無機
「さぁ、説明してもらおうか。誠一郎」
水面に浮かぶ白い衣を無心で眺めていると、そう折部に声を掛けられる。
声に反応して振り向くと、水面に剣を突き刺した折部と目が合う。その目は決して柔らかいとは言えず、硬く険しいものだ。まだ戦闘は終わっていない。そう言っているようでもあった。
目標を達成した今、俺には欠片ほどの戦意もない。だが、折部の立場からしてみれば、はいそうですかと終わらせられることでもない。
俺という得体の知れない何かを、折部はどうにかしなければいけないのだ。
「あんたは何者だ?」
その問いは最もなもので、最も答えづらい。
だから、言葉を借りることにした。
「あいつが言うには、ノーライフ・ウォーカーって言うらしいぜ」
「ノーライフ? 命無き者……アンデッド――いや、聖水は効かなかった」
警戒した素振りを見せながら、折部は様々な可能性を模索する。
ノーライフ。それはアンデッドや、ゾンビという意味では恐らくない。近しくはあっても、類似点はあっても、同一では決してない。すくなくとも、あいつはそう言わなかった。
「無機の身にて彷徨い歩く者、だってさ」
「無機? ……なるほど、それでノーライフか。つまり、今のあんたは生き物じゃあないって訳だ。有機的ではなく、無機的なもの。極端なことを言えば、人よりも岩や鉄に近いのか。聖水が効かないのにも筋が通る」
生き物ではない。無機的な存在だから、聖水を浴びても平気だった。
どうやら人間と看做されていた訳じゃあないらしい。もともと、そうだったら良いな、程度にしか考えていなかったけれど。こうして改めて現実を突き付けられると、少々、なんというか、残念だった。
「だが、なぜだ? 人間的すぎる。ノーライフであることに疑いの余地はないが、人格も感情も人としか思えない。戦い方だってそうだ、まるで素人が――」
そう言いかけた所で、折部は一度なにかに思い至ったように口を噤んだ。
「……まさか、そう――なのか? あんたは、つい最近まで生きて……死んだ。ただの」
「あぁ、ただの人間だった」
何処にでもいるような、普遍的な人間だった。
退屈な毎日に嫌気が差したり、明日の授業に一喜一憂したり、長期休みが待ち遠しかったりする。そんな、ただの高校生だった。つい数日前、この公園で――結界に変わってしまったこの場所で、殺されるまでは。
「参ったぜ、こいつは」
困惑するように片手で顔を覆った折部は、そのまま前髪を掴むように掻き上げる。
「あんたと鬼の言葉を鑑みるに、私の推測に大きな違いはないだろう。問題は、その後のこと。死んだあんたが、どうして動いているのか、だ。アンデッドやグールになる理由なら幾らでも知っているが、ノーライフとなると話が違ってくる。異例中の異例だぜ、これは」
その道の専門家である折部が言うのなら、そうなのだろう。
アンデッドでもグールでもない、ノーライフ。
生きても死んでもいない、無機。
生き物ではなく、岩や鉄に近い存在。
無機の身にて彷徨い歩く者。
ノーライフ・ウォーカー。
「あいつに、奪われたんだ」
「……なにを」
「死を」
なににせよ、俺が何者にせよ、どう言った存在にせよ。今此処で俺がなすべきことは、正直に話すことだ。嘘偽り無く、事実を伝える。それが最善、この場を乗り切るための裁量の手段。
公園は、結界と化している。
この先、どうなるにせよ。敵対するにしても、そうならないにしても、結局のところ逃げ道はない。この結界内で折部に勝てる道理がないことは明白だ。どんな愚か者にでも理解できる。
ならば、下手に嘘をついて現状を悪化させるよりも、素直にすべてを吐き出したほうがいい。それで敵対してしまうなら、もうそれはどうしようもないことだ。
「察しの通りだよ。俺はあの殺人鬼――鬼に殺された。数日前に、ちょうどこの公園で。俺がこうなったのは、その時に死を奪われたからだ」
「死を奪われた。だから、生きても死んでもいない。……なら、その死を奪った奴の正体は」
「知らないし、わからない。ただあいつは自分のことを神にも等しい妖怪だって言っていた。それと略奪者とも。それ以上のことはさっぱりだ」
あいつは結局、自分の名前すら名乗らなかった。
俺から死を奪い、餞別をおいて消えてしまった。
今どこにいて何をしているのかも、わからない。
「神……妖怪……略奪者……ふぅん、私にもさっぱりだ」
この世ならざる出来事について、俺よりも遥かに知識深い折部でもわからない。そうなると、いよいよあいつの正体が不明瞭になってくる。俺から死を奪った理由さえも、あやふやなままだ。
「まぁ、わからないことを何時までも考えていたってしようがない。それは一先ず置いておこう。他にもまだ聞かなくちゃあならないことがある。その手の能力についてだ」
手の能力、捕食能力のことか。
それが生物ならば触れただけで捕食できる能力。そう、正確に見抜けるはずもない。だが、彼女のことだ。触れたものを消滅させる能力だと、大まかな理解はしているだろう。そして、それがどれだけ危険な能力なのかも。
「単刀直入に聞く。その能力で、人を――人間を殺したことはあるか」
「ない」
即答した。一切の迷いなく、間髪入れずに答える。
少しの間も挟まなかった。今この場において沈黙や言い淀みは、人殺しの肯定に繋がる。それくらいの判断は付く。事実として人を殺したことなどないのだから、殺人鬼は鬼なのだから、否定の言葉に嘘はない。
「殺そうとも思わない」
「それは今度も変わらないと言い切れるか」
「あぁ、絶対に」
断言した言葉にも、嘘偽りはなかった。
「……なるほど、よくわかった。とりあえず、危険性はない――限りなく低いみたいだね」
「信じるのか? そんな簡単に」
「あぁ、信じるさ。あんたは嘘を付かなかった。ここを何処だと思ってる? 結界の中、私の領域内だ。嘘をついたら直ぐにわかる。まぁ、心が読めるって訳じゃあないんだけどさ」
嘘を付かなくてよかったと、今ほど強く思ったことはない。
判断を誤って嘘を付いていたらと思うとぞっとする。下手をすれば、折部を敵に回していたかも知れない。もし戦ったとして、手も足もでないのは分かり切ったことだ。それに人間相手に捕食能力は使えない。
身体が無機になっても、心はまだ人でいたい。
「よっと」
突き刺された剣が引き抜かれ、飛沫が水面に数多の波紋を描く。その小さな円の広がりが潰えた頃、この結界は役目を終えたかのように消え去る。後に残ったのはいつも通りの風景だ。
星の夜空と土の地面。
元の世界に戻ってきた。
「時間、あるだろ? 誠一郎。ついて来なよ、これから連れて行きたい場所がある」
「連れて行きたい場所? 何処だ、それ」
折部は剣を鞘に押し込めながら、こう言った。
「私達のアジトだよ」