二十七音目
ソメッソが町の門にたどり着いた時、立っている“人”は居なかった。人のように二足歩行をする大きな猿だけが動いている。盛り上がった身体は人の倍はあり、牙と爪が異様に長い。
あたりに倒れ息絶えている人には大きな爪跡が身体に刻まれている。
「数が足りない……何人かは逃げられたと言う事か」
倒れている人数をざっと数えたソメッソは、自らに狙いを定めている猿を見据える。
「お前がアニマートを殺ったのか?」
猿は答えず四足でソメッソに迫る。速さはさほどない。普通の人よりもやや早い程度。
ソメッソは猿と距離を取りつつ、グランドピアノを出現させた。
目の前でからかうように跳ねる娘の敵であろうモンスターを前に、ソメッソは一矢すら報いる事は出来なかった。
ソメッソの魔法は地面を割り落とすもの。片足でも捕えることが出来れば動きを止めることが出来るが、猿は地面にひびが入った時には横に飛び回避する。
ソメッソ自身が猿に追いつかれることはないが、出現させたピアノは別。腕の一振りで半壊させられ修復に消耗し、消したとしても再出現には消耗する。
微々たる消耗も積もれば大きくなり、ソメッソの身体から徐々に力が失われていった。
娘の敵を前に逃げる選択肢は無く、グランドピアノも正常な形を成さない。
腕を振り上げ目の前に迫るモンスターを前に、ソメッソは諦めたように目を閉じる。
しかし、カッと高い音が鳴ったかと思うと、目の前に迫っていた圧迫感が無くなった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
モンスターの腕が振り下ろされる直前、テナーは考えるよりも先に撥同士をぶつけていた。目の前に急に火花が現れ、モンスターは大きく後退する。
ソメッソと猿との間に十分な距離が生まれた所で駆け寄った。
「お前たち。逃げた方が良いぞ」
「せっかく助けに来てあげたって言うのに、お言葉っすね」
「ユーバー。お前がいるなら逃げた方が良い事くらい分かるだろう?
こいつは動きは速くないが頭が良くて、頑丈だ」
ユメはソメッソの言葉を無視してソメッソの身体を確認する。
「怪我はしてないっすね。流石ソメッソさんっすけど、消耗激しいっすね。今日はもう楽器出さない方が良いっすよ?」
「おい、ユーバー。話を……」
「はいはい、役立たずは黙っているっすよ」
ソメッソが無事だと確認し終えたユメがテナーに目を向ける。緊張か恐怖か、身体を強張らせているテナーの肩をユメはトントンと叩いた。
「怖いなら無理せず逃げた方が良いっすよ。たぶん今のテナーじゃ勝てないっすし」
「そんな事……」
強がってみても、テナーの身体は本来の動きを出来ない。意気込んで来たはいいものの、周りにある死体がテナーに嫌な予感を思い起こさせる。
試しに炎球を飛ばしてみても、モンスターにぶつかった瞬間に掻き消え、全くダメージを受けている気配はない。
何かあったらすぐに逃げられるようにと、目を光らせていたセグエがふとモンスターが動かないことに気が付いた。
こちらの数が増えたからか。しかし、兵士を相手取っていた時には一対多で勝利をおさめていたはずだ。
もしかして、期を窺っているのだろうか。一匹で町を壊滅させたとなれば頭もいいだろう。
実際戦っていたソメッソが頭が良いと言っていたし、地下まで追いかけ人を殺していたという事実もある。
もしも、この人数を屠るだけの何かを待っているのだとしたら、今のうちに逃げた方が良いのではないだろうか。
「ユメさん、今のうちに……」
「大丈夫っすよ。こいつ程度なら三人に手出しさせないうちに倒せるっすから」
「それって」
セグエが改めてモンスターを注視する。まるで今のテナーのように身体を強張らせて、何かを凝視している。
猿の視線の先にいる人物が動き出す。まずはテナーの近くへ、肩を叩いて安心させるように笑う。
「身体を強張らせていると、勝てる相手にも勝てなくなってしまいますよ?」
テナーに声を掛けたユメは、普段の軽い感じとは違い、清楚で上品な声を出す。
右の手――正確には親指から中指にかけての三本の指――には爪のようなものが括り付けられ、カチカチとそれらを鳴らす。
猿に正面から近づきつつ、ユメはゆっくりと話し始めた。
「なまじ頭が良いというのも大変ですね。自らの命を長らえさせるためとはいえ、恐怖する時間が伸びて。でも、怖がらなくていいんですよ?」
怯えた子供を落ち着かせるように優しい声で語りかけるユメが、セグエやテナーにも怖いものだと感じてしまう。
「折角逃げ延びたのに、また、姿を現すなんて、そんなに仲間の所に行きたかったんですか? 何年も一人ぼっちは寂しかったんですか?」
恐怖に耐えかねたようにモンスターがユメに向かって走り出す。
思わずテナーが「危ない」と叫ぶが、ユメはまったく気にした様子も無く歩みを進めた。
腕を振り上げ振り下ろすという動作すら惜しいのか、長い牙がユメの首筋に近づき、白く透明感のある皮膚を食い破った。
鮮血が地面に落ち、ユメの左半身を赤く染め上げていく。
背後でテナーが名前を呼ぶ声を聞きながら、ユメはモンスターに話しかける。
「もう、寂しくないですからね」
モンスターの首から血が吹き出し、グラつき、間もなく倒れた。
獣と接触したことで着いてしまった毛を軽く払い、くるっとテナー達の方へ向き直る頃にはユメの傷は癒え、左半身を染める血でしかユメが傷を負った事を証明できない。
右半身も倒れた猿の血しぶきで斑に模様付けられ、澄ました顔で佇むユメが狂気じみたもののように見えた。
「どうしたんですか? 化け物でも見たような顔をして」
「ユメ……大丈夫なの?」
「見ての通り大丈夫ですよ」
「でも、噛まれて」
心配でユメに駆け寄ろうとするテナーをソメッソが引き止める。
「テナー、待て」
「待てって、ユメが」
「そのユーバーが問題なんだ」
凄むソメッソに、テナーがぴたりと動きを止める。
モンスターの亡骸から近づいてくるユメにもソメッソは「止まれ」と声を荒げた。
「はい、止まりました」
ユメが素直に従い目を細める。
「ユーバーに確認するが、例の事件被害者はどのように殺されていた?」
「爪のようなもので、喉を掻っ切られていたんですよね」
「お前の右手のそれは何だ?」
「何って、爪ですよ? 見て分からないなんてソメッソさんも御年なんですね」
くすくすとソメッソをからかうような声が響く。
「何がどうなってるの?」
状況把握が出来ず痺れを切らせたテナーの所へとセグエは近づいた。
「わたしも信じられないですが、たぶんユメさんが……」
「私の名前はユーバーアルディタメンテですよ? 長くて呼びづらいのであればユーバーもしくはアルディとお呼びください」
「えっと、ユーバーさんが例の事件の犯人だったと言う事に……」
「そんな、まさか」
驚くテナーをユメが憐れむ。
「まさか、はこちらですよ。今の状況を見ても受け入れられないなんて、流石はテナー、といった所でしょうか」
「ユメが町の人達を殺したの?」
「私の名前はユーバーアルディタメンテですよ」
「流石にユメも一人で一つの町の人全員を爪を使って殺すなんて無理だよ」
「ですから……まあ、いいです。爪なら此処にこんなに使いやすい爪があるじゃないですか」
ユメが分かりやすく、右手の爪をテナーに見せた。磨かれた白い爪は、黒い輪によって指の腹側に固定されている。
「それ、箏の爪だよね」
「よくご存知ですね」
「確かにユメなら今のモンスターみたいに何人かは殺せるかもしれないけど、町一つってなると爪の方が駄目になるよね? まさか、箏の爪ばっかり百個くらい持っているとか?」
「面白い事を考えますね」
テナーの言葉にユメが頬を緩め、そのままの澄んだ声で続けた。
「先ほど、教会の中で教えてあげた事、覚えていますか?」
「歌姫の事?」
「楽器の事です」
すぐに思い出せたテナーが心の中で首を振る。
「ユメは演奏者じゃないんでしょ?」
「私は演奏者ですよ? だからこうやって楽器が出せているじゃないですか?
それとも箏を見せた方が良いですか?」
抱えるように広げたユメの左腕に、ユメの身長よりも大きな箏が現れ、倒れるように消えた。
演奏者の楽器は演奏者の力が尽きるまで自己修復される。つまり、ユメの手にある爪は決して劣化することはない。
「爪は大丈夫でも、ユメの腕の方が持たないよ」
「私の魔法は回復。爪と爪を合わせた時の音で私一人くらいなら簡単に万全の状態にできますよ。先ほども見たでしょう?」
モンスターに噛み付かれて出来たはずの傷が癒えていた様を見せつけられたテナーは何も返せなくなる。
ユメが自分ではモンスターを倒すことが出来ないと言っていたわけ。自分自身が相手になるから。勝てるわけがないのだ。
「テナー、もういいだろう? 目の前の人物は、町を一つ壊滅させた化け物だ」
ソメッソが、形の安定しないグランドピアノを出現させる。呆然とするテナーを他所に、ソメッソがユメを睨み付けた。
セグエは心配そうにテナーの様子を窺っている。何かあった時に、テナーだけでも連れて逃げられるように。
「いくら娘の敵が目の前にいるからってやめておいた方が良いと思いますよ? 満身創痍なんですから」
「止められたら俺はとうに逃げ出しているさ」
「私は戦いたくないんですけど……真実を話すと決めた時から、こうなる事は覚悟の上です。
まあ、説明が楽になるからと順番をめちゃくちゃにしたのが悪かったと思いたいですね」
「何をごちゃごちゃ言っている」
ソメッソの怒号と共に、耳をつんざくようなピアノの音が辺りに木魂した。




