02
「おうい」
声が聞こえた瞬間、思わず肩がはねた。図書室利用者の最後の一人が出ていくと同時に部屋を出ようか、それとももう一度、確かにあの声が聞こえるかどうか確かめようかと悩んでいる内に、はじまってしまったのだ。
思わずきょろきょろと周囲を見回してしまう。先ほど自分で電気を消し、真っ暗になった棚が目に入り、気味が悪かった。
「おうい」
今日もどうやら規則正しく「おうい」を繰り返すらしい。闇の中から響いてくる声は不気味としか形容できない。それなのに自分は、昨日まで平気で一人棚の間を見て回っていたのだ。そんな事、今じゃとても無理。
「あ」
気づけば、椅子に腰かけている脚が震えていた。どうしよう、怖くて動けそうにない。扉までは約六歩、これを歩ききれば出ることができる。しかし棚のほうに背を向けたくない。
「おうい」
俺の葛藤をよそに、声は同じトーンで繰り返される。
「勘弁してくれよ・・・・」
日誌も書いた、帰る用意もした、あとは扉の外へと出るだけなのに。溜息をつきかけたその時、いきなり扉が力強く開いた。
「よう、六角・・・て、そんなに驚かんでも」
入ってきたのは竹田だった。目を丸くして身を固まらせた俺を見て、軽く笑う。
「せ、先生かぁ・・・!」
人間で良かった。ほっと胸をなでおろし、椅子をひいた。震えている脚を見られたくはない。彼は大股で歩いて、俺の横に座ると、
「聞こえた?」
と楽しそうに訊ねてきた。
「おうい」
そこへタイミングよく、声がする。
「おお、本当だ。いるなあ」
にこにこと笑う竹田を見ていると、だんだんと恐怖は薄れていった。
「先生、どうしたんですか?」
もちろん今日も閉館二十分前に、俺に鍵を渡して図書室を出ていったのだ。それが、戻ってくるなんて。
「いや、六角が怖がってるかなと思って」
「はあ?わざわざそれを見に来られたんですか?」
「いいや、ただそれだったら俺の考えた遊びを教えてやろうと思ってな」
「おうい」
声に邪魔され、返事をしようと開きかけた口をぐ、とつぐむ。
「俺もはじめは怖かったが、これのおかげでずいぶん救われたよ」
「遊びって、一人でやるんですか?」
「いいや、あいつと遊ぶのさ」
「あいつ・・・って、『おうい』?」
「おうい」
「そうそう。次の声がきたらはじめるぞ」
し、と唇に人差し指を押し当て、竹田は楽しそうにほほ笑む。俺もつられ、彼を、見つめた。そして、数秒後。
「おうい」
「ある日森の中、熊さんに出会った、花咲く森の道、熊さんに出会った」
「おうい」
「熊さんの言う事にゃ、お嬢さんお逃げなさい、スタコラサッサッサのサ、スタコラサッサッサのサ」
「おうい」
俺は思わず噴き出していた。竹田の歌う「森の熊さん」に間髪よく「おうい」とあいの手が入る。竹田は上機嫌に最後まで歌い終わると、
「なあ、楽しいだろう」
と笑った。
「先生おかしい!うける!」
なおも笑い続ける俺に、先生は「ようし」と言ってさらに二、三曲のレパートリーを披露してくれた。
「どの歌で、どのくらいのテンポでいけばうまくいくか探すんだよ」
「先生、一人で歌ってたんですか?」
「うん。みんなが帰った後にね、あいつと二人で」
「普通あいの手が歌に合わせるのに」
「あはは、なかなかあいつはマイペースだからなぁ」
「合わせてくれないんですね」
「おうい」
「あ、返事したぞ。本人にもどうやら自覚があるらしい」
竹田の言葉に二人して笑うと「さあそろそろ出ようか」と彼は腰をあげた。俺も立ち上がり、出口へと向かう。脚の震えはすっかりどこかへ飛んで行ってしまったらしい。
「おうい」
「じゃあな、ばいばい『おうい』」
「悪さするんじゃないぞ」
竹田のおかげであれにすっかり親近感がわいてしまった。鍵を閉め、束を竹田に手渡すと、
「案外、おもしろいやつだろう」
と言ってくる。俺はうなずき、
「明日から、放課後が楽しみです」
と笑った。
「愛宕の山に入りのぼる月を旅路の友として」
「おうい」
今日は「おうい」が始まるまで、そわそわして待っていた。最後の生徒が出て行って、廊下を歩く足音が完全に消えた所に、早速「おうい」は声を出しはじめ、俺はまっていましたとばかりに歌い始めた。しかし、なかなか難しく、あいの手にぴたりとはまった曲は今のところ鉄道唱歌だけで。竹田はあの三曲を見つけるのにどのぐらいかかったのだろうかとぼんやりと考えた。
「おうい」
だんだんと知っている歌のレパートリーがなくなってきて、歌うのをやめてだまりこむ。「おうい」の間隔は意外と短い。そしてその中に入り込む歌もなかなか少なかった。
「おうい」
「ちょっと待て、今考えてんだから」
この分だと、最近の歌はほぼ無理だと考えてよいだろう。となればやはり童謡か唱歌しかない。
「おうい」
「黙っとけよ、考えてんだ」
無意識のうちに「おうい」に話しかけていた。しかし頭の中は歌のことでいっぱいでそれどころではない。
「おうい」
「はいはい、なんだよ」
このまま歌ではなく受け答えのレパートリーを考えるのも面白いかもしれない、そう思った時。
「聞こえるのか?」
はっきりと、声がした。
「そこに誰かいるんだろう?僕の声が聞こえるのか?」
それは確かに「おうい」の声で。
「は・・・」
再び、固まってしまった。
「聞こえるなら返事をしてくれ」
「おうい」以外の言葉をしゃべるなんて、反則だ。恐怖はなかったが、今までの歌と独り言を聞かれていたかと思うと、急に恥ずかしくなった。
「おうい」
「はい」
思わず返事をしてしまい、気づいた頃には、
「矢張りいた!君は生徒か?」
と声をかけられていた。
「生徒です・・・」
尋ねられたら答えてしまう、俺はどうやらそんな性分の持ち主だったらしい。多少の好奇心も加わっていたのもあり、俺は鍵の束を握りしめ、カウンターから棚のほうへと歩き出した。
「生徒か。生徒に良い思い出はないが、まあ良い。ちょっとこっちへ来てくれ」
「どこですか?」
「どこだろう。とりあえず、暗いよ」
「・・・ちょっと待ってくださいね」
俺は電気のスイッチがある所へ行き、いったん全ての電気を消した。それから一階の棚の電気だけをつけ、
「明るくなりましたか?」
と尋ねた。
「いいや、暗いよ」
「じゃあこっちだとどうですか」
「まだ暗い」
パチパチと、九つのスイッチをつけたり消したりしていく。六つ目のスイッチをオンにした時、
「やあ、明るくなった」
と「おうい」が言った。指の先に触れているスイッチは、書庫のものだ。
「わかりました、行きます」
スイッチをそのままに、まっすぐ書庫へと向かう。この間は本当に何も考えていなくて、ただ鍵を開けなければと束から合う一本を探し出して、扉をあけた。
「どこですか」
「ここだ、ここ」
棚の間を覗いていったが、人の、いや「おうい」の姿は見当たらない。
「何か見えませんか」
「本が見える」
「なんて題名ですか?」
「読めないからわからない」
となれば背表紙から題名がすりきれてしまったような古い本だろうか。が、生憎ここはそんな本ばかりで。片端から探していったら、時間がかかりすぎる。
「じゃあ、今から俺が歩き回るんで見えたら言ってください」
「了解」
書庫の入り口からゆっくりと、歩を進めていく。姿がなくて、声だけの存在だなんて、透明人間みたいだな。もしかしたらいきなり、後ろから襲われるかもしれない。いや、気づかれる心配がないんだから、前からくる可能性もあるな。
頭ではそんな事を考えていたが、体は全く震えてなかった。むしろ何故かリラックスしており、積み上げられた本の山に足をとられてよろめいたりした。
三列目の棚に差し掛かろうとした時、
「見えたぞ!」
と声がした。立ち止まり、周囲を見回す。ちょうど端だったので棚の本に加え、床の上に高く積み上げられていた。俺は右手の棚に向かって立ってから、
「俺今、あなたから見てどっちの方向に向いてますか」
と聞いた。
「右向きで横を向いているね」
右向き、という事は本が積み重ねられた方向に彼がいるという事だ。そちらに向きなおりじっと目を凝らしてみたが、何も見えなかった。
「姿、何も見えませんけど」
いや、幽霊だから見えなくて当たり前なのだろうか、ちらりとそんな事を思っていると突然チャイムの音が鳴り出した。驚いて腕時計を見ると、時刻は六時三十八分、もう完全下校時間を過ぎている。
「まずい!」
そろそろ警備員が校内を巡回し始めるはずだ。つかまったらうるさいと、クラスの奴が言ってたっけ。
「どうした?」
「おうい」がのんびりとした声をだす。
「ごめん、もう俺帰らなくちゃいけない時間なんです」
「ほう、また来るか?」
「明日の同じ時間に、きます」
「ではまたその時に続きを頼もうか」
「あ、はい」
「主人が言っていた。生徒は早く家に帰宅させたほうがよろしいとな。それでは、また明日」
「はい、さようなら」
見えなかったが、とりあえずお辞儀をして書庫から駆け出て鍵を閉め、電気を消し、図書室自体を閉鎖した。今日はもう「おうい」の呼び声はしなかった。
「(ずいぶん紳士的な印象だったな)」
それが少し、おかしかった。