はじめの1歩、つまずいたっていいんじゃない?
「ただいま。はぁ…」
憂鬱とした顔で玄関の扉を開けてから、私は大きなため息を吐いた。
「おかえり」の返事はない。
寂しいけど、独り暮らしをしている以上は仕方がない。
真っ暗な部屋に電気を点けてから、私はフゥ…と2度目のため息を吐いて机に突っ伏した。
そのまま思い返すのは、まだ数分前に働いていたアルバイトのことだった。
都内にある大型デパートにテナントを借りて経営している雑貨店に、私はアルバイトとしてついこの間雇ってもらえた。
私は、生まれつき気弱で自信が持てない性格だった。
だから、自分なりに頑張ってもほとんどが空回りで終わってしまい、一緒に働いている同僚の先輩たちに迷惑ばかりかけてしまう。
そのたびに私は厳しく叱られ、罵られ、蔑まれる。
ただ、今のアルバイト先は色々とおかしい。
出勤してすれ違いざまに「おはようございます」と挨拶しても、ほとんどの先輩方は無視して会釈すらしない。
そのくせ、バックヤードから売り場に出た瞬間には、模範的ともいえる笑顔をお客さんに振りまく。
片や単なる仕事仲間、片やお客さま、神さま。
だからなのかもしれないけど、差別する必要があるのだろうか?
少なくとも、私はそう思わない。
そわからないことをおずおずと尋ねると、露骨に「チッ」とイヤな顔で舌打ちされるし、「なんでそんなことも知らないんだッ」と、まるで何度も教えてきたような口ぶりで叱責されることも度々あった。
情報の共有もうまくできておらず、ほかの先輩から聞いた通りのことをやると、別の先輩から「違うに決まってるだろッ」とお叱りを受ける。
ほかにも、出し抜けに出勤を命じられたり、先輩に無理やりシフトを変更されられたりと、散々な扱いばかり受けている。
そんな職場環境が生み出された原因は店長の昔気質さにあるらしい。
昔の人だから…という言い訳ができるかもしれないけど、、私からしたら“異常”の一言に尽きる。
とにかく、あの雑貨店に渦巻く雰囲気はまともじゃない。
…と、ネチネチと文句を言っているくせに、私は未だにしがみ付いている。
あそこは、いくつも面接に落ちた私がようやく手にした社会勉強の初舞台だったから。
辞めたら、また不採用の地獄にさいなまれてしまう。
この恐怖感が、転職を考える私の心に停止信号を送って制御しているのだ。
大学在学中はこのバイトを続ける。そう私が決意したため、買いだめしていた履歴書の紙だって受かって以降手を付けず、今では引き出しの中で眠っている。
恐らく、就活が始まるまで忘れ去られてしまうだろう。
そうは言っても、アルバイトの面接だけで何度も落ちるようでは、先が思いやられるが…。
(…あぁ。考えれば考えるほど、頭がグラグラする…)
まるで、脳がフラフープをしているかのようだった。
我ながら奇妙なたとえだ。
私は机に突っ伏したまま、スマホを開いて画像ファイルを覗く。
両親、妹、愛犬、そして祖母の写真が数多く保存されている。
祖父は、私が産まれる前に交通事故に遭って亡くなってしまったから写真はない。
実家では、共働きの両親と高校生の妹と柴犬愛犬が一緒に暮らしている。
祖母も住んでいたけど、数ヶ月前に病気で倒れてそのまま息を引き取ってしまった。
私は、小さい頃からおばあちゃんが大好きだった。どのくらいかというと、葬儀のときに人目を憚らずオイオイと号泣したほど。
(おばあちゃん…)
にこやかな笑みを浮かべて料理を作っている祖母の写真を見て、私は無性に会いたくなった。
それが果たせないのが、このときとてつもなく虚しく思えた。
結局、その日は夕飯も喉を通らず、私は鬱積した気持ちを振り払うように早く寝た。
数日が経ったある日、講義中にスマホがあるメッセージを受け取った。
【出勤予定のAが急に体調を崩し休みました。夕方代理で来てくれますか?】
店長からのメールだった。
疑問符付きだったけど、有無を言わせぬオーラがひしひしと伝わってくる。
(イヤだなぁ…)
そう言いつつ、指は自然と【了解しました】と打つ。
断れば後が怖い。その心理が私の脳を蝕んでいた。
大学を出て、自転車にまたがりアパートへと向かう。
その間、顔は終始げんなりしペダルを漕ぐ力も弱々しい。
身支度を整え、いつものようにデパートから店へ移動しバックルームへ。
「おはようございます」
いつも通りの挨拶、しかし返事はない。
もはや慣れっこだったけど、モヤモヤだけは相変わらず収まらなかった。
私を無視した先輩が売り場へ出ると、猫なで声で接客を開始した。
そのたび、憤りよりも孤独感が心を支配する。
商品の品出し、補充、発注、整理を黙々と行うが、その間も機械的に動く先輩たちの目を私は無意識に気にしていた。
「おい!」
「ちょっと!」
「ねえ!」
そばを通るたびに、いきなりそう声をかけられそうな妄想に囚われ、意味もなくドキドキする。
バイト先で当たり前と化した恐怖だ。
時間が経ち、レジの担当が回ってきた。
そそくさと用意してレジに向かう。
「レジ交代します」と、さっきまで担当していた先輩に一声かける。
返答の代わりに聞こえよがしなため息…。
先輩が引き上げた後、私は次々と訪れるお客さん相手に商品のバーコードを読み取った。
無言のお客さんもいれば、「ありがとう」とわざわざ言ってくれるお客さんもいる。
鬱屈した空間でようやく味わえるコミュニケーションの瞬間。
だから、私にとってこの時間が1番の心の安らぎだった。
ただし、その安らぎのひと時にも必ず障壁が立ちはだかる。
レジ袋の補充のためしゃがんでいた私は、ドサッという音に驚いて立ち上がった。
背広姿の小太りなサラリーマンが、スマホをいじりながら商品を乱暴に置いたらしい。
「いらっしゃいませ。お預かります」
某ファストフード店とは比較するまでもないぎこちない笑みを浮かべて、商品のバーコードを1個ずつ読み取る。
その間も、小太りなサラリーマンは無愛想な表情で黙々とスマホを触っている。
会社の備品用と思われる商品をすべて通し終え、会計に入る。
青い釣銭用の受け皿を前に差し出す間もなく、サラリーマンはずっと片手に掴んでいた千円札をペッとゴミのように投げ捨てた。
あッ…という私の声とともに、スライドした千円札が落下して台と床の隙間に滑って行った。
私は隙間に手を入れて掴み取ろうとした。
しかし、わずか数センチしかないため届く前につっかえてしまった。
やがて、悪戦苦闘している私にしびれを切らしたサラリーマンが「なにやってるんだ? 早くしろよッ」と、店内に響き渡るほどの声量で怒鳴った。
頭が真っ白になった私は、そばにあった細い棒(なんのためにあったのかは不明)を手にして、それで千円札をホコリまみれの場所から救出した。
立ち上がり「申し訳ありませんでした」という言葉と一緒に頭を下げる。
サラリーマンは早くやれというように手を振った。
いつの間にか、レジには長蛇の列。
余裕のときは来ないのに、誰かが来ると見計らったように列をなす。いつも不思議だった。
慌ててレジの応援を要請するボタンを押してから、会計に取りかかる。
焦りと戸惑いで目を泳がせながら、私は会計を終え商品を袋に入れた。
袋を差し出すと、サラリーマンはひったくるようにそれを受け取った。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
ほとんど涙声に近かった。
とんだ災難だった、とでもいうように露骨なため息を吐いて立ち去ろうとするサラリーマン。
そのとき、後ろに並んでいたお客さんに肩が触れ、サラリーマンが大げさによろめいた。
一方、肩をぶつけられた高齢のおばあちゃんが松葉杖を握ったまま尻もちをついた。
なにがそんなに気に入らないのか、サラリーマンが今度はおばあちゃんに啖呵を切り始めた。
ふくよかな見た目にふさわしいほどの声量で、床に座り込んでいるおばあちゃんに怒声を浴びせるサラリーマン。
並んでいるお客さんはただ見ているだけで、おばあちゃんを助けようとはしない。
集団心理、という言葉が脳裏によぎった。
ヒートアップするサラリーマンにおばあちゃんは完全に射すくめられ、今にも泣きそうな顔を震わせながら相手の顔を恐々と見上げている。
私は、ただオロオロするしかなかった。実に情けない。
ようやく、レジの応援に先輩が現れた。
たけど、目の前で起きている事態には目もくれず、与えられた使命であるレジを淡々とこなす。
とうとう、おばあちゃんが泣き出してしまった。
それをキレながら小バカにするサラリーマン。
嗚咽を漏らすおばあちゃんをよそに、向かいのレジでは店員とお客さんのごく平凡なやり取りが繰り広げられている。
一瞬、これは現実なのかと思えるほど、その光景は私の胸をえぐるほど残酷だった。
泣き崩れるおばあちゃんを見て、私の頭の中に浮かび上がったのは今は亡き祖母の顔。
瞬間、私の中で異変が起きた。
「…もう、やめてあげてください」
喉から絞り出すように私は言った。
サラリーマンだけでなく、応援に来た先輩が動きを止めて私を見た。
列をなしていたお客さんも、一斉に私を振り返った。
一瞬、時間が止まったのかと思うほど、誰も微動だにしなかった。
おばあちゃんが鼻をすすりながら顔を上げて私を見た。
「お前には関係ないだろうが」
目力だけで人を殺せそうなほどの勢いでサラリーマンは私を睨んだ。
ブルッと体が震える。
怖いし、今にも逃げ出したい。そう思うほどの迫力だった。
チラッと、おばあちゃんに目を向けた。
鼻をすすりながら見つめるおばあちゃんの顔と、祖母の顔が重なった。
不毛地帯に突如咲く場違いな花。
その花のように勇気が湧いた。
「それ以上、その方を責めるのはやめて下さい。さもないと、営業妨害で警察に通報させていただきますが、よろしいでしょうか?」
サラリーマンの目をジッと見つめて、私は途切れなく言った。
「け、警察って…。大げさにもほどがあるだろ。オレはただ…こ、このババアがぶつかってきたからキレ…注意しただけだぞ」
と、サラリーマンは言ったが、額からは脂汗が滲み出ていた。
ふと、応援に来た先輩が私に向かって首を横に振っているのが見えた。
それ以上、余計なことは言うな。青白い顔がそう言っていた。
しかし、私はなにも見てないフリをした。
「あきらかにぶつかったのはお客さまであって、この方ではありません。それにも関わらず、これ以上勝手なことを申すのであれば、私は見たことを警察にありのままにお伝えします。それがイヤでしたら、どうぞ今すぐお引き取り下さい」
自分でも驚くほど毅然とした態度で私は言い放った。
サラリーマンはふくよかな顔から湯気が出そうなほど顔を真っ赤にさせると、ドスドスと足音を鳴らしてレジから退散した。
最後の悪あがきといったところか、出入り口にある商品棚に強烈な蹴り入れた。
私は動じず、口元を引き締めたまま後ろ姿が見えなくなるまで見届けた。
見えなった途端、ドッと脱力感が押し寄せ私は肩を落とした。
そして、おばあちゃんに駆け寄った。
「ありがとう…ありがとうね…」
助け起こした私の手を両手で握り締めて、おばあちゃんはしきりに感謝した。
よかった…と、目頭が熱くなった。
しかし、その後に襲ったのは虚無感だった。
その後、私を待ち構えていたのは店長の説教だった。
離れで一部始終を見ていたという店長は、ほかの店員たちがいるバックヤードで私を叱り飛ばした。見世物同然で、実際先輩たちはほくそ笑みながら叱られる私をチラチラと見ていた。
反論の意思はあった。だけど、行動には出さなかった。
出したところで、火に油を注ぐだけだと分かっていたからだ。
説教後、いつにも増して孤独感を味わいながら私は仕事を再開した。
仕事が終わり、心ここにあらずな顔で自転車を漕ぎながらアパートに帰る。
「ただいま。おかえり」
空しいのは分かっていたが、自分で自分に反応した。
電気を点け、そのままベッドの上に座る。
少しボーっとしてからスマホを取り出し画像ファイルを漁る。
懐かしい家族の写真を1枚ずつ眺めていく。
途中で、朗らかな笑みを浮かべる祖母の写真に出くわした。
…グスン。
ボンヤリとその写真を眺めているうちに、こらえていたものが込み上げてきた。
液晶に映る祖母の顔にポツンッ、ポツンッと滴が落ちる。
俄然、液晶の祖母が消えて真っ白な画面に「お母さん」と表示される。
母からの着信だった。
独り暮らしをしてから、お母さんとお父さんは時々連絡をくれる。ごくたまに、妹も。
涙を拭って鼻をすすってから、私は電話に出た。
「元気にやってる?」
屈託のない母親の声が飛び込んできた。
私は平静を努めて、軽い近況報告と実家の様子を聞いた。
なんとかやっているように装ったつもりだが…。
「なにかあったの?」
お母さんが心配そうにそう尋ねた。
私はとぼけたが、お母さんはわずかな語調の変化から様子が変だと見抜いたらしい。
仕方なく、私は今日あったことを打ち明けた。
ついでに、これまでアルバイト先で経験した理不尽な経験も一緒に添えて。
お母さんは、言葉の合間に「うん、うん」と、声に出してしっかりと聞いていることを示してくれた。
話し終えたとき、わずかな沈黙が流れてからお母さんが口を開いた。
「とんだ災難だったわね。今どき、そんなひどい職場があるなんて信じられないわ。そのお客もお客よ。きっと、会社で虫の好かないことでもあって――」
と、露骨に嫌悪感をむき出してお母さんはペラペラと言った。
それがとても頼もしく、そして温かく感じられた。
「…私、これからどうしよう」
上の空のままボソッとつぶやいた私に、お母さんは「えッ」と驚いた。
「そんなことがあったのに、まだいるつもりだったの? てっきり、見切りをつけて辞めるかと思ってたのに…」
と、意外そうにいうお母さんの言葉には、わずかなショックも込められていた。
当然か、と私は苦笑した。
最悪な職場と分かってもなお居続けるなんて、普通に考えたらまともとは思えないもん。
「思い切って辞めちゃいなさいよ、そんなとこ」
と、他人事のようにいうお母さんに私は困惑した。
そりゃあ、できることなら今すぐにでも辞めたい。でも…。
「面接を何回も落ちてようやく就いた仕事だから、辞めたくても心のどこかで躊躇して…。それに、初めてのアルバイトを辞めたら、今後もうまくやっていけなくなるような気がして…」
すっかりいつもの内気な自分に戻った私は弱々しく言った。
すると…。
「今、あんたは足場の悪い道を歩いています」
「え??」
唐突に意味不明な解説を事務的な口調で始めたお母さんに私はキョトンとした。
「そこであんたは、なにかにつまずいて転びそうになりました。さて、どうする?」
「どうするって…。そばにあるものに掴まる」
「ダメ。手は使わないで」
「え、えっと…。もう片方の足で踏ん張る」
「そういうことよ」
「どういうこと?」
お母さんがなにを言いたいのか分からず、私は思わず身を乗り出して聞いた。
「人生は道そのものよ。とんとん拍子に出世し軌道に乗る平坦な道もあれば、様々な苦難が待ち受ける石や窪みだらけの険しい道もある。アルバイトという社会勉強の一環に踏み出したばかりのあんたは、後者の障害物まみれの道を歩いていて足をつまずかせてしまった。そうでしょう?」
「そう…だね」
私の脳裏で、その“障害物”であるクレーマーのサラリーマンがよぎった。
「でも、あんたはもう片方の足を踏み出して、倒れるのを防いだ。つまり、自分の意思で苦しい状況を打破して挫折を乗り越えた。でも、それは誰もが経験するし誰もがやること。肝心なのは、挫折して(つまずいて)も再び歩み出せるということよ」
「再び歩き出せる…」
テレビや映画で感慨深い名言を聞いたときのように、私はポツリと復唱した。
「初めて就いた仕事だから、中々決断が下せない気持ちは分かる。でもね、出だしがダメだったからといって、将来までうまくいかないだろうと悲観することなんてないわ。たとえこの先何度つまずいたとしても、もう片方の足で踏ん張って再び踏み出せる限り、突破することは可能なんだから」
気付けば、私はお母さんの言葉に聞き入っていた。
「険しい道中を歩き続けていれば、必ずいくつもの障害物につまずいてしまうわ。ましてや、道の状況も分からないスタートのときなんてなおさらよ。だから、はじめの1歩でつまずいちゃったとしても、そんなこと構わずに堂々と突き進めばいいんじゃないかしら?」
「………」
「もしもし、聞いてる?」
「…え? あ、うん、聞いてる。ありがとう、少し元気が出た気がする」
「元気が出たならいいけど、今のお母さんの言葉忘れないでね。勇気を振り絞って自信を身に付けられたあんたなら、この先険しい道で何度つまずこうとも、絶対に克服するだろうと私は信じてる。だから、1度冷静になって考えてみなさい。最後はどうするか、決めるのはあんた次第だけどね。オーケィ?」
と、最後はハツラツとした声でお母さんは言った。
「うん…分かった」
最後に一言「ありがとう」と言って、通話は終了した。
スマホが真っ白な画面から、おばあちゃんの写真に切り替わった。
写真を見ながら、お母さんの言っていた言葉を反芻する。
(私…つまずいても、歩き続けられるかな?)
液晶に映るおばあちゃんに心の中で尋ねた。
返事はない。だが、おばあちゃんの口が「もちろん」と言ったように見えた。
当然、錯覚に決まっている。
しかし、おばあちゃんならそういって励ましてくれる。
その確信だけでも、しっかり心の支えになった。
私はスマホを使い、アパートと大学からそれほど遠くない場所でアルバイトの求人をしている店舗を探した。
いくつか候補をピックアップし、具体的な業務内容を確認。
その作業を終えてから、棚にしまってあった履歴書の紙を取り出す。
いくつも面接を落ち、泣く泣く新しい履歴書を書いているときの記憶がフラッシュバックしたが、それも一瞬のことだった。
私は深呼吸をし気持ちを整えると、黙々と履歴書にペンを走らせた。
はじめの1歩ならぬ、2歩目に踏み出すために…。




