表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

二階の迷路と生きる壁

作者: KZM
掲載日:2025/11/30

この物語は、完全に私が実際に見た夢の内容を書き起こしたものである。

現実と夢の境界は曖昧で、記憶も断片的だ。だから、文章には時間や場所の順序の狂い、説明しきれない出来事がそのまま残っている。


夢の中で私は、ギターさえ弾けないのにバンドに入れられ、ライブの舞台に立った。そこで、家が呼吸しているのを見たのだ。壁が生きている。膨らみ、萎み、手を振り、声をあげる。逃げようとしても、階段を降りても、二階しかない部屋からは出られない。少女が現れ、そして消える。私だけが、家の意思と呼吸を感じていた。


これは夢の記録であり、創作ではない。だからこそ、不条理で、意味のわからない怖さがある。読み進めるうちに、読者の胸にも、じわじわと息をする壁の感触が残るかもしれない。


それでも、私は書き残すことにした。

夢は消える。だけど、言葉にすれば、少しだけ形を持つから。

俺は、ギターも弾けないくせに、なぜかギター&ボーカルとしてバンドに加入することになっていた。理由は誰も教えてくれない。言われたことも、承諾した覚えもないのに、名前は出演者リストに載っていた。気づけばもう、ステージに立つ日になっていた。手の震えは止まらず、弦に触れる指先の感覚もない。舞台袖に押し込まれ、照明が俺だけを切り取った。周囲の音は消え、鼓動だけが鮮明に耳に届く。


 最初の一音を鳴らそうとした瞬間、アンプから音ではなく、呼吸音が漏れた。ざわり、と客席が揺れたような気がしたが、観客は静かに拍手を続けていた。天井を見上げた瞬間、言葉を失った。壁が、呼吸していた。膨らみ、萎み、膨張と収縮を繰り返す木材の繊維が、肺の筋肉のように脈打っている。その呼吸はステージだけでなく、建物全体を覆っているようだった。低く、湿った声が俺の胸の奥まで響いた。客席の誰も気づいていない。俺だけが知ってしまった。俺だけが、壁が生きていることを。


 逃げた。ステージの袖を抜けた瞬間、見覚えのある廊下に立っていた。自分の家──のはずだった。しかし空気が重く、壁はわずかに膨らんで呼吸を続けている。玄関へ向かう。ドアはない。代わりに階段が現れていた。手すりも、出口も、何もない階段。駆け上がる。二階。駆け下りる。二階。左右に走る。二階。理解した。ここには、二階しかないのだ。背後からかすかな足音がする。振り返ると、一人の少女が立っていた。顔立ちはぼやけ、輪郭は霞む。だが目だけは鮮明で、俺を見据えている。


「逃げるの?」

「ああ」

「ここから?」

「どこだ……」

「あなたの家。あなたの心。どちらでもいい」


 手を取られる。氷のように冷たい。振り返れば、壁は膨らみ、木の指を振るわせている。別の部屋を覗く。そこには巨大な“肺”のような木材の塊があった。壁を突き破り、部屋全体を圧迫するように膨張させながら呼吸している。低く、湿った声がまた響く。少女が囁く。「ずっとね、あなたを待ってたんだって」。「誰が」。「この家」


 理解しようとしても、理解できなかった。意識は焦点を失い、時間が歪んでいく。俺は少女を抱えて階段を飛び降りた。しかし着地した先は──二階だった。右から東へ、風が吹く。窓がないはずなのに。少女と目を合わせる。深い哀しみが宿っている。


「もう逃げられない。でも、飛ぶことならできる」

 窓などないのに、俺たちは空へ跳んだ。轟音、割れる感触、落下。彼女の手が離れた。地面に触れた瞬間、壁が苦しそうに震え、低く鳴いた。俺だけが別のフロアに着地していた。そこは、見覚えのある自室だった。机、ベッド、パソコン。何も変わっていない──のはずだった。壁が膨らむ。木片が飛び散り、その一本が首筋を深く刺した。そして、聞いた。「ごめんね」かつて母が寝かしつけるときにかけてくれた声と同じだった。目を閉じると、微かに、まだ呼吸が聞こえる気がした。「……おーん……」


 意識が揺らぎ、時間の感覚も崩れた。再び目を開けると、部屋は変わっていない。しかし、窓の外には見知らぬ景色が広がる。夜空なのか昼なのかもわからない。空気は重く、耳元で呼吸が響く。歩くと床が軋み、壁が波打つ。壁が、呼吸している。走ると廊下は無限に伸び、階段は二階しか存在しない。どこまで行っても出口はなく、二階の迷路が無限に続く。少女はもういない。ただ、壁の低く湿った声だけが、永遠に繰り返される。


 俺は何度も飛び降り、何度も着地し、何度も二階をさまよった。床が柔らかく沈むたび、木片が首や腕に刺さる。痛みは鈍く、だが確かに存在する。壁は膨らみ、手を振り、呼吸を続ける。俺は声を上げようとするが、声は壁に飲み込まれ、音は自分の耳にだけ反響する。恐怖と孤独が混ざり合い、理性が崩れていく。


 ある瞬間、少女の幻影が現れる。柔らかく、冷たい手。俺を抱きしめる。それだけで心が静まる気がするが、次の瞬間には消える。代わりに壁が膨らみ、声が響き渡る。「おーん……おーん……」繰り返されるうちに、声が意味を持ち始める。怒りでも哀しみでもなく、謝罪のように聞こえる。「ごめんね」と。「ごめんね」と。


 俺は理解する。家は俺を閉じ込めたのではない。ただ、俺が壊れる前に、逃げないでほしかっただけだ。逃げる自由を与えず、無理やり抱きしめるように閉じ込め、俺の存在を確認したかったのだ。家の呼吸は、俺の呼吸と同期し、俺の痛みと喜びを共有しようとしているのかもしれない。


 時間の感覚は完全に消え、二階の迷路をさまよううち、肉体の疲労と恐怖が混ざり合い、俺は床に倒れた。壁が膨らむ音が耳元で響き、木片が首筋に刺さり、冷たい空気が胸を押す。だが同時に、奇妙な安心感もある。家が「ごめんね」と言った瞬間、全ての恐怖が奇妙に静まる。


 目を開けると、そこは自室だった。机もベッドもパソコンもいつも通りだ。呼吸も聞こえない。いや、ほんのかすかに……「おーん……」と、耳の奥で囁く声がある気がする。振り返っても何もない。ただ、壁が微かに膨らみ、呼吸しているように見える。

 俺はもう逃げられない。逃げてもまた二階に戻される。二階しかない迷路、呼吸する家、謝罪する壁。

 永遠に繰り返される迷路の中で、俺は立ち尽くす。見知らぬ風が西から東へ吹き、空気は重く、湿っている。少女はもういない。ただ、俺の胸の奥で、壁の声が永遠に続く。


 この家は、俺を見守り、俺を縛り、そして許してくれる。

 俺は理解した。もう、二階から出ることはできない。壁は生きている。家は生きている。そして、俺も、少しずつ……家の一部になっていくのだ。


「……おーん……おーん……ごめんね……」


 耳の奥で繰り返される声。目を閉じると、壁の呼吸が俺の呼吸と一つになる。二階の迷路、永遠の二階、呼吸する家、家の声。

 俺は、その中に溶けていく。

この物語は、繰り返す夢の断片をそのまま書き出したものである。

現実では説明のつかない出来事も、夢の中では当然のように起きていた。家が呼吸すること、二階しかない部屋、少女の存在、そして私だけが感じる恐怖、全ては夢の記録であり、創作ではない。


読んでくださった方には、少しでも、あの不思議で不気味な感覚が伝われば嬉しい。

夢は消える。だが言葉にすれば、形を持ち、記憶として残る。

私にとって、この文章は、忘れたくない、逃れられない夢を受け止めるためのものだった。


もし読者の方が夜、ふと天井を見上げ、壁が膨らむような気配を感じても、それはきっと夢の余韻なのだろう。


そして、私は今日も、あの呼吸する家と二階の迷路を思い返しながら、文字に形を与え続けている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ