一千年と緑の鳥
ごおん、セピア色に錆びた大鐘が遠くで鳴く。敵の襲来かとばたばた忙しなく羽を動かして逃げる鳥の群れが、澄み切った青い空に黒の影が過ぎて行った。
人など全くいない街。いつか映画で見たような、幻想的で光溢れた風景がずっと先まで続いている。緑に飲まれた高層ビルとか、乗り捨てられた車とか。はあ、と息をつくと、目の前に生えていた白い小さな花の花弁が揺れた。
「本当に誰もいないのね」
大声で叫んで、助けてと求めて、来るかも分からない誰かに必死で手を伸ばしても、そんなこと今更だ。これは自分で望んだこと。豊かに広く、しかしどこまでも孤独の世界で私は終わりたかったのだ。これは自分で望んだこと。
「……誰も」
毒はない。あるのはあれほど彼らが欲しがっていた緑だ、豊かな森だ。
ずるいと、思う。
「一人にはなれないから」
ぱしりと軋む、少しずつ成長する小さな木。痛みはない、違和感も恐怖もない。身体に伝わる、ひんやりした苔の触感が心地よい。多少の土臭さにももう慣れてしまった。
背中に根を張った名も知らないその木は、確実に私の命を削っている。
その日は晴天、夏らしくからっと晴れた青空が窓越しに広がっていたのを覚えている。テレビを賑わすワイドショーも夏休みにオススメのレジャースポット特集ばかりで、その地を紹介しに行ったレポーターも笑顔ではしゃいでいた。
しかしどの場所も平等に焼き付ける夏の日差し。折角整った顔立ちの女性レポーターも、顔をしかめながら紹介文を述べていた。化粧された額に浮かぶ少しの汗で、快適な温度に保たれているこの部屋にもその暑さが伝わってくる程。蝉の声はテレビがなくても外から響き、隣の個室からは、まだ物事の良し悪しがわからないような幼い子供の駄々が聞こえる。
生まれ持っての病を患う私にとっての世界はこれであった。
私に割り当てられた狭い部屋、清潔なベッド、棚に置かれた顔も覚えていない同級生からの見舞い品。学校にはほとんど行けず、もう直ぐ二度目の卒業を控える年だというのに。このままだと進学などは出来ないかもしれない。世間が長期休暇だと騒ぐ一方、私はその暇を妬み恨んでいた。
いつ死んでしまうか分からない、おかしくないこの体で、私はワガママの限りを尽くしてきた。私が死んで残るのは後悔。それを紛らわせよう、やりたいことはやらせてあげようとする親の姿は立派なものだと思う。だが生憎と歪みに歪んだ私の性格では感激などさらさら覚えることもなく、むしろあれやこれやの欲求が強くなったようにしか思えないのだ。
だから初めてあのニュースを聞いた時、親は遂に世界をも私に与えてくれるのかと思った。目に余る娘に目に余るものを。一体なんの冗談か、ドッキリか或いは夢の中かとも考えたものだ。きっとそれは私に限らず。
テレビ越しにあった夏の世界はもうなく、カラフルなスタジオで噛みながらも渡された原稿を読み上げる男性アナウンサー。子供の駄々も聞こえなくなっていた。
今まで聞いたこともない奇病がどこかの国を潰してしまった。それまでの常識をかなぐり捨てたようなふざけた病気。
人の身体から木が生えると。
ふと音が消えた世界で、蝉だけがけたたましく泣き散らかしていた。
まず歩けなくなり、次に立てなくなる。そのうち起きていることも億劫になってしまい、遂に寝たきりになってしまう。そうなったのはもうどれほど前の事だったか。もともと病弱的な体型だったからか、あまりその木の重さは感じられない。最近じゃ視界も霞んできて、もう頭まで侵され始めたかとようやく危惧し始めた。
大分前から変えられない視界、変えられないからせめてもの慈悲と言う様に世界は変わっていく。余計な世話だと悔しくなって、そうしてあの日に勇んで外へ飛び出した私を殴り倒したくなって。
「後悔はしているかい?」
「いいえ、それでもーー」
はたと、頭上に違和感の塊を感じた。はっきりした視界に黒い影。黒いゴム長靴。降ってきたのは若い男の声だった。
男は私に……語りかけたのは私に対してなのだろうか?もう失ったと思っていた熱が顔にかあっと溜まるのが分かった。
「お嬢さん」
「…………」
「お嬢さん?」
「それは私に対してで良いのかしら」
「だって周りに誰もいない」
自分でも声を出せたことに驚いている。背中にある木に光を当てるためというよりは、背中に異物があるために自然となったうつ伏せの体勢で、もうとっくに声は出せなくなっていると思っていたから。
男はふふんと笑いを落とす。
「お嬢さん以外に誰もいない」
うるさい、なんだかとても面倒な奴だと、思う。
病は徐々にゆっくりと、世界にその種を蒔いていった。どうもその病は人間にのみ感染するらしく、医学の知識などほとんどない私でも都合のいい話だと思った。できすぎな内容だと、小さく笑った。
まず周辺国が、次に海を越え、その近くにあった栄える国にも感染者が見つかった。先進国は我先にと薬や医師の派遣を急ぎ、発展途上の貧しい国は途方に暮れるのみ。そうするうちにも続々と緑は増え続け、諦めたある国は感染拡大を食い止めるためにシェルター紛いのものを作りあげた。日の光は遮られ、空調も全てが整えられた、人工的な理想郷。始めこそ「自然を感じられない」「いくら何でも不自然だ」などの意見が挙がったものの、その自然の振るった病がいざ自国に侵攻した途端に彼らは口をつぐんだ。それどころかその理想郷への移住権を求めての、目も当てられないような醜い争い。しかし結局選ばれた人間のみが移住を許された汚い理想郷へ往けなかった多くの人間は諦め、いつかは栄えた強大な国もが消えてしまった。
自然淘汰にしては乱暴すぎる。いや、ただ人間だけがその暴力を知らなかったのかもしれない。理不尽だと言われたその力の差は、人間だけが知らなかったものなのだ。
何が生物の保護だ。何が自然破壊だ。いつから私たちは神を気取り始めたのだ。
どうしようもない欠陥品だと、誰もが口を揃えて吐き出した。
そのうるさくて顔を見せようとしない男は、あの後から毎日私の元を訪れるようになった。感染ルートなど全く知られていないこの病、調べていた研究者全てがその聡明な脳味噌を侵食されたか、或いは逃げ出したか知らないが、仮としては「花粉を吸い込むこと」が感染の主な要因とされている。そんなおっかない世界で、どうも彼はマスクをしていないようなのである。どれだけ身体が屈強であろうと感染したら致死率は百パーセントと言ってもいいだろう。現に私は今死にかけている。
それなのに彼は、曇らない声で私に声をかけるのだ。
「おはようお嬢さん」
「おはよう、この死にたがり」
「それは貴女のことじゃないかな」
「うるさいわね、少しは黙れないのかしら」
相変わらず彼は笑っている。くすくすと、さも楽しげに。
「今日も元気そうで何よりだ。気分はどう?」
「ええ最高よ。貴方が来るまではね」
「それはいい」
どうしてか、彼はふざけた話しかしない。私が……目の前にもう放っておけば死ぬだろう人間が倒れていて、そんな状況で死にかけに気分など聞くだろうか。普通の神経を持っている人ならまず聞くまい。要するに彼はまともじゃないんだ。
「幸い時間はまだ沢山あるんだ」
何が言いたいのかが分からない。
「何が幸いよ、大迷惑だわ」
「そうかい?とても幸せな事だと、僕は思ってるんだけどなあ」
「やっぱり頭が緩いんじゃないかしら」
「よく頬が緩いとは言われるね」
「……もういいわ、黙って」
呆れた。私は一体この男に何を求めているんだろうか。時間などとうに見えなくて、何日経ったかもみんな忘れてしまっていて。けれど彼が何日ここに来ているかは何故か分かる。
休みが無しで、二十七日。
シェルターに入れる人間の最低条件の一つに、健康であることという記述があった 。
当然生まれつきに死にかけ、どうにかこうして縋ってきた私などはそこで失格するわけである。そんなと嘆き、どうにか娘を助けられないだろうかと食い下がる親は正直見ていて寒かった。これほど私は歪んでいるのかと、生き延びる以前に人間として失格しているではないかと一人笑ってしまったのを覚えている。
喜ばしいことに私の両親は無事合格した。人間として生き延びるに値するとの判断が下ったのだ。中々に立派で大きなそのシェルターでも、この国全体人口の半分より遥かに入る人数は限られている。その限られた人数に入れた両親は、きっと選ばれた優秀な人間なんだろうと漠然と思う。まあ、こんな私に沢山尽くしてくれたのだから当然か。良い親だったと、対して私は最後まで薄情だ。
別れを偲ぶ時間もそこそこに、早速あの病はこの国に上がり込んできた。ずかずかと横暴に、辺りの人間を散らかしながら蔓延る豊かな緑。皮肉なもんだと誰もが言っただろう。
人間は土に帰る。大昔からの規則だ、約束だ。それに逆らおうとしたから罰が当たったんだ。今じゃそんな屁理屈みたいなのがすっかり浸透してしまって、変な宗教が星の数みたいに存在している。
得体の知れないものに救いを求めたところで結末は同じ。当たり前だろ。これは神様が下した罰なんじゃなかったのか。気まぐれに人を沢山殺す神様が今更やめるわけがない。
決まっているじゃないか。正義が勝つんだ。どんな理不尽でも巨悪でも、例え高層ビルが破壊されても、正義が、第三者の多数決で勝つんだ。
両親が私の元を離れて、私は一人になった。
気休めにもならなくなった点滴と検診。残された医者。絶望と悲観で満ちた院内。街も国も世界もきっとそう。人が落ちていく。天に届かんばかりの高い高いビルから落ちていく。
かつての神話のように、人が神様の怒りをかって言葉を分けられた、あの話みたいに。
結局なんにも学べちゃいなかった。
「貴方の名前を聞いていなかったわ」
近頃、更に重くなってきた身体。それは背中の木が大きく成長したからか、木が成長のために養分を吸っているからか。吸われている感覚は全くない。見下ろす彼に聞けば教えてもらえるだろうが、尋ねるのは何か癪だったのでやめた。
「僕の名前かい?」
名前を聞くのは構わない。
「そうよ」
彼は困った声を出してくれた。
「弱ったな、ちっとも考えていなかった」
「なんで、名前は親からもらうものでしょう?」
「そうだね」
「貴方が考えることではないわ。思い出すものよ」
名前を思い出すというのも変な話ではあるが、彼に期待はしていない。
黒い長靴が悩ましげにとんとんと地面を鳴らす。
「なるほどねえ……」
何を考えるのだろう。
「早く、」
「それじゃあ『六十兆』なんてどうだろう?」
「…………」
「ダメかなあ?」
「別に。ただ、やっすい名前だと思っただけ」
安易な名前だと。覚えやすいが、まるで個性が無いみたいだと思うだけ。
「覚えやすいだろ?」
子供みたいでとっても。
「じゃあ僕はお嬢さんの名前が聞きたいんだけど」
「お嬢さんはやめなさい。寒いわ」
「だから名前が知りたい」
六十兆は私の目の前にある花を踏みはしなかった。
「……私は、」
「うん」
「私は思いつかないわ。貴方が勝手に考えなさい」
またあの靴が地面を鳴らした。一度、二度。苔がぐしゃりと音を漏らす。
「良いのかい、じゃあね、……」
誰もが死ぬ、延命を施したところでそれは苦し紛れだ。幸せになれるのは誰なのだろう。
「そこまでして生きたいと思ってなんかないわ」
仕事でやつれ、疲れきった顔を無理矢理引きつらせる母に投げた言葉だった。もうすぐ良くなるわ。母さん達、貴女が良くなるって信じてる。貴方も頑張るのよ。目に見えて私より苦しそうな母と父に、私は感謝なんて微塵もおぼえていなかった。可哀想に、もし完治したところで致命的な学力不足。今まで必死に噛り付いてきたつもりだったが、それでも社会に通用する程は持ち合わせていない。そんな恩返しも出来ないだろう娘をただ生かすためだけに、毎日眠るためだけに身を削る両親は、確実に弱っていた。
母は始めこそ驚いた顔をしたが、しばらくするとまたあの苦しそうな笑顔で一言、元気に言うだけだった。
「大丈夫よ、私たちのことは心配しないで」。
今まで信じてきた人に、真っ向から否定されたのだ。
誰もが死ぬ約束をして生まれてきたんだ。生まれた瞬間に死ぬことは決定する。だから人間は、生まれて泣くんじゃなかったの。
管理されて死ぬなんて、最後まで見守られて死ぬなんてごめんよ。私は、可哀想になんかなりたくないの。
両親に限らず、周りの人全てが私を生かす。
私は何をすべきなのかが分からないままで。
ようやく聞こえる音が霞み始めた。この病に私がかかったのはいつだっただろう。目は多分、完全に失ってしまった。
それでも彼は、六十兆はやってくる。相変わらず曇らない声。死にたいのかと問うても笑うだけ。死にたくないよと。
「七十億、おはよう」
「……はよう、六十兆」
「優れないみたいだね」
「優れないのよ」
霧のかかる世界と劣る気分。死にたいと願って足掻いた寿命はこんなもんだったかと思う。
六十兆は言った。
「背中の木が大きくなってる」
そう、と声は出なかった。眠気が私を襲う。結局声にもならない呻きがううんと出て、かろうじて動く指先をかくんと動かして返事をして見た。当然彼が気づくわけも無く。
「流石にもうじき死んじゃうかもね」
まるで死んで欲しいみたいな。
「ええ」
「あれだけ喋れば木も枯れると思ってたけどな」
枯れなかった。私が酸素を吸って喉を震わせて、動けないだけの抵抗をして、それでも虚しく形はおおきくなる。
あの病で死ぬ者より、気が狂って自ら命を絶つ者の方が圧倒的に多かった。残されたのは病室に私一人で、背中の変なしこりを感じた時は大して驚きもしなかった。時間がきたんだと思っただけで、恐怖も不安も知らなかった。むしろ蔦に巻かれたこの廃虚でよく今まで生き延びたものだと感心した程だ。怖くなんかない。こうなって欲しいと願ったのは私だった。
弱虫が。
目の前の少女ももう長くないだろう。そもそも、あの病にかかっている時点で死ぬことが約束されるようなものだ。黒く長い髪を地面に散らし、白くヨレた患者服で緑の大地に突っ伏す彼女は最後まで強情だった。僕が持っている青い傘をくるりと回すと、積もっていた埃がふわりと舞った。
彼女を見つけたのはもう数ヶ月ほど前になる。その時もう既に背中には大きな木が生えていて生きているかどうかも怪しかったものだが、話しかけてみれば案外元気で、動けないものの僕の形も認識できたようだった。誰もいなくなった街で拾った黒い長靴。あの視界じゃこれしか見えないようだが、それでもたまにこの長靴にケチをつけていたことを思い出す。
今日も日が明け、当たり前に彼女の元へ向かった。いくらか浅くなった呼吸、返事も遠い。
それでもまだ見栄を張ろうと口を開く彼女に、七十億に、物語の約束を。
六十兆はある日突然ここを訪れなくなっていた。今更寂しいとは思わないが、可笑しな物足りなさはある。
しかし意識が冴え渡っていると言うのに、目は開かず、周りの静けさもまるで感じられない。木で覆われたのか、それとも食われてしまったのか。どちらでも良い。私は一旦死ぬのだ。体をそのままに、意識は海の底にーー。
「死なないよ」
音の無い世界に声がした。
「行かせない、って約束したんだよね」
光の無い世界に、あの黒い長靴が見えた。
木が、それは外に生えている木と比べれば全然小さいが、この狭い部屋には随分大きいものであった。重みに耐えきれず、床の一部は陥没している。僕の言葉に反応は無く、窓から入った風で枝が揺れた。
「僕は君を殺せない。分かるよね、放っておけば死んでしまうような人をわざわざ殺す必要はないから」
返事はない。僕は続ける。
「だからと言って生き返らせることも出来ない。僕が無理に君を連れ戻そうものなら、君は依存してしまうから」
ずっとさしていた傘を閉じると、すっかり錆びた骨が少しだけ欠けた。
「君は一人でそうなることを決めたから、今更僕がどうこうする必要はないでしょう?君は僕に助けを求めなかったし、僕も君を助けはしなかった」
「違うわ」
「君をそうしてしまったのは僕達の責任だ」
僕らは君達がそうなることが分かってた。君のことは知らなくても、いつか絶対そうなることは分かってたんだ。
「でもね、道は初めから二つに一つだったんだよ」
「…………」
遂に声もが途絶えてしまった。
きっと彼女はずっと前からこのことを知っていたんだろう。七十億らしく、この馬鹿な話の意味を。だけど僕は意地汚いから答え合わせをしようとする。きっと顔を汚く歪ませて泣くのを我慢してるだろう七十億に、僕は笑って教えてやった。