生と死の狭間
四月、桜が舞う季節に宙を散ったのは、花弁ではなく鮮血だった。
桜色に染まる地面は真っ赤に塗り替えられ、舞い散る花弁は血溜まりに浮かび赤く染め上がる。そんな凄惨な光景の中に自分はいた。この真事木誠一郎は、絶命していた。
そう、絶命していたのだ。
「おや、目が覚めたようだね」
死んだはずの人間が生き返る。
その昔、異国で墓を暴いてみると棺桶の中が引っ掻き傷だらけだった、という話は良く聞く怪奇譚だ。一笑に付してしまうような馬鹿らしい話であると、生前はそう思っていた。けれど、だが、それがこの身に起きてしまった。
死んだはずの俺は今、生き返っている。
「いいや、違うね。キミは生き返った訳じゃあない。ただ動いているだけさ」
「……あ――あぁ……」
お前は誰だ。そう問おうとしたが出来なかった。
「おっと、先ずはその喉を直したほうがいい」
そう言われて思い出す、今の今まで忘れていた。
自分の喉に、大きな風穴が空いていることを。
俺は死んだ。
文字通りの鬼に、殺人鬼に殺された。
あの人の形から異形に変形した腕に、鬼の如き鋭利な爪に、喉を抉り取られて死亡した。だから、声帯がない。声が、出ない。それどころか、呼吸すらもままならない。
「なに、簡単さ。手の平は血溜まりに触れているんだ。後は、念じるだけでいい」
言われるがまま、命じられるがまま、思考はあることを思い考え始める。
誰に教えてもらった訳でもない言葉を、理屈ではなく理解して念じた。
食べたい、と。
「いっ!?」
瞬間、痛みが走る。激痛が全身を駆け巡る。
機能を停止した器官を無理矢理に動かすように、強制的に蘇らせるように、身体の総てが息を吹き返す。そして抉り取られていた喉は再生を開始し、失われた声帯を再構築していく。
痛みを感じていたのは数秒だった。ものの数秒で喉の再生が終了した。
「こ、えが」
「うん、戻ったみたいだね。よしよし」
身体が動くようになり、そうしてようやく誰かの姿を視界に収める。
その誰かは、真っ黒な和服を身に纏う子供だった。
いや、違う。子供であって子供ではない。姿形は少年のようであり、少女のようであるけれど、いま目の前にいるこの存在は決して子供などとは称せない。人ではない、強大な何か。俺の物差しでは、推し量ることが出来なかった。
「俺に……なにを、した。お前は、誰だ」
「ボクは神にも等しい妖怪、略奪者さ。キミから死を奪った。だからキミは、死ねずにそうしている。生きても死んでもいない。生きても死んでもいられない存在になったんだ。言うなれば、そうだね」
ほんの少しだけ思案する仕草を見せた略奪者は、けれど直ぐに再び口を開いた。仕草はふりで、本当は初めから決めていた。そんなことを思わせる薄い笑みを浮かべ、その名は略奪者の口から声となり言葉となる。
「無機の身にて彷徨い歩く者だ」
そう言い切り、略奪者は満足そうに地に降りる。
そして、こちらに近付いてきた。
「俺に、何をするつもりなんだ」
「別に、何もするつもりはないよ。企んでなんかいない、本当さ」
まるで子供の企みのように、みえみえの嘘を略奪者はつく。
「強いて言うなら、キミが生き返る手助けをしたいんだよ。面白そうだからね」
「生き、返る」
そんなことが、出来るのか?
「出来るよ。ボクが与えた力を使えばね。事実、キミはそうして喉を再生したじゃあないか」
喉の再生。たしかに、した。声帯は蘇り、喉の風穴は塞がった。
あの時、俺は何をした? ただ食べたいと念じ、それから何を?
そこまで思考が働いた時、周囲の異変に気が付く。地面を染め上げていたはずの赤が、視界に映らない。真っ赤に塗り潰されていたはずの光景が、もとの桜色に戻っている。俺の身体から流れ出ていた大量の血液が、なくなっていた。
「キミは自分を食べたんだ」
困惑している最中、略奪者から奇妙な言葉を聞く。
「食べた? じぶん、を」
「そう、ボクがキミに与えたのは食べるという力、捕食能力さ。食べるということは奪うということだ。他の命を奪い、自分の血肉とする。生き返る手段としては、この上ない方法だろう?」
くすくすと笑う姿は、年相応の子供に見えた。無邪気で、屈託のない、純粋な笑み。だからこそ、得体が知れない。子供ではないと確信しているのに、子供に見えてしまう矛盾。それがとても気味悪く思えた。
「食べる……捕食……生き返る。……なにを?」
「何を食べるべきか。それはキミ自身が知っているはずだ」
そう、知っていた。決まっていた。
促されるようにして脳内に浮かんだのは、死の直前にみた光景だった。俺の喉を抉った男、俺を殺した殺人鬼。俺がこの捕食の能力で食らうべきは、自分自身の仇をおいて他にない。
「くふふ。これからのキミを楽しみにしているよ。存分に、食らうといい」
黒い和服を纏う妖怪は、子供のような笑みを浮かべて夢のように消え去った。
霧のように、霞のように、居なくなったその場所には、代わりのように死体の山が積み上がる。それはこの世に存在しないはずの存在。それらは常識の範囲外にいる住人。動物の姿を模し、だが決定的に何かが違う者達。
妖怪。
「……餞別ってことか」
腹が減っては戦が出来ぬ。
身を預けていた桜の木から離れ、死体の山に手を伸ばす。その手の平が触れた時、食べたいと念じた時、それは一瞬にして平らげられる。綺麗さっぱり消えてなくなった死体の山は、養分として、血肉として、生命力として、腕を通して全身を駆け巡る。
「よし、ぜんぶ治った」
立ち上がることも、移動することも、ままならなかった身体は、すでに生前の健康な状態へと戻っていた。食べるということは奪うということ。死体のすべての命を奪い、自らの糧として肉体は輝きを取り戻した。
だが、まだ足りない。まだまだ全然、まったくと言っていいほどだ。
生き返るには、もっと多くの命がいる。まずはその先駆けとして、あの殺人鬼の命を奪おう。
やることリスト、その一。
殺人鬼の捕食。