ワールドカップ(2022)の感想
サッカーワールドカップで日本が負けました。グループリーグは突破しましたが、その後のクロアチア戦で敗北しました。クロアチアとはPK戦もでもつれ込んだので、惜しい試合でした。今回は、日本の戦いぶりについての感想を書こうと思います。
まず、この感想を書こうと思ったのは、今回のワールドカップに私がどこか違和感を感じていたという事です。しかしネットなどを見ると(よくやった)(頑張った)(感動をありがとう)という称賛一色で、私のように違和感を感じている人は見当たらなかったので、自分で書くしかないと思いました。
元々私はサッカーを見るのが好きです。よく見ていますし、普通の人に比べれば詳しい方かもしれません。今回のワールドカップはサッカー好きの友人がいたので、とりあえず私も一緒に見て、盛り上がっていました。
日本は初戦のドイツ戦に勝ちました。私が見る限り、偶然の要素が強かったと思いますが、逆転勝ちだったので日本が湧きました。ドイツという強豪相手に勝ったからです。次のコスタリカ戦は戦力的には勝てると言われたが負け。次のスペイン戦は、勝てないんじゃないかと思われているなかで逆転勝ちしました。
サッカーは結果が全てなので、グループリーグ突破できればそれでいいわけです。私は前から森保監督のやり方に懐疑的でした。それで、ワールドカップ本大会で森保監督のやりたい事ははっきり出るのかなと思いましたが、結論としてはそうでもなかったという感じです。
結果はグループリーグ突破できたので、称賛されて然るべきですが、私は行き当たりばったりのやり方をして、たまたま勝ったと感じました。ただ選手層が厚かった事、精神的に団結していたのは日本の良かった部分だと思います。
もちろん、森保監督の采配は褒められるべきだ!という意見もあるでしょう。多分それはその通りで、今大会はそれがはまっていたとも見れます。ただ、試合全体を通じて「結局何がやりたかったんだろう?」という思いは払拭されず、私の中の疑問は解消されませんでした。
私としては勝っても負けても、そこに何か一本貫く哲学を見たいという人間です。しかし、今回の試合ではそういうものを感じませんでした。その違和感は残ったままなので、私は心から(頑張った! よくやった!)という気持ちになれませんでした。
それと、大枠で言えば、もっと大きな違和感があります。それはスポーツというものがあまりに過大評価されているのではないか、という事です。日本で言えば「スポーツ」と「お笑い」が過大評価され、地味に真面目な事をしている人は蔑ろにされる傾向があると思います。そういう社会の中で、本当に心からスポーツを「楽しんでいいのか」という根底的な疑問が生じてきました。
私の違和感を強めるような事態も報道ではありました。ワールドカップはカタールで行われたのですが、そのスタジアムや、周辺の設備工事に際して、劣悪な労働環境の為に6000人を越える死者が出たという事です。この報道が私の中で引っかかっていました。
もう一つは、サッカー観戦に来ていた女性サポーターが「美人だ」という事で注目を集め、その人のフォロワーが一気に増えたというような現象です。日本人の女性サポーターでもそういう事があったそうです。前回のワールドカップでもこういう事はあったので、これに関してはもはやワールドカップの恒例行事になりつつあります。
こうした事が起こると、逆に、世界から注目されたい為に派手な服装をしたり、過激な露出をする女性サポーターも出てくるでしょう。しかし、こういう表皮的な騒ぎは何なのか。私の中でもあまり一緒に盛り上がりたくない、という気持ちを作る一つの要因になっています。
スポーツが過大評価されすぎている、というのは、サッカー選手や野球選手が莫大な給料を得ているという事もそうです。もちろん選手はそれだけ身を削っている、働いていると言うでしょうが、同様に身を削っていて報われない人も世界には沢山いるのではないでしょうか。結局の所、全世界的に、大衆に奉仕するもの以外は評価が低くなるという傾向になっていると思います。
大衆社会に対する批判をやるとキリがないのでやめますが、私としては日本が負けた時に(終わったな)と思いつつも、それほどの失望感も感じなかったというのが正直な所です。というのは、負けるか勝つかのギャンブル的な試合でたまたま勝って、たまたま負けた、そのたまたまの「負け」がやってきただけだと感じたからです。ドイツ戦ではコーナーキックで相手に一方的にボールを触られていました。あそこで失点しなかったのは単なる偶然と私は見ています。
もちろん、選手は頑張ったと思います。吉田などは表情や言葉などから、リーダーとしてチームをよくまとめていたのがわかります。そういう個々の頑張り自体は否定しません。
ただ、全体として、個人の頑張りであるとかないとか、そういうものよりももっと大きな何かが歴史的に差し迫ってきているのではないか、と私は感じています。それは何か薄ら寒いものであって、それを一時的な熱狂によって癒やす事は不可能だと思います。
なので今回のワールドカップは、私も人並みに盛り上がっているような顔をしつつ、どこかここで盛り上がるのは違うのではないか、という感情も抱えていた大会になりました。私は太宰治という作家が好きですが、彼は戦争中に「右大臣実朝」という小説を書いています。その中の一節は次のようになっています。
「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も暗い内はまだ滅亡せぬ」
太平洋戦争は、暗いものではなく、むしろ大衆が戦意に高揚した明るい時代でした。しかし太宰はその明るさにどこか疑問を感じていたと思います。私は今回のワールドカップの熱狂にどこか疑問を感じています。これは何か、悪い方向へ向かっているのではないか。熱狂の裏で、私は密かにそんな事を考えていました。