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時間稼ぎ

「ダメだな。遅すぎる」


 だが、あえなく空を掻く。


 攻撃は空振りに終わり、またしても視界が輪郭を無くして流れていく。


 自分は蹴り上げられたのだ。そう理解したのは腹部に生じた強烈な痛みと衝撃を感じ取り、上空へと打ち上げられた後のことだった。人一人を蹴り上げる脚力。殺人鬼は間違いなく、自分の片足を、もしくは両足を鬼に変えていた。


「く――っぁ」


 遠ざかる地面と、近づく夜空が代わる代わるこの目に映り込む。


 もはや上下の感覚も左右の識別も曖昧になり、ただ勢いに身体を攫われる。上昇しているのか、下降しているのかもついにわからなくなった頃、一瞬の浮遊感を味わった。この一瞬を持って知る。自分の身体はこれで上昇し終わったのだと。


 あとは落ちる。ただ落ちる。


「まだまだまだまだまだァ! 耐えろよォ!!」


 重力に引っ張られて落下し、身動きが取れないまま為す術もなく片足を掴まれる。


 自らの足を圧迫する鬼の握力は骨が軋むほど、何をしても抜け出せない。それどころか脱出しよう試みる機会すらすぐに奪われる。抗い用のない力の流れが、俺の身体を撫で付けたからだ。


 ぐるりと円を描いたのは、俺自身の身体だった。


 爪先が冷たくなり、頭の先が熱くなる感覚。鬼の剛力は人一人を容易く振り回し、遠心力によって体内の血液が一斉に駆け上がる。そして円を描く軌道は、間もなくして下を向く。終着点は地面、俺は遠心力の乗った強烈な勢いのまま地面へと叩き付けられた。


「が――はッ」


 公園の鉄柵に激突した時よりも大きな衝撃が全身を駆け巡る。


 喉から込み上げるものを、今度は耐えきれずに吐き出した。空中に咲く血の花は、一瞬を経て血痕へと姿を変える。


 だが、何故だろう。これだけの攻撃を受けたのに、足以外の骨が折れていないのは。


「間に合ったか」


 その声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には鬼の腕が切断されていた。


「よう、寂しいじゃあないか。私を無視するなよ」


 俺と殺人鬼の間に割って入るよう、折部凛が姿を現した。


 俺の負傷が思ったよりも軽微なのは、折部が何かを施したお陰だ。その証拠に、俺はいま宙に浮いている。いや、正確に言えば地面より数センチ上に敷かれた、透明な膜のようなものに保護されていた。


 衝撃を殺しきれるものではなかったけれど、この膜のお陰でまだなんとか意識がある。


「世の中、信じられないことばっかりだ」


 この数日で思い知ったことを口から零しながら、折れた足に生命力を注ぎ込む。折れた骨が元通りに完治し、未だに自分の足を掴み続けている鬼の腕を捕食する。治った足で立ち上がると、膜は役目を終えたように消滅した。


 それを視認し、目を前方へ、殺人鬼と折部に向ける。


 二人の間にはすでに距離がなく、至近距離での攻防が繰り広げられていた。鬼の槍と鬼の爪、幾度となく描かれる攻撃軌道の網の中、針に糸を通すが如く折部の剣は隙間を縫う。良く見ると刃は濡れて、振るわれるたびに雫が散っていた。


 綻んだ刃を補うためか、剣には水――聖水が振りかけられていた。


「……入り、込めない」


 折部の戦い方は、先ほどとは明らかに違う。


 槍を、爪を、剣で弾くのではなく、受け流している。受け止めずに衝撃を逃がし、剣の損傷を最小限にする立ち回り。その繊細な動きの中に、素人が介在する余地はない。俺が今此処で不用意に手を出せば、確実に折部の邪魔になる。


 流行る気持ちを抑え込み、ぐっと堪えて踏み止まる。何時か来るであろう、好機を待って。


「いいぞ! もっとだ、もっと攻め込んで来い! 剣を握れ、力を込めろ、迷いなく攻めろ、決して引くな。もっと俺を楽しませろォ!!」

「言われなくともそうするさ。ここで引いたら死人が出る」


 嬉々として戦闘に興じる殺人鬼。その爪と槍はより鋭く研ぎ澄まされ、折部に怒濤の如く雪崩れ込む。いなし、躱し、受け流し、折部はそれらを正確に捌く。だが、やはり武器が持たない。剣はやがて棒となり、刃はその意義と輝きを失いつつある。


「――しようがない、賭けに出るか」


 折部が何かを呟いた直後、その動きが一変する。


 剣の消耗を度外視した、振りの大きな一撃を持って鬼の爪と槍を弾く。綻び、毀れ、剣はついに棒となる。得物を貶めてまで作った一瞬の隙、この刹那に繰り出された一手は、飛沫を上げて殺人鬼に降り注いだ。


 それは水。聖なる水だ。


 横殴りの雨のように散った聖水は、悪しき者へと降りかかる。瞬間、熱した鉄を水中に投げ入れたかのような音が響いた。皮膚が、肉が、骨が、融解して溶けていく、酷く耳障りな音が鼓膜を振るわせる。まるで酸を浴びたかのように、殺人鬼は絶叫した。


「包囲」


 その絶叫に混じる、折部の声。


 容赦なく畳みかけるように口にした言葉は、対象の足下にて標的を捉える。


縛鎖ばくさ


 言葉が次々と紡がれ、その意味を成す。


 幾つもの光が地面より現れ、それらはすべて鎖の形を象った。地面より伸びる光の鎖。それらは中心にいるモノ、殺人鬼に向かうとその身体を絡めとる。幾重にも束縛し、その行動を強制的に制限する。


「展開」


 標的を捉え、鎖をもって拘束し、そして上空に幾つもの攻撃手段を展開する。


 いまだ聖水の浄化に苦しむ様子を余所に、夜空に輝く星々の如く、無数の光は散りばめられる。


「斉射」


 無数の光は弾丸となり、ただ一点のみに照準を合わせて放たれる。


 一斉に撃ち出された光弾は、次々に絶え間なく殺人鬼に風穴を開けていく。鎖で拘束されて身動きの取れない中、あれだけの斉射を喰らえば一溜まりもない。俺が同じ立場なら原形すら保てないだろう。


 だが、ふと目をやった折部の表情は、変わらず険しいものだった。


「よう、誠一郎。一つ聞きたいんだが、あの鬼と一人で戦ってどれくらい持つ?」

「……それは、どう言う意味だ?」


 すでに勝敗は決しているように見えた。


 けれど、折部はまだ先を見据えている。この後のこと考えている。戦いはまだ終わっていない。どう転ぶか分からない。楽観的な思考が、一気に現実に引き戻される。


「言葉通りの意味さ。期待してもらったところ悪いんだが、あんなのは豆鉄砲さ。聖水と併用してやっと、その場しのぎの時間稼ぎにしかならない。浄化が尽きたら直ぐにでも動き出すぜ、あの鬼は」


 時間稼ぎ。あの夥しい量の光弾が時間稼ぎにしか過ぎないのならば、この貴重な時間で折部は何をしようとしている?


 そこまで思考がいたり、聞かれたことの意味を理解し始める。


 一人で戦ってどれくらい持つか。


 それもまた、時間稼ぎだ。何かこの状況を打破できる方法が、折部にあるに違いない。そして、それは今の光弾による時間稼ぎと、恐らく同時には行えない。それが出来るのであれば、俺に問う必要などないからだ。


「……よくて三十秒、悪くて十秒くらいだ。時間が稼げるのは」


 一対一で、俺が殺人鬼に敵う道理はない。


 先の行動で、それが身に染みてわかった。純粋な戦闘能力と経験の差。それは捕食能力という強大な力を持ってしても、大きくは縮められない絶対的なもの。子供がバットを持った所で大人に敵わないように、今の俺では殺人鬼に敵わない。


 事実、一対一になった途端に俺は蹴り上げられて行動不能に陥った。不意を突かれたとは言え、時間にしてみれば十秒ほどの出来事だ。だから、恐らくそう長くは持たない。


「上等。二十秒だ。二十秒、時間を稼いでくれればそれでいい」

「二十秒、だな」

「あぁ、その間、完全に無防備だ。私の命、あんたに預けたぜ」

「……ずいぶんと重いものを背負わされたな」


 自分にないものを背負うのは、中々どうして不思議な気分だ。


 けれど、それは決意を固めてくれた。二十秒間、折部には指一本触れさせない。俺が護る。時間を稼ぐ。それが出来なければ、二人仲良く共倒れだ。


「しゃらくせェ!!」


 ついに聖水の浄化効果が切れ、鬼の腕力が光の鎖を引き千切る。それを切っ掛けに光弾の斉射も尽き、今までの時間稼ぎはこれで終了する。


 光の鎖を千切り、光弾を弾いた殺人鬼は、その全貌を再び夜空に晒した時、人の姿を捨てていた。両腕、両足についでその胴や頭までもが鬼となり、全身が赤く黒く染まっている。その額には鬼の証である一対の角が生えていた。

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