01
「おうい」
放課後。大半の生徒も帰ってしまい、誰もいなくなったはずの図書室の奥から、男の呼ぶ声がした。一瞬、先生かなと思ったけれど、彼は先ほど自分に鍵を渡して閉めておくようにとだけ言い残し帰ったはずだった。空耳だったのだろうか、そう思い本棚の電気をパチパチと消していくと。
「おうい」
確かに、また声がした。
「誰か残ってるなら、早く出てください。もう閉館です」
下級生がふざけているのだろうかとため息交じりにそう声をかけると、
「おうい」
と、同じ声色がまた響く。全く、こっちはもう帰りたいのに、そんな思いで消した電源をまたつけ、本棚のほうへと足を向けた。
「もう六時ですよ、出てください」
普段では絶対に床を踏みならして歩きなどしないが、わざとカーペットのひいてある床をドスドスと音をたてるように歩く。自分は不機嫌なのだ、そんな主張をしたくて。
「おうい」
ふざけるのも大概にしてほしいと、四回目の呼び声にしてすでにイライラは頂点に達しようとしていた。一階の本棚には、どうやらいないようだ。二階へと上がるスロープをのぼりながら、もしかしたら同級生の犯行かと思い直しはじめる。この手のいたずらが好きそうな奴らの顔がちらほらとうかんだが
「おうい」
この声はその中の誰でもない。
「借りる本があるならさっさと借りて出てください」
自分の声がむなしく図書室に響き渡る。まさか、この声が相手に聞こえていない事はあるまい。
「おうい」
しかし、男の声色は変わらない。まるで機械で何回も再生しているような声だ。テープの巻き戻し音でも聞こえやしないかと、じっと耳を澄ましてみる。
「おうい」
しかしそれらしい物音はまったくしないで、次の「おうい」が聞こえた。
「鍵、閉めますよ」
二階の棚を最後まで覗いたが、人影は全くない。あと見ていないとしたら、鍵のかかっている書庫だけだ。スロープをおり、書庫の前まで歩いて行くとその間定期的に聞こえていた「おうい」が止んでしまった。
「中に誰かいるんですか」
手に持っている鍵の束には書庫の鍵もあるはずだ。しかし、十個以上連なっているその中の、どれかまでは知らない。
「いるならふざけないで出てきてください」
ドアノブを回してみたが、鍵はしっかりとかかっている。確か、ここのドアは内側から鍵を開閉できたはずだから、閉じ込められたというわけではないだろう。
「図書室、閉めますよ」
軽く舌打ちして返事を待ったが、一分たっても先ほどの声はしなかった。
「本当に閉じ込めますよ、知りませんからね」
吐き捨てるように言い、くるりと踵をかえすと、俺は出口へと向かう。扉の横の電気のスイッチを一気に消して、扉をくぐろうとしたその時。
「おうい」
また、声がした。ちらりと手元の鍵を見て、ため息をつく。このタイプならば、内側からあけることができる。
「ここ、閉めるけど内側から開くみたいだから、自分で何とかしろよ」
「おうい」
最後の声を無視してガチャガチャと鍵を閉めた。もし彼がこの後出てきて鍵が開いてしまっても、俺が明日早く学校へ来て鍵をかければ先生にはばれないだろう。
「(全く変な野郎だ)」
何が楽しいんだか。ふうと大きくため息をついて、ぐるんと首を一回転させると、俺はそのまま下足箱へと駆け下りていった。
翌朝、図書室の鍵は開いていなかった。どうやらかれは一晩この中で過ごしたらしい。もしくは、鍵をもっていたか。前者だと、中で干からびていないかと少し心配したが、それでも自業自得だ。けれども流石に図書室から死体が発見されたら後味が悪いので、のぞいてみることにした。
「おはようございまーす」
鍵を差し込み扉を押すと、昨日と同じでしんと静まり返っている。鞄をおいてまっすぐ書庫の前に行き、
「おはようございます」
とやや大きめの声をだしてみた。数秒待ったが、返事はない。
「(閉まってら)」
ドアノブに手をかけてみると、どうやら鍵はしっかりとかかっているようだ。昨日の男は図書室の鍵以外に書庫の鍵も持っていたらしい。
「(いや、待て、ずっと出てないのかも)」
それこそ中で声も出せないほど衰弱していたとしたら。ほとんどありえないと思いつつも鍵の束から一本ずつ、合うものを探していった。六本目にしてやっと開き、ドアノブを回す。
「大丈夫ですかー」
棚には乱雑に本が積み重ねられ、端のほうの床にも小高く山ができている。生徒が普段利用できる棚とは大違いだなと思いつつも、天井のやや低い中を歩いたが、四つの棚の間に人の影はなかった。
どうやら本当にからかわれたらしい。そう思うとにわかに腹がたってきて、荒々しく書庫の鍵を閉めると、俺は出口に向かった。鞄をひろい、再び図書室に鍵をかける。普通の生徒は図書室、ましてや書庫の鍵なんて持っていない。そう言えば、この前先生が二つ鍵が無くなったとぼやいていたから、誰かがいたずらのつもりで盗んだのだろうか。
「(ここを拠点に、肝試しでもしたのかな)」
からかわれたが、どうも気に食わなかった。
「返却日は三十日です」
はい、と下級生に本を手渡すと「ありがとうございます」と軽く頭を下げられ図書室からでていった。五時五十七分、今日もそろそろ閉館の時間だ。先生は二十分ほど前にまた俺に鍵を手渡して帰ってしまった。本当、人使いが荒い。
「そろそろ閉館の時間でーす」
少し大きい声をだせば、ここでは十分に響き渡る。俺の声を合図に、棚の間から数人の生徒が本を片手に出てきた。だいたいこの時間まで図書室に残っている顔ぶれはいつも一緒だから、クラスと番号を覚えてしまっている。貸出カウンターに戻り一足早く四枚の貸し出し用カードをテーブルの上に出しておいた。
自分も机の上に広げていた宿題を片付けてから、生徒が残っていないか確認をしに棚の間を見て回ることにする。普段はこんな面倒な事はしないのだが、昨日のような事態になってほしくはない。一階、二階と見て回り書庫の中も確認すると一人満足してうなずき、カウンターに戻った。カウンターではまだ二人がカードを書いていて、俺はその前の椅子に腰を下ろす。書庫にも棚の間にも、生徒はいなかった。目の前の二人が出て行けば俺以外の人間はいなくなる。
「さようなら」
貸し出し手続きをおえたカードをそれぞれ提出し、二人は扉をでていった。その背中を見送り、図書日誌でもつけようかと引出しからファイルをとりだした、その時。
「おうい」
また、声がした。空耳かと思い無視してファイルを開いて綴じられているプリントに今日の日付を記入していく。貸出人数まで書いたところで再び、
「おうい」
と聞こえた。間違いない、今のははっきりと聞き取れた。
「もう閉館って言ったじゃないですか」
立ち上がるのも面倒で、座ったまま声をはりあげる。コメントの欄に何を書こうかと考えていると、また、
「おうい」
と一言。そうだ、どうせならこの声の事をここに書いてやろうか、そう思いついたがばれたら彼にとってまずいだろうと思い、やめておいた。代わりに、今日は本を借りていった人数が多かった、と書いた。
「また鍵閉めますよ」
ファイルをもとの場所に戻し、立ち上がる。鍵の束で右手左手とキャッチボールをしながら、さてどうしたものかと踏み出しかけた足をとめた。
「おうい」
「からかってるんですかー」
とりあえず、帰り支度を全て整える事にしよう。椅子にかけていたコートを着て、カバンを出口まで持っていく。
「おうい」
「からかってるんならもう出ますよー」
先ほど、棚の間を確認したはずなのだが。ざっと見て回っただけだから、見落としてしまったのかもしれない。
「(棚の上に登って、隠れようと思ったら出来るよな)」
わざわざそんな事をする奴がいるなんて、にわかに信じがたいが。
「おうい」
けれど、声がするという事は誰かがいるということだ。
「俺もうでますよ」
「おうい」
「鍵一応閉めますけど、この後出るなら昨日と同じように鍵閉めといてくださいね」
彼が鍵を持っているらしいというのが唯一の救いだった。安心して、帰宅できる。
「おうい」
「さようならー」
カチリと鍵を閉め、鍵の束をポケットにつっこむと暗闇の中を歩きだした。
「(二日も連続で肝試しはおかしいよなあ)」
家出でもしたのだろうか。友達の家に泊めてもらえなかったから、仕方なく学校に泊まっているとか。
「(だったら呼ばねえよな)」
ひっそりと息を殺して人が出て行くのを待つ、俺だったら絶対そうする。
「(もしかして、不審者?)」
何か盗られた、とかいう情報は聞いていない。しかし、もし不審者だったのなら、先生に伝えておくのが得策だろう。
俺は下足箱に向けていた足をくるりと方向転換し、職員室に向かった。廊下や教室にもう電気はついていなかったが、職員室では明々と蛍光灯が灯され、窓からは中でせっせと働く先生たちの姿が見て取れた。
「失礼します」
扉をノックし、足を踏み入れると出ようとしていた先生とぶつかりそうになり、思わず後方へ飛び退く。
「おう、六角まだ残ってたのか」
「竹田先生」
帰ったはずじゃなかったのか。昨日今日と、俺に図書室の仕事をまかせておいて、ここにいるなら図書室にいても良いはずなのに。
「鍵返却か、御苦労さん」
はい、と差し出された竹田の手を無視し、俺はなるべく小声で、
「先生、何か図書室に不審者がいるみたいなんですけど」
と告げた。
「不審者?」
「はい。昨日・・・からなんですけど、『おうい』って声がするんですよ。それで、棚の間とか見て回ったけど、姿が見えなくて。聞き間違いかと思って昨日はほっておいたんですが、やっぱり今日も聞こえたから気になって」
いくつかの事柄は伏せておく。人がいると確信しているのに鍵を閉めたと知れたらきっとまずいだろうから。先生は俺の話を真剣に聞いていたかと思うと、予想に反してにやりと大きな笑みをうかべた。
「ほー、六角もきいたかぁ」
「は?」
「その不審者、俺も知ってるよ」
「なら何で対処しないんですか?」
「うーん、俺の知ってるかぎりでかれこれ九年はあそこにいるかなあ」
「九年?・・・それって」
まさか、その可能性は微塵も考えていなかったのに。
「うん、幽霊だろうね」
竹田のけろりとした言葉にすこし面喰ってしまった。肝試しではなかったのだ。むしろ、俺の肝っ玉が試されていたようで。
「どうにかしないんですか?」
あまりその類のものは信じないようにしているけれど、実際いるとなるとやはり気味が悪い。
「ははは、どうにかできるかねえ」
「御経あげるとか」
「ここはキリスト教学校だぞ。せめて祈りにしとけ、祈りに」
どうやら竹田はどうするつもりもないらしい。陽気に笑う白髪頭を見ていると、何故だかこちらまでも「まあ良いか」という気分になってくる。
「姿とか、見えるんですか?」
「俺は見たことないが」
「声だけか」
姿が現れてもきっと怖いだろうけど、声だけとなるとそれも場所が特定できないから気持ちが悪い。
「うん、でも聞こえる奴と聞こえん奴がいるみたいだぞ」
「聞こえる奴と聞こえん奴?」
「お前を入れて今までに俺にそのことを言ってきた生徒は九年間に二人だけだ」
「二人?九年間で?」
少ない、素直にそう思った。
「六角が気味悪いって言うなら放課後当番誰かに代わってもらえ」
「あ、いえ、大丈夫です」
気味が悪いが、おそらく害はないのだろう。話しかけても「おうい」しか繰り返さなかったし。先生に「さようなら」と言い小さく礼をしてから、俺は職員室から退室した。廊下の暗闇に幽霊の気配がしないかと、少しびくびくしながら。