“スイートドロップ”って、何?
「そのまま2人とも動くな!」
強い命令口調の声に驚いて、沙南はぽかんと口を開けて声のするほうを見た。テニス部の入り口に少しくたびれた背広を着た、がっしりした体格の三十代くらいの男が立っていた。男は、ものすごい形相でこちらを睨んでいた。男が部屋の中を一瞥してピクリと眉を動かした。だが、男の顔はすぐに、そのわずかな表情を隠してしまった。
男を見て、沙南の顔がみるみる歪んでいった。フラッシュバックのように、昨日の公園での事を思い出した。恐怖のあまり声が出ない。
翔平は、沙南の口を塞いでいた手をどけると、男から隠すようにして沙南の前に立った。翔平の左手は、ぎゅっと沙南の手を握っていた。
翔平がずっと手を握ってくれたので、沙南は少し落ち着いてきた。
「・・・・・高原さん、どうしたんですか?」
翔平が男に声をかけた。
えっ?
この人って、翔平の知っている人なの?
翔平の声は落ち着いているように聞こえたが、それに反して手は冷たかった。その冷たさが翔平の緊張を沙南に伝えていた。
男は、恐ろしいくらい怖い表情でこちらを見ていた。沙南の体が独りでに震えだした。昨日の事が頭の中で再現される。
怖い。
沙南は、翔平に掴まれていない右手で翔平のジャージを強くつかんだ。
「翔平君、残念だよ。昨日押収したアメは、“スーとドロップ”ではなかったと聞いて、正直、私はほっとしていたんだけど、結局は、こういう事だったんだね。」
こういう事って、どういう事?押収したアメ?それって何?この人は何を知っているの?
沙南は、高原が言っている事の意味がわからず困惑していた。翔平は相変わらず沙南の前に立っている。背中が無言で動くなと伝えているのを感じ取って、沙南は動けなかった。翔平が沙南を掴んでいる左手に力を込めた。
「こういう事って、どういう事ですか?それから、何度でも言いますが、僕は、“スイートドロップ”なんか知りません。ここへは朝練があるから来たんです。」
「ふっ。翔平君、私を誤魔化すことはできないよ。昨日の夕方、情報が入ったからね。君が、朝練の時に学校の部室で”スイートドロップ”を買い手に渡すってね。それで、私はここの近くで張っていたんだ。昨日の朝の情報と違って、今回はどんぴしゃ、正確な情報だったようだ。その子が買い手?」
怖い顔のまま、じりっと高原がこちらへ近づいてくる。翔平は、沙南を庇うように少し後ずさりをした。
「さあ、翔平君。君のポケットには、“スイートドロップ”が入っているんだろう?それをこっちに渡して。」
高原が左手を差し出した。
「断ります。ポケットに入っているのは、大事な手紙なんです。”スイートドロップ”なんかじゃありません。」
翔平は、沙南を庇いながら毅然とした声でそう言った。
「翔平君。君は、私の大事な部下の弟だ。だから手荒なことはしたくない。でも、君が抵抗するなら腕ずくでも私は“スイートドロップ”を押収しなければいけない。私にそんなことさせないで、素直に渡してくれ。」
えっ、この人刑事?
どうも目の前の男が刑事らしいと知って、沙南の頭はますます混乱していた。沙南のパニックをよそに、目の前のふたりは相変わらず緊張したやりとりを続けていた。
「高原さん、俺は、昨日1日、容疑者として部屋に軟禁されてからずっと考えていたことがあるんです。だから、教えてください。
俺は、”スイートドロップ”が何なのか昨日まで知りませんでした。それに、これまで自分のまわりにドラッグをやってる奴もいなければ、”スイートドロップ”が今、中高生の間で流行っていることも知りませんでした。
なのに、どうして”スイートドロップ”のバイヤーとして俺の名前が出るんです?兄貴が、高原さんが持っている確かな情報筋からのネタだって言っていたんですけど、その情報筋って、本当に確かなとこなんですか?ガセをつかませることもあるんじゃないんですか?」
っ!
ドラッグって、あのドラッグ!?翔平が?まさか!!もしかして翔平、あの公園で襲われる前にも何かあったの?それが、翔平の言っていた複雑な事情?
「子どもが何を知ったかぶっているんだね?私の情報源について君に答える筋合いは、ない。君がまだ容疑者であることには変わりはないんだ。さあ、くだらない世間話はこれで終わりだ。さっさと“スイートドロップ”を渡すんだっ。」
沙南があれこれ考えている事なんか吹っ飛ばしてしまうくらいドスのきいた声で、男が怒鳴った。
高原が、ゆっくりとこちらへやってくる。
怖いっ!怖いよぉ。私、どうすればいいの?翔平、どうなるの?
沙南は泣きそうになった。近づいてくる男の顔が怖くて、ぎゅうっとジャージを握る手に力を込めた。そんな沙南の不安を感じ取ったかのように、翔平の左手が沙南をしっかりと掴んだ。
じりっ
少しずつ近づいてくる男に、翔平と一緒に押されるように後ずさりをした。とんと背中が壁にぶつかった。
っ!!
もう、後がない。
ふたりとも壁ぎりぎりまで追い詰められた。その様子を見て高原が、にやっと笑った。
「さあ、翔平君、もう後がないよ。どうする?」
翔平は、唇をかみしめて舌打ちをした。
「わかり・・・ました。俺の持っている物を渡します。でも、その前にこの子を外へ出してください。この子は何の関わりもありませんから。」
「それは、無理だな。その子が買い手だろう?その子が君の顧客のひとりだってこともわかっているんだよ。」
はいぃぃぃっ?
顧客って、私がその“スイートドロップ”とやらを翔平から買っているってこと?んなバカな!
「それも、高原さんの確かな情報筋からのネタですか?」
「それを君に答える義務はない。もうくだらない時間稼ぎはやめたらどうかね?」
翔平は、キッと、高原を睨むと、決心したようにポケットから薄桃色の封筒を取り出して男に差し出した。
「最初から素直に渡せばいいものを。」
高原は、翔平から手紙をひったくると、乱暴に封を切った。中から手紙と丸い青いガラス玉のついたストラップが出てきた。