06
「一八九七年四月に香川氏は一匹の黒猫を拾った。どうやらそれは外来種であるらしく、汚れていた毛並みは夫人が洗うとすぐに艶を取り戻し、それはかわいらしい猫だったという。香川氏が家を出ると必ず付いてきて、学校内にも自由に出入りするようになった。嫌うものもいたが、その愛くるしい姿から生徒は『ルカ』と名前をつけかわいがっていた。しかし一年後、この猫は学校内の森の中で血を流して死んでいるのが発見される。おそらく殺されたのだという話になったが犯人はつかまらぬまま(香川氏が積極的に犯人探しを行わなかったため)わが校内の礼拝堂にてルカの追悼式が生徒たちの手によって開かれた。香川氏の悲しみも相当なものだったらしく、肩を落として帰宅する姿がたびたび見受けられたという。そんな彼をみかねて、当時生物教師として本校にいらっしゃったアメリカ人のジョン・アーノルド氏がルカを剥製か骨格標本にする事を提案し、香川氏は骨格標本にすれば生徒の学習のためにもなるだろうと決意した。現在生物教室においてある猫の骨格標本がこれである」
一週間後、俺はやっと香川ルカに関する記述を図書室で見つけた。学校の創立五十周年を記念した古い冊子の中に小さな記事が載っていたのだ。
あの夜、香川さんが消え去りしばらくして、俺は三人のいる教室へと戻った。記録は十八分二十七秒でおしくも十三分四十三秒という驚異的な記録をはじきたした明に負けてしまったが、後に彼が反則したことが発覚、そのため俺が繰り上げ一位となった。親にも先生にもばれずに一夜を過ごした俺達四人は朝練の生徒たちが登校してくる前に布団を戻し、朝飯を食べ、何食わぬ顔で教室に入り笑顔でクラスメイトをむかえた。朝からこの四人がそろっているという事に、かなり不審な顔をされたのだが。
二日たち、生物教室の猫の骨格標本が消えたという噂が流れ始めた。授業ついでに確認しに行くと、確かにいなくなっており、生徒も先生も「あんなものを盗んでどうするのだろう」と一様に首をかしげている。ただ一人、俺を除いては。
「なあ、もういいだろ?帰ろうぜー?」
晴太が俺の横で腕をぐるんとふり、本日三回目の言葉を吐いた。
「だーめ、晴太もちゃんと手ぇ合わせろよ」
放課後、夕暮れの中急に創設者の墓の事を思い出し、俺は晴太の制服を引っ張りそのまま走り出していた。「急にどうした」とか「どこ行くんだ」とかいう叫び声を無視して墓地まで走りとおし、オレンジ色の大気の中に浮かびあがった石碑を見た瞬間、なんとなく安心してしまい笑顔で振り向くと、
「変な奴」
と晴太があきれた、という表情をうかべていた。
「まだあの蛙ひきずってんの?きっともう成仏したって」
ぶつぶつと文句を言いつつも彼はきちんと手を合わせる。それを横目で見て笑い、俺はしゃがんでfor creaturesの文字を指でなぞってみた。
「晴太、知ってる?」
「何を?」
「この石碑はね、もともと一匹の猫が死んだから作られたんだって」
「へー、じゃあそれ猫の墓なのか?」
「ううん、死体を埋めなかったから、こんな墓銘にしたんだってよ」
「死体を埋めなかった?じゃあ、どうしたんだよ」
眉をひそめた晴太を振り返り、にやりと笑う。ここで一つ、新たな怪談をつくってやろう。
「この前消えた生物室の猫の骨格標本」
「・・・まさか」
「あれ、本物だったんだって」
石碑から手を放し立ち上がると、俺は校舎のほうへと歩き出した。
「消えたのって、もしかしたら」
晴太がいつもよりややか細い声を発したので、思わず微笑んでしまう。
「そうだね、今頃校舎の中を徘徊してるかもね」
吹き出しそうになりながら背中を丸めて走り出すと、夕日にのびた黒い影が一瞬だけ猫のように見えた。