乾坤一擲
呪文を詠唱するリューリとフレデリクは、瞬く間に膨大な量の「魔素」に覆われた。
集積した「魔素」が、限界まで引き絞られた弓に番えた矢の如く、二人の前で圧縮されていく。
その気配に気付いたのか、不意にネモが振り返り、リューリたちに顔を向けた。
「おやおや? 最後に殺してあげると言ったのに、待ちきれなかったようですねぇ。いいでしょう、それほど死にたいのなら順番を繰り上げて差し上げますよ!」
彼の右手がリューリとフレデリクを鋭く指差した瞬間、二人による呪文の詠唱が終了した。
途端に、ネモを中心として、周囲の大気が、たまゆら不可思議な揺らぎを孕んだ。
「リューリちゃんたちに手を出すなッ!」
ネモが攻撃態勢に入ったのを見て取ったジークとアデーレ、そしてバルトルトが跳躍し、それぞれの剣でネモの身体に深々と斬りつける。
更に、ウルリヒやミロシュら魔術師たちの放った火球や雷が炸裂した。
「『仲間』を守ろうという心意気、泣かせますねぇ! どの道、無駄ですけどね!」
相変わらず、ネモは余裕綽々たる態度を見せている。
しかし、今度は、数秒経っても、先刻の攻撃で彼の受けた傷は修復されないままだ。
「……『魔素』が……動かない……?」
異変に気付いたネモの声に、焦りの色が混じる。
同時に、彼の「入れ物」である「神の器」が、外側から薄皮を剥がす如く崩壊し始めた。
糸の切れた操り人形のように力を失い、姿勢を保てなくなった「神の器」は、地面に降りたかと思うと膝から崩れ落ち、地響きを立てて倒れ伏した。
「きッ貴様らァ! 何をした?!」
これまで見せていた驕りと傲慢さに満ちた態度は一転し、ネモは恐慌状態に陥った様子だ。
その間にも、「神の器」は編み物が解けていくかの如く崩壊を続けていた。
彼の身体から剥がれ落ちた破片は、瞬く間に塵となって空中に霧散し消えている。
気を付けて見ると、破片の間からは、赤や青、黄色など様々な色をした無数の淡い光が空へと昇っていく。
――やっと……解放された……
――感謝する……
――おねえたん……ありがと……
淡い光たちが自身の傍を通り過ぎていく時、リューリは微かな温もりを感じると共に、様々な人間の声を聞いたような気がした。
「あの『神の器』の材料は、『生きた人間』や、その魂だと、ネモは言っていたな。この光は、囚われていた人々……なのか」
空へ昇っていく光たちを見上げて、リューリは呟いた。
「あの中には、きっと、私が関わった人たちも含まれているのだろうね……」
言うと、フレデリクは泣きそうな顔で俯いた。
「気休めかもしれないが、彼らも、私のように生まれ変わることがあるかもしれないぞ」
リューリは、労わるようにフレデリクの腕に触れた。
「……そうであって欲しいね」
フレデリクが、何度も頷きながら言った。
二人の眼下で崩壊していく「神の器」の中から、「土台」となっていた「ヴィリヨ・ハハリ」の身体が露出し始めている。
連合軍の面々は不安げな面持ちで、その様子を遠巻きに見ていた。
これまで誰も目にしたことのない状況に、どう対処すべきかが定まっていないのだろう。
リューリは、フレデリクと共に地上へと降り、力なく横たわっている「ヴィリヨ・ハハリ」――その身体に入っているネモの傍へと近付いた。
「……貴様ら……私に何をしやがった……?」
リューリの気配を感じたのか、ネモが薄らと目を開けた。
「『魔法封じの呪文』を、貴様にだけ作用するよう調整して打ち込んだ。『魔素』が動かなくなれば、『神の器』の再生や行動を封じられる可能性があると考えてな。それにしても貴様、素だと存外ガラが悪いんだな」
素っ気なく答えるリューリに、ネモは不快そうに顔を歪めた。
「それで……『魔素』の力で組み上げた『神の器』が、存在を保てなくなったというのか……『魔法封じの呪文』は……暴走した魔導具を強制停止させるものに過ぎないと思っていたが……こんな使い方をされるとは……」
念じるだけで「魔素」を操作し様々な事象を起こせる彼にとって、呪文の細かい操作方法などは、却って盲点だったのだろう。
話しているうちに、ネモの「入れ物」にされている「ヴィリヨ・ハハリ」の身体も、徐々に崩壊し始めている。
「『神の器』に結合させる為、この身体も改造してある……『魔素』を取り込めないと崩壊してしまう……」
弱々しい声で言いながら、ネモは這いずるようにして、崩壊しつつある手をリューリに向かって伸ばした。
「貴様の所為で……! その身体を寄越せ……この糞餓鬼が……ッ!」
「断る。二度も貴様に身体をくれてやる義理など無い」
リューリは冷たく答えた。
「こ、この身体は……前世の貴様の身体だぞ……このままでは……消えてなくなる……『魔素』を寄越せ……呪文を……解除してくれ!」
「私は、『ここ』にいる。とっくに死んだ抜け殻など必要ない」
無様に懇願するネモに、リューリは肩を竦めた。
時間の経過に比例して、ネモの肉体の崩壊は進んでいく。
「依り代がなければ……死ぬ……! 私が消えてしまう……!」
半分近く崩れ落ちた顔を歪め、もはやうわ言のように、ネモは呟いている。
「私が……消える……! 嫌だ……死にたくない……!」
最期の言葉と着ていた衣服のみを遺し、ネモ――「ヴィリヨ・ハハリ」の肉体は、地上から消え去った。
前世の自分の肉体が崩壊し霧散するのを見つめていたリューリは、奇妙な感覚を覚えていた。
「リューリちゃん、大丈夫かい?」
フレデリクに声をかけられ、リューリは我に返った。
「ああ。何だか変な気分だが、すっきりしたというのもある。これで、知らん奴に、前世のものとはいえ、自分の身体を好きにされることもなくなった訳だからな」
言って、リューリが、くすりと笑うと、フレデリクも釣られたのか微笑んだ。
「二人とも、よくやってくれた」
いつの間にか近付いてきていたジークが、リューリたちに声をかけてきた。
「君たちには、助けられてばかりだったな」
「いや、みんなが諦めずに戦ってくれたから、『奴』に隙を作らせることができたんだ。それにしても、みんなズタボロじゃないか……」
ジークやアデーレ、バルトルトは、身体の其処此処に傷を負っているのが見て取れる。
ウルリヒと、疲労困憊の様子で杖に縋って立っているミロシュも、着ているローブは半ば襤褸切れ同然だ。
「なに、この程度の怪我は、昔の戦なら当たり前だったぞ。唾つけとけば治るさ」
バルトルトが、豪快に笑った。
「しかし、結局、あのネモという奴は何がしたかったというんだ」
地面に遺されたネモの衣服を見下ろし、ジークが呟いた。
「とにかく、奴が『死にたくなかった』というのは、よく分かった」
リューリは、小さく息をついた。
「あいつは『死なない』為に、記録も残っていない程の昔から生き続けてきたらしいが、それだけの理由で、何百、何千年も一人で生きるのは、私なら御免被るところだ。もっとも……」
彼女は、仲間たちの顔を、ぐるりと見回した。
「そんな風に思えるのは、みんなに会えたからかもしれないな」
リューリの言葉に、一同の表情が和らいだようだった。
「あ、あの、僕は、アデーレに言いたいことが……」
唐突に、ウルリヒが声を上げた。その顔は、熟れたリンゴのように赤くなっている。
「偶然だな。私もだ」
アデーレも、何故か頬を染めながら言った。
「アデーレ、ずっと君のことが好きだった。僕と、一緒になって欲しい」
ウルリヒはアデーレの手を握ると、ひと息に言った。
「リューリちゃんが言っていたように、死ぬ時になって後悔したくないんだ。さっきの戦いの最中も、ずっと思ってた……君に拒まれたとしても、自分の気持ちを伝えるまでは死ねないって」
そこまで言って、彼は恥ずかしそうに俯いた。
「ずるいぞ」
アデーレが、ぽつりと呟いた。
「全部一人で言ってしまうなんて……私の言うことがなくなってしまうじゃないか」
「えっ?」
驚いて顔を上げたウルリヒを、アデーレが潤んだ目で見つめながら言った。
「私などでよければ……こちらこそ、お願いしたい」
予期せぬ展開に、リューリたちは、あんぐりと口を開け、ただ二人を見ていた。
と、ウルリヒとアデーレは、はっとしたようにバルトルトの方を見た。
「父上、反対されるなら、私たちは駆け落ちします」
娘に、そう言われて、バルトルトが頭を掻いた。
「いや、別に駆け落ちなんぞしなくても、反対する気はないぞ。そんじょそこらの男では、お前の相手にはならんだろうが、しっかり者のウルリヒなら安心できるというもんだ」
「よかったねぇ、ウルリヒ。君がグズグズしているから、いつ私から口添えしようかと思っていたけど、必要なくなったね」
ミロシュも、弟子についての心配事が解決した為か、にこにこしている。
「駆け落ち……しなくていいのか」
少し残念そうなアデーレに、ウルリヒが呆れた様子で言った。
「駆け落ち、したかったの?」
「……ちょっと、憧れていた」
赤くなって俯くアデーレを見た一同から、笑い声が上がる。
皆と笑い合っていたリューリは、幸せで満たされた気持ちになると同時に、何故か泣きたいような気持ちも湧き上がってきて、戸惑うのだった。




