水面から伸びる糸
「気合い入れろよ、誠一郎」
「あぁ」
言葉と共に折部は剣を地面に突き刺し、俺はその前へと躍り出る。
「お前、一人か。女はその後ろで何をしているんだ?」
「休憩だよ。剣を杖代わりにしてるだろ?」
「はっはー。良い冗談だ――なァ!」
強靱な鬼の脚力は背後に砂埃を上げながら、殺人鬼を前へと推し進める。その速度、桁外れな推進力は人智を越えたものだ。だが、人でないのは俺も同じ。鬼には及ばないまでも、生命力を流して強化した自身の両足は人の域を軽々と跳び越える。
互いに人成らざる力をもって地を駆け、秒と経たないうちに激突する。
「――因果の縺れ。恋歌の楔。夢想の果て。焦がれし者」
何らかの言葉を紡ぐ折部の声を耳にしながら、目と鼻の先にまで及んだ鬼の爪を見る。
空を裂く五本の軌道。迫り来るそれら鉤爪に対し、俺は拳を差し出すように突き出した。捕食能力は手の平で触れなければ発動しない。握り込んだそれはただの拳。殴打に過ぎない。だから、砕ける。俺の拳も、殺人鬼の爪と指も。
今の俺の目的は捕食ではなく、一秒でも長く時間を稼ぎ続けること。
捕食能力の未発動と、驚くほど軽微な負傷。その二つが重なり合い、殺人鬼の意表を僅かばかり突く。それによって生じた一瞬の隙を利用し、その赤黒い脇腹を目がけて左手が空を掻く。
「――暗き水底で心を焦し、たゆたう空に手を伸ばす」
本来なら掠りもしない攻撃だった。容易く躱され、反撃に転じられたはずだ。しかし、それでもこの指先は、後退する殺人鬼に微かに触れ、その脇腹をかすめ取る。殺人鬼の脇腹を、半月状に抉り取った。
一瞬の攻防を制し、次なる一手を打とうと靴底で地面を叩く。
直後、視界の右端に何かが映る。赤黒い片足、地面と水平に薙がれる足刀。その事実を視認し、思考の余地を挟む間もなく身体は反応する。
この数日で身体に染みついた動き、相手を捕食するための行動。それがこの局面に反映され、身体は無意識に足刀に対して手を伸ばす。そう、砕けたままの右手を。
捕食能力は発動した。ただし、不完全な形で。
刹那、発動した捕食能力は肉だけを貪り、骨にまで至らなかった。不完全な形で捕食が終わり、残った骨を防ぐ術がない。三度、この身に生じた凄まじい痛みと衝撃は、焼き直しの如く俺の身体を吹き飛ばす。
「――悲恋の水面に姿を写し、寵愛の衣にて其を包む」
公園の遊具に激突し、眩む視界で殺人鬼を捉える。
奴はこちらに目もくれず、一直線に折部へと駆け出していた。今の折部は無防備だ。俺に命を預けている。背負い込んだ命は、必ず守り抜かなければならない。
失った俺だからこそ、背負ったものまで失えない。
すぐに立ち上がり、負傷を治す時間も惜しんで激突した遊具に手をかける。それは公園になら何処にでもあるもの、シーソー。その長細い板を掴む、土台の接合部分から引き剥がす。
そして、投げ付けた。
まさか遊具が飛んでくるとは想定していなかっただろう。シーソーの長板は手裏剣のように回転し、殺人鬼の不意を打つ。無防備な状態で受けた衝撃には、流石の鬼も耐えきれない。一直線に向かっていた進路は直角に折れ曲がり、殺人鬼の身体は何度も転がりながら地を這った。
これで折部のもとには迎えない。
「――思い馳せし絡新婦。糸で紡ぎし衣をもって縛り、手繰り寄せるのは誰か」
直ぐさま身体の負傷を治し、畳みかけるように駆け抜けた。
殺人鬼までの道程はすぐに埋まり、その間合いに足を踏み入れる。
未だに膝をついたままの殺人鬼に、疑問を抱くこともなく。
「間抜け」
瞬間、散布される何か。
膝を付き、殺人鬼がその手に握り込んでいたもの。砂。とても原始的で、子供騙しのような目眩まし。そんな単純なものにさえ、俺は引っ掛かってしまった。眩む視界に怯み、致命的な隙を作ってしまう。
今まで人成らざる身体能力と再生、捕食能力によって誤魔化してきたものが、こんな単純な一手で瓦解した。結局の所、つい最近まで一般人だった俺の戦闘能力などそんなものでしかない。
まるで何もままならない。
「あ――」
貫かれるは、心臓。貫くは、鬼の爪。
意図も容易くあっさりと、この胸は貫かれた。皮膚を裂き、肉を断ち、骨を折り、肺を通って心臓に達し、背中から突き抜けた。喉から込み上げるものを、今度も噛み殺すことは出来ず、大量の血反吐を吐く。
「なかなか楽しかったぜ。だが、ちっとばかし飽きた。ここらで終わ――」
「――はっ! はははっ!」
だが。
「なにが可笑しい」
怪訝な顔をする殺人鬼をみて、ほくそ笑む。
「稼ぎきったぜ、二十秒だ」
「あぁ。よくやった、誠一郎。これで勝てる」
直後、足下が――公園の土すべてが泥沼の如く融解した。
「――不逃結界、相恋縛衣」
その言葉が紡がれた瞬間、周囲の景色が一変する。
昼間の如く明るく、吸い込まれそうな青空に覆われ、果てしなく続く水面が広がっている。ここには土も、星も、遊具もない。あるのは空と水面だけ。俺達はいま青空の下で、水面に立っていた。
「なっんだ、これはァ!?」
その驚愕は世界の一変と、水面の底から這い出してきたものに向けられたものだった。
それは、糸。幾つもの糸が束となり、水面の至る所から伸びている。意思を持つかのようにうねり、糸の束は導かれるように殺人鬼へと集う。当然、糸から逃れようと鬼の足は水面を蹴る。退避を計る。
しかし、そうはいかない。
この胸を貫いた鬼の腕を、みすみす放して堪る物か。爪を立て、指を食い込ませ、絡まりつくように固定する。この胸から引き抜かせやしない。
「行かせるかよ」
「このォ!」
振りかぶられる、もう片方の鬼の腕。けれど、それが薙がれることはない。
すでに絡み付いているからだ。赤黒い皮膚に、真っ白な蜘蛛の糸が。絡み付く、絡み付く。腕に、足に、胴に、腰に、首に。白は赤と黒を塗り潰し、やがてすべてを衣のように包み込む。もはや動くことすら敵わない。
ゆっくりと後ろへ下がり、この胸から鬼の腕を抜く。ずるりと抜けたそれは、瞬く間に白に支配されていく。これで全身が蜘蛛の糸に覆われた。鬼の剛力を持ってしても、この糸が切れる素振りはない。
「くそッ、チクショウがッ! なんで切れねェ!」
「無駄だぜ。その糸は私がここでこうしている限り、決して切れることはない。動けば動くほど、藻掻けば藻掻くほど糸はキツくあんたを縛る。急ごしらえの出来損ないだが、結界は結界さ」
結界。それがこの世界の名前だった。
「さて、誠一郎。残念ながら私はここから動けない。手柄はあんたのもんだ」
「あぁ、そうさせてもらう」
胸に空いた穴に肉を詰めながら、ゆっくりと水面を歩く。
身動き一つ出来ない殺人鬼に、この手を伸ばす。
「よう、俺は負けたのか?」
「あぁ、お前は負けたよ」
この手が鬼の額に触れる。
「よう、俺は死ぬのか?」
「あぁ、死ぬよ」
「そうか」
鬼はそっと目を伏せる。
「あー……もっと暴れたかったなァ」
そして、居なくなった。
やることリスト、その一。
殺人鬼の捕食。
完了。