沙南は俺が守る
「何だ、これはっ?」
怒ったような高原の声。沙南、恐る恐る翔平の背中から顔をのぞかせて、高原を見た。高原の手の上にきれいな青くて丸いストラップが見えた。
奈々美は、あのストラップを翔平にプレゼントしたかったんだろうか?どう見ても可愛すぎて、女の子用にしか見えないけど・・・
沙南は、ぼんやりそんなこと考えていた。
「”スイートドロップ”は、どこだ?どこにやった?」
高原が翔平の胸倉をつかんで激しく詰め寄った。高原の怒りの気配がものすごく近くなった。荒い息遣いが聞こえる。
怖い・・・っ
沙南は、急いで高原の視界から見えなくなるように翔平の背中に隠れて震えていた。翔平の沙南を掴む手にいっそう力が入った。
「だから、俺は”スイートドロップ”なんか知りません!これは、俺からこの子へのプレゼントなんです。返して下さい。」
「そんなわけ、あるか!お前が犯人なんだ。お前が!!お前が犯人でなければいけないんだ!」
高原の怒りが、殺気に変わった。さらに詰め寄ると翔平の胸ぐらを掴んだ。激しく怒りがくすぶる瞳が目の前にあった。だが、翔平は怯まなかった。自分の後ろには沙南がいる。沙南を守りたいと思う翔平の想いが、翔平を一歩も引かせなかった。
高原の殺気を押し返すように、翔平の声が荒くなった。
「どうして俺が犯人じゃなきゃいけないんですか?高原さんの言っていることは、おかしいですよ。まるで、俺を陥れたいみたいだっ!」
翔平のことばに高原の殺気がいっそう高まったのを感じて、沙南は息を呑んだ。
翔平っ、だめだよっ、そんな挑発しちゃっ。殺されるっ!
「ガキが、大人にたてつくのかっ!」
高原がこぶしを振り上げた。
だめっ!翔平が殴られるっ。
沙南は思わず目をつぶった。
しかし翔平は、胸ぐらをつかんでいた高原の手をバシッと強く振り払うと、沙南を後ろにしたまま体をずらして壁から離れた。今度は高原が壁を背にして立った。
「殴るんですか?無抵抗な人間に暴力ふるうのは、警察のやることじゃないですよね?」
翔平の声は毅然としていたが、沙南を掴む翔平の手は小刻みに震えていた。
ほんとは、翔平も怖いんだ。怖いけど、私を守ろうとしている。
沙南は翔平の気持ちを察し、励ますように夢中で翔平の左手をぎゅっと握り返した。翔平は、さらに沙南の手を握ると、ちらっと沙南を見て少し笑った。もう、翔平の手は震えていなかった。
「うるさい!お前さえ試合に出られないようにすればいいんだ。お前は、私がここに駆けつけた時には、もう、その子と“スイートドロップ”を食べた後で、お前を捕まえようとした私に抵抗して私に暴力をふるった。私は、やむなく応戦して、間違ってお前にケガを負わせてしまった。こういう筋書きでどうだね?」
高原が歪んだ笑みを翔平に向けた。
「俺だって、黙ってはいない。俺はここであった事実をきちんと話すし、沙南だって証言してくれる。」
高原は、大きく首を横に振ると、にたっと笑った。
「君たちは、私に殴られた後、ほんとに”スイートドロップ”を摂取するんだ。”スイートドロップ”は、なにもアメ状のものだけではないいだよ。粉末を口から摂取したり、注射で入れることもできる。今回は、注射かな。そのほうが薬の効き目が早く現れるからね。大丈夫。とても細い針で、なかなか見つかりにくい場所に打ってあげるから。
ヤク中の高校生と刑事と、さて、世間は、どっちの言い分を信じると思うかね?」
高原のことばに翔平が低くかみ殺したような声で呟いた。翔平がこんな声をする時は、ほんとうに心底、怒っている時だ。
「高原さんっ、あんたには良心はないのかっ?俺らみたいな高校生に濡れ衣着せて、あんた、それでも刑事かっ!」
「なんとでも言うがいいさ。翔平君、こうなった以上、私も引き返せないんだよ。」
高原がふたたび間合いを詰めて迫ってきた。
だめだ、殴られるっ。
沙南は、堅く目をつぶった。翔平は、沙南を連れて部室の角まで移動して、それから素早く沙南の方を向くと、片手で沙南の頭をブロックし、体全体で沙南を高原から隠すように抱きかかえた。沙南は翔平の腕の中で身動きが取れなかった。
えっ、翔平、だめだよっ、やめてっ!これじゃ、翔平だけがボコボコにされちゃうっ!そんなの、イヤだっ!!!
がっ ばしっ どかっ
高原が翔平に襲いかかっていた。翔平が殴られたり蹴られたりするたびに、その振動が沙南に伝わってくる。
ぐっ・・・
強く蹴られたあと、翔平はくぐもったうめき声を漏らした。高原は、翔平だけでなく沙南にも危害を加えようとするのだが、沙南を庇うようにして覆っている翔平が邪魔で思うようにいかない。何とか翔平を沙南から引きはがそうと殴打に力を込めるが、翔平は沙南を離さない。
「離れろっ」
一向に思い通りにならない翔平に高原の理性が切れた。これまでは、後々の事情徴収のために多少の加減はしていた。過剰な暴力は、いらぬ不信感を招くからだ。しかし、沙南がほとんどケガをしていないとなると、高原の用意していた言い訳が通じない可能性がある。もう、なりふり構ってはいられない。高原は右足を後ろにそらすと反動をつけて前に蹴った。地面すれすれの足は、うまくいけば翔平越しに沙南の背中を蹴り上げることができるはずだ。
だが、高原の意図を察知した翔平が自分の背中を足に向けて動かし、翔平と沙南との隙間を塞いだ。高原のつま先は、沙南の背中ではなく翔平の背中にあたった。
うっ、ぐうっ
翔平が身をよじって呻いた。だが、沙南を庇う姿勢は崩さなかった。
やめてっ!
沙南は、翔平の腕の中から逃れようともがいた。自分がいるから翔平は応戦できないのだと思った。だけど、翔平の腕はしっかりと沙南を抱えていて、びくともしなかった。
「翔平っ、はなしてっ。お願いっ、はなしてっ!」
沙南は、泣きながら叫んだ。それでも、翔平は動かなかった。高原からの暴力を受けて苦しそうに顔を歪めながらも必死に耐えていた。
いやっ、翔平が死んじゃう!
「だれかっ、助けてっ!!!」
沙南は声の限り、叫んだ。翔平の抑えた呻き声と早鐘を打つような胸の鼓動を感じながら、何もできない自分がくやしくて涙が止まらなかった。
うっ、うっ、だれかっ、おねがい・・・
突然、ぱあっと、ライトがついて部室の中が明るくなった。高原は驚いて、翔平を殴るのをやめて、ぐるっとあたりを見回した。
ザザザっとマイクのノイズみたいな音が聞こえたかと思うと、
『君たちは、私に殴られた後、ほんとに”スイートドロップ”を摂取するんだ。”スイートドロップ”は、なにもアメ状のものだけではないいだよ。粉末を口から摂取したり、注射で入れることもできる。今回は、注射かな。そのほうが薬の効き目が早く現れるからね。大丈夫。とても細い針で、なかなか見つかりにくい場所に打ってあげるから。
ヤク中の高校生と刑事と、さて、世間は、どっちの言い分を信じると思うかね?』
さっきの高原のことばがスピーカーを通して流れてきた。高原は、かっと目を見開いて、声のするほうを見た。
「やっと、しっぽを出しましたね。高原さん。」
ドアのところに、浩二が立っていた。浩二の声を聞いて、翔平はホッと一息つくと、沙南を抱く手を緩めた。沙南は、まだ恐怖から逃れられずに、ずっと翔平にしがみついていた。翔平が沙南の背中をそっと撫でた。
「もう、大丈夫だよ。」
翔平の優しい声も、沙南には遠くに聞こえて、ずっと、ずっと、ずっと、翔平にしがみついていた。