沙南のためいき
沙南は郁美の家の前に来ていた。ここに来る間中、ずっと考えていた。さっき、奈々美と言い合ったのだって、もとはと言えば沙南が奈々美からの手紙を翔平に渡しきれなかったからだ。あの手紙をちゃんと翔平に渡してさえいれば、こんな気持ちを抱えてうだうだ悩むこともなかったのだ。
だから、決めた。
今から翔平に奈々美の手紙を渡しに行く。そしたら、明日の朝の事は、きちんと奈々美に断れる。もう、翔平への手紙を取り次いだりしない。そんなことをするのは、これが最後だ。
沙南はそう心に決めると、ためらいなくチャイムを押した。
『は~い、どなたですかぁ~』
インターホンから聞こえてきたのは郁美の声だった。沙南は一呼吸間をおいて、それから口を開いた。
「郁美、私、沙南だよ。」
「沙南?え、沙南なの?こんな時間にどうしたの?ちょ、ちょっと待ってて。」
どたどたどたっ
郁美は何故か慌てていたようだ。階段を下りて玄関にむかってくる足音が、繋がったままのインターホン越しによく聞こえた。
がちゃっ
ドアが開くと、郁美が顔をのぞかせた。
「沙南っ!心配したんだよっ。テニス部の部室飛び出していなくなっちゃうからっ。」
郁美はそう言って沙南に抱きついた。
「ごめんね・・・郁美にもみんなにも心配かけて・・・今日のことは、落ち着いたらみんなに話すから。私は大丈夫だよ。それより、郁美にお願いがあるんだ。」
沙南は抱きついている郁美をそっと離してそう言った。
「お願い?」
「うん。あのね、この前の・・・奈々美が翔平に書いた手紙なんだけど・・・、たしか、郁美が持ってるんだよね?」
「うん・・・、そうだけど?」
郁美は怪訝な顔をして沙南を見た。
「その手紙・・・、私に渡してほしいんだ。」
「えっ、どうして?その手紙をどうするつもり?」
「翔平に・・・渡す・・・」
郁美は驚いて沙南を見かえした。沙南に奈々美の手紙を渡すわけにはいかないと思った。もう沙南が悩むのも傷つくもの見たくはなかったから。
「ごめん、沙南。沙南には手紙を渡せない。やめなよ、沙南。もう沙南がこんなことをする必要はないんだよ。どうして沙南は自分の気持ちに向き合おうとしないの?ほんとはこんなことしたくないんでしょ?」
沙南は、郁美が沙南のためにそう言っているんだという事が痛いほどわかった。郁美の気持ちが嬉しかった。でも、今回の事だけは譲れない。これは自分のけじめなのだ。どんなに自分が嫌だと思っていても一度引き受けた事はやっぱりやり遂げたい。自分が頑固で融通がきかない性格だと自分でもわかっている。日頃から羽瑠に言われているように、どんなに不器用で厄介な性格だと言われようとも、沙南は自分の信念を曲げようとは思わなかった。
「郁美、ありがとう。郁美の気持ちはうれしい。でも私、ちゃんと自分の気持ちに向き合っているよ。私、もう、翔平への手紙の取り次ぎやめる。誰かの手紙を翔平に渡して、それで翔平とその子が両想いになるって思ったら、私、耐えられないよ。だからもう、やめる。」
郁美はまた沙南を抱きしめた。今度は、さっきみたいにきつくではなく、やさしくいたわるように抱きしめた。郁美のあったかい気持ちが伝わってきて、沙南は目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
「沙南、やっと決心したんだね。遅いくらいだよ。」
「うん・・・でもね、郁美。奈々美の手紙はちゃんと翔平に渡すよ。そう決めたんだ。」
「沙南っ」
郁美は沙南から体をはなすと、納得できないというようにきつく腕を掴んだ。沙南は郁美に淡くほほ笑むと、とつとつと話し始めた。
「郁美、さっきね、奈々美に会ったんだ。奈々美ね、私にありがとうって言ったんだよ。翔平に手紙を渡してくれてありがとうって。翔平が自分を好きではないのは、翔平から何の返事ももらえない事でわかっているって。でも、違うよね。翔平が奈々美に返事をしないのは、翔平が手紙を受け取っていないから。ほんとに返事をもらえず失恋したのは私なのに、奈々美はそれを知らないから勘違いしている。これっておかしいよ。奈々美に悪いよ。翔平が手紙を受け取っていないのに、奈々美が失恋したって思うの、私は、自分が失恋した事よりも心が痛いよ。」
「沙南・・・」
郁美はそれ以上何も言えなかった。沙南は、普段は優柔不断を絵に描いたようなのに、こうと決めたら必ずやる性格だということは郁美もよくわかっていた。きっと自分がどんなに反対しても沙南は奈々美に手紙を渡すつもりなのだろう。郁美は、大きくため息をつくと沙南の腕を離した。
「これを最後にする。それが私のけじめ。だから、郁美、お願い。奈々美の手紙を私にちょうだい。」
「わかった。持ってくる。」
郁美はそう言うと家の奥に入っていって、そして、手紙を持って戻ってきた。
「はい、これ・・・」
郁美の手には薄桃色の手紙が握られていた。真中はぽっこりと膨らんでいた。あの手紙だった。
「ありがとう、郁美。」
沙南は、郁美から手紙を受け取ると郁美の家を後にした。このまま翔平の家に行って手紙を渡そうと、沙南は翔平の家へ向かって歩いていた。
これから翔平に会う・・・
翔平の顔が浮かぶと自然に胸が高鳴った。同じように、失恋した事を思うと翔平の顔を見るのに躊躇いが湧いた。いつもと同じようにできるだろうかと不安になった。それでも人目でも翔平の顔を見たい、ひと言でもしゃべりたいという気持ちの方が強かった。翔平の事を思うとこんなに胸が苦しくなる。諦めと期待がないまぜになった自分の心を沙南はどうする事も出来なかった。
あの角を曲がると、翔平の家までは5分もかからないという所まで来ると、沙南は急に自分の格好が気になりだした。
翔平に・・・この格好で会うの?今日は激励会だったから、ずっと部着のままだ。翔平に会うのに、これはちょっと・・・汗臭いし・・・色気もないし・・・やっぱり、着替えた方がいいよね?
沙南は、思い切って行き先を自分の家に変更した。翔平に会うなら少しでもおしゃれして会いたい。これって、乙女心だよね。
この格好・・・おかしくないよね?
沙南は、何度も自分の部屋の鏡を見返した。郁美の家から家に戻ると、大急ぎでシャワーを浴びた。
それから洋服選び。普段からかっちりとおしゃれをきめる方ではないから、そんなに気のきいた私服を持っていない。それでも少しは可愛く見せたいと思ってクローゼットをひっかきまわしてようやく着る服を決めた。
白いフレンチスリーブのシャープなラインのブラウスに紺のショートパンツ。一か月前に羽瑠と一緒に買ったのだ。羽瑠が、似合っているって言ってくれたものだから、きっと大丈夫だと思う。沙南は、何度も鏡の前でチェックすると、手紙をショートパンツのポケットにしまって、薄いピンクのミュールを履いて家を出た。
家から翔平の家までは5分とかからない。もうすぐ翔平に会える。そう思うとどきどきしてきた。
私・・・変な格好してないよね?でもっ、気合入れすぎかな?いつもと違うし、翔平、変に思うかな?それより、急に来てうざがられるかな?行く前に電話した方がよかったのかも…?あっ、そういえば携帯、鞄に入れっぱなしだった。
そんなことを考えながら歩いていると、だんだん気後れしていた。歩調がゆっくりになる。
だめだめ。余計なこと考えてると会えなくなっちゃう。普通にしていればいいんだよね、普通にしてれば。でも・・・少し、気持ちを落ち着かせてから行こうかな。
沙南はすぐに翔平の家に行くことができなくて、近くの東公園のベンチでしばらく座っていた。さっきの勢いは影を潜めて、優柔不断な沙南が顔を覗かせ始めた。
はあっ、ヘンに意識しちゃうと普通にできていたこともできなくなるんだな。私、これから翔平に会って普通にしゃべれるか自信なくなってきた・・・
だめだめ、弱気になっちゃいけない。奈々美の手紙を翔平に渡すって決めたんでしょ。それが自分のけじめなんでしょ。もう、暗くなりそうなのに、そろそろ行かなきゃ。
沙南は、10回目のためいきで、ようやくベンチから腰を上げた。