俺、娘さんの婚約者です
人生って、思い通りにいかないことばかり。
大切な人に裏切られたその日、
知らない誰かが、私の「婚約者」として手を取ってくれた――
ほんの小さな嘘が、もしかしたら、本当の始まりになるかもしれない。
第3話:俺、娘さんの婚約者です
封筒を開けた瞬間――心臓がドクンと跳ねた。
中には一通の手紙。
その文字を読んだとたん、胸の奥にぐさっと刺さるような痛みが走った。
「ごめん。婚約を破棄させてください。」
(……うそ、でしょ……?)
私は思わず呟いた。
混乱とショックと悲しみが、一気に押し寄せてくる。
さっきまであんなに心地よかったカフェが、急に息苦しく感じた。
目に涙がたまりそうになって――でも、みんなに心配かけたくなくて、必死にこらえた。
俊郎おじさんが、そっと私の肩に手を置いてくれた。
そのやさしさが、少しだけ心を落ち着けてくれた。
五人の男性たちも、顔を見合わせて、不安そうにこっちを見ていた。
ヒロシが少し近づいてきて、ぶっきらぼうな声で言った。
「…大丈夫かよ、ユリさん?」
返事も待たずに、きゅっと引き締まった顔で周囲を見回す。
「ここでじっとしてる場合じゃねーし。追いかけたいなら行くぞ。どうせまだ遠くまで行ってねーだろ。」
そう言ってから、俺の方を振り返り、少し心配そうに眉をひそめた。
私はなんとか微笑んで、かすれそうな声で答えた。
「ありがとう……でも……私、何が起きたのか、まだ……よくわからなくて……」
ハルキさんも静かに言った。
「理由があったとしてもさ……こんな形は、ないよね。」
彼の表情はどこか、私以上に傷ついてるようにも見えた。
そのやさしさが、胸にしみてくる。
(なんで……?なんでこんなに優しくしてくれるの……?今日、会ったばかりなのに……)
そのとき、入り口のベルがチリンと鳴いた。
私は顔を上げた。
入ってきたのは――お父さんとお母さんだった。
二人とも、うれしそうにニコニコしてて、なんだかこっちまで笑顔になりそうだった。
ヒロシさんたちはさっと道をあけてくれて、俊郎おじさんはキッチンの方へ向かって、コーヒーを淹れに行った。
両親が近づいてきて、お父さんがまわりを見渡しながら言った。
「で、どこだ? 婚約者くんは~?」
お母さんもにこにこしながら、
「昨日の夜、ユウちゃんから聞いたとき、もうずっと気になっちゃって〜」
その言葉に、私の心はズキッと痛んだ。
(ああ〜……この笑顔を見てから、どうやって言えばいいの……? 婚約が……なくなったなんて……)
二人の顔がうれしそうな分だけ、胸が締め付けられた。
(どうしよう……心配させたくないのに……)
ぎゅっと拳を握って、下を向いたまま言葉を探していた、そのとき――
「お待たせしました。俺が、娘さんの婚約者です。」
(……えっ?)
その声に、全員が振り向いた。
そこに立っていたのは――高橋ヒロシさん。
彼は何も言わずに俺の隣に腰を下ろし、テーブルの上で俺の手に自分の手を重ねた。
その握りはしっかりしていたが、視線はまっすぐ前を向いたままだった。
全身が固まった。
(な、なにが起きてるの……!?ヒロシさん……?どういうこと?冗談……?いきなり“婚約者”って……)
もう少しで涙がこぼれそうだったけど、私はなんとか堪えた。
俊郎おじさんは、流れるように合わせてくれて、笑顔で言った。
「おお、君が婚約者くんか〜。会えてうれしいよ。」
「そ、そうです。急に来てすみません…その、驚かせようと思って…」
ヒロシは軽く咳払いをした。
「…高橋ヒロシです。ユリさんを…こんな立派な…えっと…女性に育てたご両親に、お会いできて光栄です」
最後の言葉を言い切るとき、彼の頬はわずかに赤く染まり、まるで無理やり吐き出したかのようだった。
その姿を見ながら、私は心の中で思った。
(ああ……シンくんも、もし今ここにいたら……同じように言ってくれたのかな……)
両親は驚いたように顔を見合わせたけど、すぐに笑顔になった。
お母さんは目をキラキラさせて、
お父さんは満面の笑みでヒロシさんに手を差し出した。
「いや〜、初めまして! 家族になってくれるなんて、うれしいよ!」
「私はさゆりの父、宮崎ギン。そしてこちらが妻の陽菜です。」
ヒロシは父の手をしっかり握り、自信ありげな表情で言った。
「ありがとうございます、宮崎さん。光栄です」
そう言ったあと、ふいに視線をそらし、頬をわずかに赤く染める。
そして小さな声で、
「…あの…“お義父さん”って呼んでも…いいですか?」
と、少し照れくさそうに言った。
私はまた固まった。
(えっ……いま、“お父さん”って言った……!?)
お父さんは笑いながら言った。
「はは、さすがにちょっと早いかな。」
お母さんはクスッと笑って、
「私はいいわよ〜、“お母さん”って呼んでも♪」
「おいおい、陽菜……」とお父さんが眉を上げる。
「ん〜?なにか問題ある?」とお母さん。
「ヒロくん、すぐ家族になるんだから〜、練習してもいいでしょ〜?」
お父さんはため息をついて、苦笑い。
「……まあ、そう言うなら。“お父さん”でもいいぞ。」
ヒロシの顔はさらに真っ赤になった。
「じゃ…じゃあ、その言葉…信じますから」
そう言って咳払いし、
「…お、お母さん。…お、お父さん」
と、ぎこちなく口にした。
私は黙ったまま、彼らのやりとりを見ていた。
(……“お父さん”か……)
胸の奥がチクリと痛む。
(シンくんにも、私のお父さんのこと、“お義父さん”って呼んでほしかったな……)
そのとき、俊郎おじさんが新しいコーヒーを持って戻ってきた。
ふわっと広がるあたたかい香りが、気持ちをやわらかく包んでくれる。
なんだか、栗を焼いたときの匂いに似てて、ほっとする。
ほんの一瞬だけ――
時間が止まったような気がした。
この嘘が、まるで本当みたいに、あたたかく感じた。
コーヒーのように、あたたかくて。
でも本当の想いは……ちょっとだけ、ほろ苦かった。
お母さんが、身を乗り出してきた。
「それで、お二人はどうやって出会ったの?
それと……どうしてこんな大事なこと、ユウちゃん教えてくれなかったの〜?」
ヒロシは一度オレを見てから、再び二人のほうへ視線を戻し、きっぱりと言った。
「…去年会ったんです。まあ、俺たちなりのペースで進んできたんで」
咳払いしてから、少し視線をそらし、
「別に急いで言うつもりもなかったんですけど…気づいたら、もう婚約してました」
と、どこか照れくさそうに口元をゆがめて笑った。
「そうなんです……」と、私もそっと頷いた。
(すごい……全然嘘に聞こえない……ヒロシさん、ありがとう……)
ほんとは、今日初めて会ったばかりなのに。
どうしてこんなにも自然に演じてくれるんだろう。
そのやさしさに、胸がいっぱいになった。
(……でも、今さら本当のことなんて言えないよ……)
お母さんはとても嬉しそうだった。
「ユウちゃんが何も言ってくれなかったから心配してたけど、こんな素敵な人がそばにいてくれたなんて〜」
お父さんも笑いながら言った。
「ほんとだよ〜。正直、チャラいやつに騙されてないか心配してたけど……
顔もいいけど、中身もちゃんとしてるじゃん。」
ヒロシの顔はさらに真っ赤になったが、少しだけ照れた笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、その…お、お義母さん。お、お義父さん。あの…言ってくれて嬉しいです」
咳払いをしてから、視線を逸らしつつ、
「べ、別に義務で言ってるわけじゃないですけど…ユリさんを幸せにするために、頑張りますから」
と、不器用に言葉を絞り出した。
(……ああ、シンくんにも、こんなふうに言ってほしかったな……)
少しだけ、安心できた。
両親はヒロシさんのことを信じてくれたみたい。
質問もたくさんしてくれて、ヒロシさんは全部にちゃんと答えてくれた。
いつの間にか、カフェの空間は笑顔で満たされていた。
……でも、私の胸の奥には、まだポッカリと穴が空いていた。
(どうして……こんな急に終わっちゃったの……)
私は笑ってた。
でも……心は、からっぽだった。
第3話は、切なさと優しさが重なったお話でした。
突然の婚約破棄、そして見知らぬ誰かの温かい嘘。
読んでくださって、ありがとうございます。
次回――ユウは真実を告げるのか?
それとも、この“嘘の婚約”を続けるのか……?