第5話:宿屋「赤の鉤爪」
カミノケマーケットを抜け、市場の東側へと足を進める。
道を進むにつれ、喧騒は少しずつ落ち着き、人通りもまばらになってきた。市場の活気とは対照的に、こちらは陰鬱な雰囲気が漂っている。建物の外壁には剥がれかけた布や木板が貼られ、見上げると黒ずんだ三階建ての建物が不気味にそびえ立っていた。
「ここが……宿屋か?」
扉の上にある看板には何か書かれているが、俺にはまったく読めない。どうやら、この世界の文字は俺の知っているものとは違うらしい。
目の前に立つのは、頑丈そうな石と木で作られた建物だった。扉の上には、赤く塗られた鉤爪のマークが掲げられている。看板の色褪せ具合から見ても、決して新しい宿ではない。
「……入るしかないか」
扉を押し開けると、内部は薄暗く、燻った油の匂いが鼻をついた。中には数人の客がいて、みな粗野な雰囲気をまとっている。角の席では、大柄な男が分厚いパンをちぎりながら酒をあおり、カウンターではフードを深く被った人物が何かを囁くように店主と話していた。
「おい、新顔か?」
カウンターの向こうから、屈強な体格の宿の主人が俺を見ていた。灰色がかった髪と鋭い目つき、傷だらけの腕が、ただの宿屋の主人ではないことを物語っている。
「部屋を探してるなら、空きはあるぞ。だが、ここでのルールは守ってもらう」
「ルール?」
「余計な詮索はしないこと。ここに泊まる連中は、みんな事情を抱えてる。お前もそうなんだろ?」
俺は軽く息を呑み、適当に頷いた。
「……そういうことにしておくよ」
とにかく、今は寝床を確保しなければならない。
「宿泊料はいくらだ?」
「一泊50バイトだ」」
俺はそう尋ねながら、ポケットの中を探った。異世界の通貨など持っていないが、試しに日本円を恐る恐る取り出してみる。五円玉や百円玉を机に置くと、宿の主人が目を細めた。
「……おい、これ、本物か?」
まじまじと硬貨を眺める宿の主人。その手つきは、まるで珍しい宝を扱うようだった。
「どこで手に入れた?」
「日本、という国で……」と言いかけて、俺は口をつぐんだ。
「まさか、お前……冒険者か?」
「え?」
宿の主人は五円玉を指で弾きながら続けた。
「この穴の空いた硬貨、たまに発掘されるんだよ。特に遺跡から。冒険者が見つけることが多くてな、価値のある品として扱われてるんだ」
「そ、そうなのか……」
どうやら、日本円はこの世界では珍しい宝物のように扱われているらしい。
「ちなみに、この国の通貨単位はバイトだ。酒一杯で10バイトってとこだな」
「なるほど……」
俺は試しに五円玉を宿の主人の前に差し出した。
「この硬貨、宿代に使えないか?」
宿の主人はじっと五円玉を見つめ、指で弾いた。
「……ふむ、本来なら100万バイトの価値があるが、そんな額の現金はここにはない。30万バイトでどうだ?」
俺は考え込んだ。一泊50バイトの宿代を払うには、30万バイトは明らかに高すぎる。だが、ここで断る選択肢はない。
「30万……?」
額の大きさに一瞬驚いたが、宿代としては十分すぎる。渋々ながらも、俺は頷いた。
「わかった、それで頼む」
こうして俺は、異世界での初めての宿泊を確保することができた。
俺は、自分の手元の日本円がどれほどの価値を持つのか、慎重に考え始めた。俺は主人に金があるとはいえ、適切な使い方を考えながら、宿の空気を探るように奥へと進んだ。
ふと気になり、振り返る。
「そういえば、この宿の名前は?」
宿の主人はニヤリと笑い、指で扉の上を示した。
「『赤の鉤爪』さ。読めねぇんだろ? なら、しっかり覚えておくんだな」
俺は看板を見上げ、改めてその異世界の文字を目に焼き付けた。