振る彼女は遠目から見て新庄は傘の縁を上げた。
「濡れるよ」
『大丈夫!』
小学生の頃から近所付き合いで仲良くなった住西と新庄は今はこうしてお互いに想い合う仲になっていた。
中学、高校と友達として付き合っていくうちに両親が婚約する話を進めてきた。
最初は冗談のような話も自然と今の形に進み落ち着いている。
とどのつまり、2人の相性は良く合っていた。
『早く帰ってきてっ。ほら、ダッシュ』
「やだよ、濡れるじゃないか」
『濡れたら乾かして上げるから』
「はいはい」
電話を切ってマンションに入ると新庄の肩にわずかな疲労が乗ったようだった。
しかしマンションの605号室を開ける前の新庄にその疲れの様子はない。
「おかえりなさい」
「ただいま」
住西静佳の姿がそこにある。
美人と例えるには少し角が丸っこく、どちらかというと愛らしい女性。
栗目の瞳にすっと伸びた眉、丸い小鼻と少しふっくらとした頬は愛らしさが際立って優しげな雰囲気がある。新庄にとっては医者を目指すきっかけにもなった女性だった。
「湊人、ちょっといい?」
手招きする静佳の声に引かれるようにして新庄が行くとテーブルの上にはケーキが載っていた。
「あ……」
「今日は私たちの婚約記念日だよ」
新庄は少し頭を悩ませるような仕草をしてから鞄の中にあったとっておきを取り出す。
膝を折って湊人は静佳の手を取った。
そっとその上に乗せた小さな小箱には輝くリングが挟まっている。
「結婚してほしい、静佳」
息を呑む静佳を湊人はじっと見つめていた。
「……うれしい」
ふと新庄の顔が緩むと同時に静佳は目尻を指で拭う。
「君が病気で倒れたとき、俺は君を救うために医者になりたかった。君の幸せを想う気持ちは今でも本物だ」
静佳は新庄の胸で何度も頷いた。
雨脚が弱まることはなく、新庄は今日が何故雨なのかと窓に視線をやった。
遠くで見つめるカラスが鳴くとなぜか新庄をざわつく気持ちにさせる。
〇〇〇
「縫合頼む、お疲れ」
「お疲れ様です」
あれから1年、新庄湊人はまだ静佳と結婚してはいなかった。
静佳の体に特異な病気が見つかり、長期に渡って経過を見ている。
転移が発覚すれば外科手術も考えられるが、少し難しい位置にあるためまずは様々な最新医療での治療が試されていた。
「新庄先生は若いのに凄いな」
「患者は増える一方なのに医師は少なくなるばかりですから貴重ですよ、新庄先生のような人材は」
「オペの予定なんてほとんど休みなしで入れてますし……一体どんな精神力と体力をしているんだか」
精密機械と揶揄されるほどの新庄のオペは天才的と評されて久しい。
早くも頭角を現した若き天才外科医に世界中が注目を集めていた。
その手の雑誌にさえ載っている。
「新庄君、今度の休みだがうちの娘と1つ会ってみてはくれないか」
理事長の露骨なアプローチに新庄は首を静かに振る。
「申し訳ありません。そのお話でしたら……」
「ふむ、そうは言うが君がなかなか結婚しないという話を風の噂で聞いてね。娘なら丈夫な体だし、元気な子も産める。将来的にこの医院だって君のものになるぞ」
何も隠そうとしない院長の瞳は奇異だった。
新庄が一言謝ってから退室すると翌日新庄の担当するオペに横島という先輩が着くことになった。
その日の新庄は唐突に仕事を追い出された格好になったので新庄は理事長室に向かう。
「なぜ横島先生が?」
「最近君の担当が多いだろう? 少し休息が必要だと思ってな。俺もオペの予定を組むことになった」
「そうですか」
実際のところ新庄は少しオーバーワークだった。
その証拠に新庄の私生活は食事も満足に取っていないほどでカロリーメイトを常備している。
原因は――
「新庄君、この間の研究結果をまとめた資料だ。目を通して置いてくれ」
理事長の手渡してくる資料はどれも新庄が論文として執筆したものを検証するデータだった。
下手をすれば非人道的と取られかねないような実験データまで理事長は新庄に手渡していた。
「発展途上国では金さえ払えば臨床試験はできる」
自分が立案した研究を遂行されることに新庄は下手に抗議できなかった。またそれは静佳のためでもある。
「論文はともかく学会で発表するデータの整理はしておいてくれ」
携帯の着信も無視して新庄はその資料に目を通した。
昼か夜か、何日経ったのかその違いさえ曖昧になるほど新庄は働き詰めていた。
静佳の病気はステージ4。
簡単な手術ではない。より確実な方法は外科的な手術だけに収まらない。
可能性を1%でも高くするためには新しい手法が必要だった。
「ねえ、私の手術は……湊人にしてほしい」
その会話は携帯か、現実に向き合ったのか。新庄の記憶は曖昧だった。
ただ静佳の手術スケジュールは何人もの手術の合間にひっそりと書き連ねられていた。
まるでこの紙切れに記された機械的な記帳が命の全てのように。
――記憶がない。目に痛い蛍光灯を消しながら新庄は単純にそう感じた。
暗闇の洗面台で新庄は自分の姿を久しぶりに見た。
窓から差し込む月明かりに朧気に浮かぶその顔は術後の自分にしてはおかしかった。
窶れた頬、暗く沈んだ眼窩、紫を見せようとしている唇。
それを隠すために新庄は薬を服用する。
自身の理論によって開発された新薬。試験薬だった。
なぜ自分は医師になったのか? 問いかけは愚問だった。自分にしか救えない命がある。
しかしそれは責任と同時に逃げ場のない檻でもあった。
「俺は、間違っていなかったはずだ……」
廊下を歩いているうちに新庄は頭痛を覚えた。
今し方、そうたった今し方オペは終わったことを思い出す。
誰の? 新庄は駆け込むように走り名簿を捲る。
自分のデスクを掻きむしるように名簿を探しそこに今日の担当を見つけた。
「住西……静佳……」
なぜか、間違えたと思った。
同僚が蛍光灯の下にやってきて妙な顔をした。まるで、困ったような憐れみのような視線。
「先生、今日のオペは……」
自分に施している新薬のせいではない。
新庄は急に天上が回ったような感覚に崩れる。
「新庄先生!?」
視線を地面に這わせている自分を不思議に思っているとそのまま休息に眠気が襲ってきた。
〇〇〇
降りしきる雨は新庄が静佳に結婚を申し入れたあの日と同じだった。
「君に静佳を預けた私が馬鹿だった……」
住西静佳と書かれた位牌の前に新庄は立ち尽くしている。
いつもの新庄であれば難しい手術では決してなかった。
しかし、新庄はその日精細さを欠いていたと同僚たちは語る。
母親の泣き崩れる姿と父親の罵りを受けて掛ける言葉も見つからないまま新庄はその場を立ち去った。
手術を失敗したことで地方へ転勤することになった新庄にとってはもはや静佳を除いた繋がりなどあろうはずもなく、新庄はかつてのマンションへと赴く。
いつもであれば出迎えてくれるはずだった静佳の姿はもうない。
今は閑散とした自室。そこにかつてあったもののほとんどは研究資料であった。
後任は理事長と懇意にする医師に全て受け継がれることになっているため、そこにはもう静佳との思い出である写真立てしかない。
「うそだ……」
新庄から漏れた言葉はそれだけだった。
しばらくしてから新庄の脳裏には静佳の声が蘇る。
『早く帰ってきてっ。ほら、ダッシュ』
膝を折って屈む新庄は首を振った。何度も呟きながら。
「こんなことならもっと早く……こんなことならもっと……」
握った拳は血の滲むほど白く染まっていく。
新庄は記憶を振り返る。
あの手術は思い返してみても再発の恐れがあった。
手術はいくら簡単に終えてもその後、再発しないとは限らない。
だからこそ新庄は新薬の開発に全力を注いでいた。
皮肉にもその試験薬は今は新庄の手にあり、それを服用するはずの本人はこの世を去っていた。
最後の通勤に新庄は足取りを重く病院へ向かう。
同僚達の不憫な眼差しとは裏腹に何故か期待の籠もった活気を新庄は感じていた。
「残念だ、新庄先生」
そう新庄に話しかけたのは横島だった。
「せん、先生は……」
あの日、新庄の予定に横島の担当するオペはなかった。
住西よりもなぜか優先されたクランケに新庄は疑問を隠せない。
「すまなかったとは思ってる。私の担当していたオペが急に出来なくなったことについては……しかし、俺もあの日は急に身内の不幸があったんだ。冷静にオペをする自信がなかった」
それ以上、新庄は横島を問い詰められなかった。
ただ妙なつっかえと違和感を覚えたまま新庄はその日1日クランケの後継ぎ作業に追われていた。
「新庄先生」
そんな日の午後になって看護師から急に呼び出された新庄はクランケの前でなぜか雑言を浴びていた。
「あんたがうちの息子を担当した医師か!? まったく冗談じゃない! 予定と違う先生にされた挙げ句に完治の予定日が1週間も遅かったじゃないか!」
「予定は、あくまでも予定ですから……患者様の状態によっては――「黙れ!」
看護師の説得も聞かず、患者の父親は息巻いていた。
「うちの息子は中学3年だぞ!? 今年は受験なんだ! この大事な時に1週間も予定を狂わされた。これがどういうことだか分かるか? 息子の一生がこの1週間で狂ったかもしれないんだぞ!」
隣で父親のように睨みを利かせているいかにも優等生そうな子供。
新庄は握り拳を作るしかなかった。
住西の死と引き替えに今あることをこの親子は分かっていない。
「何とか言ったらどうなんだ、え? 医者は患者の命を救えばその後の人生はお構いなしってか!? あぁ!?」
「そうは申しておりません」
新庄はその後、かつてないほどの疲れを感じてマンションに戻った。
シャワーを浴びていてふと新庄の脳裏に明日からは解放されるという言葉が浮かんだ。
なぜかそんな根拠のない開放感に新庄は震えた。
〇〇〇
転勤先の病院では新庄は歓迎されなかった。
腕利きの医師という肩書きは理事長によって跡形もなく無くされていた。
そのことに気がついたのは新庄がこの院内で自分の噂を聞いてからだった。
「恋人を保険金目当てで殺したかもしれないって」
あるいは曰く、
「家族の借金の形に失敗を依頼されたらしい」
曰く、
「婚約を破棄したかったとか」
新庄の居場所はなかった。
それでも、新庄は患者が求める限りは働き続けようと思っていた。
それは機械的に。
かつて住西がまだ生きている頃の失敗をもう一度やり直すことを渇望するかのように。
「ご快復おめでとうございます」
「……」
患者に声を掛けても新庄に声を返す者は少なくなっていた。
噂を聞いた患者が新庄に不信感を抱くばかりか、人格さえも疑われだす。
そんな状況に新庄は晒され始めていた。
「先生、どうして術後に4週間も入院なんすか」
「それは――」
説明しても患者は新庄を信じなかった。
「俺はバスケに戻らなきゃならないんだよ!」
携帯を取り出した患者はどこかに電話を掛け始めると口汚く電話の相手を罵った。
「ふざけんなよババア! こんな病院藪医者しかいねえじゃねえか! 俺の怪我はもっと早くに治るんだよ! アァ!? わかったらさっさと迎えに来いや!」
携帯を壁に投げつけると患者は新庄を睨め付けた。
「何じろじろ見てんだよ、失せろ。藪医者」
新庄は廊下でぼそりと呟く。
「俺は君を助けたかっただけなのに」
次の患者も同じだった。
「先生、あんたを悪い医者だと思っちゃいない。だけど、金は払えないよ。俺は働くのもやっとだしこの入院で仕事はクビになった」
次の患者も同じだった。
「俺が悪いってか? 早く治らねえ俺が悪いって? 勝手に治してんのはおたくらだろォ?」
次の患者も同じだった。
「なんだよその態度は、患者がいなけりゃ飯も食えねえ連中が神様でも気取ってるのか? 薬はいらねえって言ってんだろが」
次の患者も同じだった。
「こっちには家族があるんだ。早く治してくれ、出来るだけ早くにな。あんたと違って俺は稼ぎが良くないんだよ」
次の患者も同じだった。
「いくら払えば治る? 治らないなら金は払わない。当然だろう? 仕事には納期ってもんがある。目的が達成できない仕事に金を払う馬鹿が何処に居るんだね?」
新庄は頭を抱えてデスクに向かった。
今までの自分が滑稽で笑いを溢し始める。
こんな人間たちのために自分は努力していたのか。
自分はこんな人間たちのために研鑽を積んだのか。
こんな人間たちのために静佳は死んだのか、と。
〇〇〇
「新庄君、最近悩んでいるみたいだね」
酒の席で新庄は先輩の医師に吐露した。噂はいろいろあれど、それを信じない医師もいた。
葛西もそんな医師の1人である。
「それは当然だよ、助けられる命を助けるだけなんだよ僕らは」
新庄が求めた答えはこんなものではなかった。
「君は恋人が死んだ理由をそんな風に求めているのかもしれないけど、命は決して等価なんかじゃない。その命に関わる人がいればそれは等価になんかならないんだ」
葛西は髭の生えた顎を突き出すようにして酒を呷る。
新庄は悔しさに天を仰ぐように酒を呷った。
「これは僕の好きな小説の受け売りなんだけどね、命を救うこととその人本人を、魂を救うことは別ってことかな」
新庄の俯く瞳にその時、暗い光が灯った。
夜の雨に病棟は朧気な光を落とす。
――暗闇に動く影。
新庄の表情は歪んでいた。憎しみに歪んでいた。
静佳を奪った患者の数。その全てと魂の救いのない世界に。
闇に紛れて患者の点滴に混ぜ物をしていく新庄は鮮やかな手際と言わざるを得なかった。
ノズルの隙間に針を差し込み注射器の液剤を混入させる。
たったそれだけの行為を繰り返していく新庄は注射器の内容物がなくなると洗面所へと行き、再び錠剤を溶かして液剤を作った。
「救わないと……静佳を」
静佳はこの薬で救われるはずだった。
その薬の効果は――、
「うぅうぅぅぅ――」
悶え始める患者。
その夜に呻き声が病院中から合唱のように鳴り始める。
「助けてくれぇ」
「苦しい……苦しい……」
「誰か……誰かあぁ――」
看護師たちが原因不明の症状に騒然とし廊下を交差する中、新庄だけは笑みを浮かべていた。
「聞こえる、助けを求める声……そうだ、これで、これなら救える……っ、これなら救える! 救えるから救うんだッ」
新庄は苦しむ患者たちを見て歓喜していた。
慌てふためき運ばれていく患者を見ながら新庄は身震いしている。
「静佳、俺は救えるよ……ッ」
『ほら、ダッシュ』
「今行くよ、静佳――」
新庄は走り出した。
――その日、院内にいた葛西の担当する患者13名が死亡し新庄はどこかへ姿を消した――。