1 おかっぱの白ネコ
寝苦しい夜だった。風を感じて瞼をあけると、窓枠にもたれたネコのシルエットがぼんやりと見えた。閉めたはずの網戸が少し開いている。ぼくの許可もえずに、無断で侵入したようだ。
ぼくは目をこすり寝ぼけた意識を覚まして、月明かりに照らされたネコのシルエットに焦点を合わせた。逆光で表情はまったくわからないけど、ぼくをじっと観察しているようだ。
「どこから迷い込んだか知らないけど、お前にやるエサは無いし、このマンションはペット禁止なんだ。悪いけど出て行ってもらうよ」
ぼくはネコを追い出すため、ベッドを降りて窓辺に向かった。そういえば、ここはマンションの四階だったな。ここまで登って来たネコの努力は認めるけど、褒美をやる義理も無い。それとこれとは話が別だ。
脇を両手で優しくつかむと、窓辺のネコは落ち着いた口調でぼくに言った。
「あまり時間が無いの。わたしの話を聞いてくれない?」
ネコがニャアと鳴かずに言葉をしゃべった。それも可愛らしい女の子の声で。驚きを通り越して、逆に冷静になった。そうか、ぼくはまだ目が覚めていないんだ。これは夢のつづき。なんだか面白そうなので、しばらくこのネコに付き合ってあげよう。
「わかった。とりあえず話を聞こうか」
ぼくは窓辺に椅子を持って来て、窓枠のレールに座ったネコと向かい合った。すらりとした短毛の白いネコだけど、おでこにおかっぱのような灰色のブチがある。吸い込まれるような翡翠色の目を光らせて、そのネコはぼくに言った。
「今からわたしと一緒に、旅に出ない?」
予想外の誘いに戸惑っているぼくを気にも留めず、ネコは話をつづけた。
苦労して手に入れた旅行のペアチケット。一緒に行く予定だった友だちが急に行けなくなったらしい。
「あともう少しでフライトの出発時刻なの。もったいないから、たまたま通りがかったキミを誘ったのよ。どうする?」
ネコはどこから取り出したのか、鎖のついた懐中時計のフタを開けて時刻を確認した。
「そんなこと突然言われても。明日も学校はあるし、それ以外にもやる事はたくさんある。それを全部ほっぽり出して旅行に出るなんて……」
ぼくはこれが夢の中の出来事なんだということをすっかり忘れて、馬鹿正直に答えた。
すると、おかっぱの白いネコは溜め息を吐いて腕を組んだ。
「もうほんとに出発時刻が迫ってるから、言いたいことだけ掻いつまんで言うわ。よく聞いて。
この旅行のチケットは天文学的な確率の抽選で当たったのよ。この機会を逃せば、キミは一生後悔するかも知れない。
だけど、このチケットは片道切符なの。二度とここへ戻れないと思っておいたほうがいい。キミに今の生活をすべて投げ出して、わたしと一緒に冒険の旅に出かける覚悟はあるかな?」
突然突きつけられた究極の選択。ネコのイライラした表情を見ると、決断を長引かせる猶予は無さそうだ。
ぼくの頭の中に、なぜか身の回りのしがらみの数々が思い浮かんできた。今すぐにイヤなことから逃げ出したい。だけど……本当にそれでいいのだろうか?
答えを出せないでいるぼくに痺れを切らして、おかっぱの白いネコが言った。
「決められないようね。残念だけどもう行かないと。キミとなら楽しい旅になるだろうと思ったんだけどね。それじゃあ、さようなら」
「待って! ぼくも一緒に行くよ!」
ぼくは去りそうになったネコの長いしっぽを慌ててつかんだ。白い毛がフワッと逆立った。
「ちょっと! わたしのしっぽはデリケートなの! ……決して後戻りはできないわよ。本当にいいの?」
ぼくの手から上品な灰色のしっぽをスルリと滑らせ、おかっぱの白いネコは改めてぼくに確認した。
「一緒に行く。ぼくはイヤなことから逃げ出すためじゃない……と思う。二度と無いチャンスを棒に振るなんて、きっと、ずっと後悔するだろうから」
おかっぱの白いネコは立ち上がって小さな手を差し出した。ぼくはその手を優しくつかむ。
「窓の下に迎えのタクシーが来たわ。旅の支度はすべて旅行会社が用意してくれる。さぁ、行きましょう」
ぼくは白いネコの手を握って、着の身着のまま窓から飛び降りた。これが夢だという祈りを込めて。