傷ついた心
部室の中で、沙南に手を振り笑いかけていたのは、一平だった。
沙南は、フリーズした。
なんで・・・一平がここにいるの?翔平は?
沙南の前で落ち着かない様子で一平が動き回っていたが、沙南の瞳は一平をとらえていなかった。沙南は、無意識に翔平を探していた。その気持ちが声になった。
「翔平は・・・?」
「えっ、翔平?あいつ、今日は学校に来ていないよ。用事があるんだって。」
沙南が目の前にいるのに、いざとなったらどう切り出していいかわからず困っていた一平は、沙南の問いかけにほっとした。
大丈夫。今みたいに普段どおりにしゃべればいいんだ。しゃべる前からこんなに緊張してどうすんだ。落ち着け、俺!
一平は、そう自分にいい聞かせると、沙南に近づいた。
「私、翔平がいると思って・・・」
「えっ、なんで?翔平がいるって思ったの?」
自分に納得のいく答えをくれない一平に、少しイラッときた。
「だって!ここに来てって言ったの、翔平だから!」
普段の沙南が決して出しそうもない語気の荒いことばに、一平は、はっと息をのんで一瞬黙ってしまった。しかし、すぐに気を取り直すと、しどろもどろになりながらも話し始めた。
「あの、えっと、うん・・・実はさ、俺が、翔平にたのんで香村を呼び出してもらったんだ。」
頭をかいて照れくさそうに一平が言った。
「えっ?じゃ、じゃあ、最初から、今日ここで会う予定だったのは、一平だったってこと・・・?」
「うん、そう。俺、翔平には感謝している。このお膳立てしてくれたの、翔平だから。香村、俺さ、」
一平が沙南との距離を縮めて肩をつかんだ。怖いくらい真剣な目で沙南を見つめていた。だが、沙南は一平と目を合わせることなく俯いてしまった。一平は、少し話すのを躊躇ったが、決心したように沙南の肩をつかむ手に力を込めて話を続けた。
「俺、香村に言いたいことがあるんだ。香村、俺、おまえが好きだ。俺、ずっと、ずっと前からお前が好きだったんだ。俺と、つ、つきあってほしい!」
一平の手が、沙南の肩にくいこんだ。
一平・・・震えてる・・・本気なんだ。本気で告白してくれてるんだ。でも・・・
こんなのって、ない・・・
ここで、こうして私の肩をつかんでいるのは、翔平のはずだった。それなのに・・・
ううん。それどころか、一平が告白するお膳立てしたの、翔平だって!私・・・、私・・・
沙南には今の状況がどこか遠くのことに思えた。自分が想像していたのとはあまりにかけ離れすぎていた。
もし、今日の翔平の話が告白でなかったとしても、沙南は、自分から告白するつもりだった。せっかく4人から勇気をもらったのだから、いつまでもうじうじしてなんかいられない。だから、だめもとでも翔平に告白しようと思っていたのだ。しかし、沙南の勇気は心から出ることなく、一気に押しつぶされてしまった。
沙南の頬を涙が伝った。涙は、あとから、あとから流れ出す。沙南は、つっとわずかに顔を上げると、あふれる涙をぬぐいもせずにじっと一平を見つめた。
どうしてここにいるのが翔平じゃないの?
沙南の問いかけは、心の中に深く封印されて表に出ることはなかった。沙南は、声も出さずに泣きつづけた。
「香村、な、泣くなよ。」
一平は、思わず沙南を抱きしめた。しかし、沙南は抵抗しなかった。沙南は、現実を受け入れきれず虚脱感に襲われていた。何も考えられなかった。いや、何も考えたくなかった。沙南の瞳は光を失い、体は人形のように動きを止めていた。
「香村・・・」
一平の沙南を抱く手にますます力が入った。一平は、沙南が何も言わずに自分に抱きしめられているのを沙南も自分を好きなのだと誤解していた。
やった。マジうれしい。俺の気持ちが沙南に届いたんだよな。
一平は安堵のため息をついて、沙南を抱きしめつづけた。
その様子を見ている影が・・・2つ。
影の1つは、羽瑠と亜由美と郁美だった。沙南の恋を見届けるべく、後から部室にやってきて、部室の入り口から中を覗き見していた。
こっ、この展開は、なに?
3人は、声も出せず、動きもできず、事の次第を見ていた。
信じらんない。なんで、沙南と一平?
亜由美と郁美はお互いに目を合わせて、それから反射的に羽瑠を見た。
羽瑠の顔は青ざめていた。白く筋が浮き出るほどぎゅっと握った拳が、羽瑠のショックを表していた。
やばいよぉ~、沙南!一平のばかちん!!下手したら私らの仲、おしまいになるよ。
亜由美と郁美は、目の前の状況をただ、見守るしかなかった。
沙南と一平の様子を見ていたもうひとつの影。
その影は、校庭と道路を隔てる網の向こう側にあった。
逸る心を抑えて駆け足で学校まで来た。校門にまわるより、部室前の網の破れ目をくぐるほうが早い。翔平は、部室長屋のある方へと急いだ。
見えた。部室だ。
その瞬間、翔平の足が止まった。
部室の窓ガラス越しに見えるのは・・・、沙南と一平が抱き合う姿。翔平からは、沙南が泣いている様子は見えなかった。翔平の目に映るのは、抱き合った2人の姿だけ。一平の顔には笑みが浮かんでいた。
一平が笑いながら沙南を抱きしめている。俺の目の前で、2人は抱き合っているんだ。それも、笑いながら。
それで十分だった。翔平は、くるりと向きを変えた。今の姿を誰にも見られたくなかった。ぎゅっときつく握った拳が震えていた。顔を上げられない。拳と同じようにきつくむすばれた口元。大またで歩いていたのが自然と駆け足になる。熱くなる目頭。
苦しい、苦しい、行き場を失った俺の心。失恋がこんなに苦しいなんて知らなかった。もう何も考えたくなかった。誰にも会いたくなかった。