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次の日。
揚羽は手料理を振る舞う約束のため、鷹巨が迎えに来てくれる偽装住居に向かっていた。
そこは、以前送ってもらったマンションで。
タクシーで移動の最中、倫太郎からメッセージが入る。
〈今そっち言った〉
言った?
どうやら予測変換の選択ミスのようで、すぐに〈行った〉と訂正が入る。
それは鷹巨がこっちに向かった事を知らせるもので。
作戦に不備をきたさないよう、倫太郎はすでに鷹巨のマンション付近で張り込んでいたのだ。
それはともかく、倫太郎がそんなミスをするのは珍しく。
揚羽は、昨日打ち合わせした時の……
どこか上の空で、ずっとソファで丸くなっていた倫太郎を思い返す。
もしかして具合が悪いんじゃ?
「ねぇ、どっか悪いの?」
すぐに電話をかけると。
『は?
どこも悪くねぇし』
そう答えた倫太郎は、注意しなければ気付かないレベルではあったものの、息が荒かった。
『っ、切るぞ』
「いや悪いでしょ」
『いや意味わかんねぇし』
「どこが悪いの?」
『だからっ……性格?』
「ふざけないで!」
『ふざけてんのはそっちだろっ』
と、押し問答の末。
「わかった。
じゃあビデオ通話に切り替えるから、顔色見せて」
『はあっ?
この大事な時に何言ってんだよっ。
いいから作戦に、』
「どっちが大事だと思ってんのよ!」
倫太郎の言葉を掻き消して、一喝する揚羽。
その瞬間、胸を思い切り掴まれて、何も言えなくなった倫太郎は……
思わず電話を切ってしまう。
「あっ……
何切ってんの、あいつ」
呆れながらも。
もうすぐ目的地に着いて、鷹巨と合流するため。
揚羽はふぅと一呼吸して、再び携帯を発信した。
「もしもし、鷹巨さん?
あの、大変申し訳ないんですが……
今日の約束、次の日曜に延期にしてもらってもいいですか?」
『えっ……
どうしたんですか?』
「実は、親の体調が悪くて……
側についててあげたいんです」
『……わかりました。
そういう事なら、全然来週で構いません』
鷹巨は、どこかほっとした声で答えた。
「ほんとにすみません……
もうこっちに来てましたよね?」
『気にしないでください。
それに僕は……
聡子さんのそういう優しいところ、すごく素敵だと思います』
素敵、ね……
そこは結婚詐欺師らしく、好きっていうところじゃないの?
相変わらず間抜けな詐欺師、と思いながら通話を終えると。
ターゲットとの接触に備えて盗聴器を起動していたため、聴いていた倫太郎が電話で怒鳴り込んできた。
『おい何やってんだよ!呼び戻せよっ』
「もう、勝手に切っといてなんなの?
てゆうか理由聴いてたでしょ?
それで呼び戻すとか、どう考えてもおかしいでしょ」
『だからって!
来週に延期したら作戦の方がおかしくなんだろっ』
そう、ドタキャンした立場で一週間も時間が開きながら、まだ味噌を取ってきてないのは不自然だ。
「そんなの、他のプランを考えればいいだけじゃない。
だいたい、無理に決行してミスしないって言える?」
『言えるよ、死んでもやり遂げてやる』
「死んだら出来ないでしょ?
バカ言わないで病院行くわよ」
『だから悪くねぇっつってんだろ!』
「私が心配で出来ないの!
っとに、こっちがミスするわ」
再び倫太郎は、胸を激しく掴まれて……
目頭が熱くなる。
「すみません、行き先変えてもらっていいですか?」
揚羽はタクシーの運転手に、倫太郎が張り込んでる場所を指示すると。
「これ以上心配かけたくなかったら、大人しくそこで待ってて」
そう言って電話を切った。
一緒に居るところを誰かに見られるワケにはいかなかったが……
それどころか、鷹巨に見られる可能性も高かったが……
そんな事より。
倫太郎が素直に病院に行くとも思えず、運転も危ないと判断しての行動だった。
案の定。
倫太郎は顔色が悪く、痛みと熱で発汗も伴っていた。
すぐに車を近くの駐車場に移動させ、タクシーで病院に連行すると……
穿孔性虫垂炎と診断され、緊急手術をする事になった。
◇
「まったく……
腹膜炎のギリギリ手前だったんだからね?」
「そんな事より……
足引っ張って、ごめん」
「はあ?
むしろそんな事より、心配かけてごめんでしょ?」
「……ん。
心配かけて、ごめん……」
いつになくしおらしい倫太郎に。
揚羽は胸をくすぐられて、ふふっと笑う。
「なんだよ」
「ううん、無事に手術が終わってよかった。
あ、そうだ。
何かと便利だから、私は姉って設定にしてるから」
「……ふぅん」
途端、拗ねた様子で顔を背ける倫太郎。
だけど……
「安藤さーん」
「あ、はーい」
看護婦が呼んだ自分の苗字に、返事をする揚羽を見て。
思わず嬉しくなる。
「個室頼んでたんだけど明日空くみたい、ってなにニヤケてんの?」
「別にニヤケてねぇし」
「うっそ、今あの看護婦さん見てニヤケてたじゃない。
巨乳だったもんね」
「はっ?
バカじゃねぇの」
「まっ、そんな元気があるなら大丈夫か」
「あぁも寝るから帰れよ」
そう言って布団をすっぽり被る倫太郎。
「はいはい。
あとで保険証とか必要なもの持ってくるから、ゆっくり休みなさい」
倫太郎の名前が本名で、ちゃんと保険に入っていた事には驚いたものの。
そんな情報を当たり前のように晒して、自分に管理させてくれる事を嬉しく思いながら……
悪態をつく姿にほっとして、揚羽は病室を後にした。
そして月曜。
倫太郎の見舞いをすませて、揚羽が店に出勤すると……
予告通り、久保井がやってきた。
ところが柑愛は、その日子供が熱を出したという理由で休んでいて……
揚羽はしめたとばかりに。
「せっかくいらっしゃったんだから、1杯だけでも」と引き止め。
ママに頼んで、席につけてもらった。
「お怪我をされてるのに、引き止めてすみません。
でも、どうされたんですか?」
久保井は手に包帯を巻いていた。
「仕事でバックリ切っちゃって……
心配してくれるんだ?」
誰があんたなんか……
むしろいい気味。
内心毒づきながらも。
「もちろんです。
それで気になって、引き止めたのもあるんです」
すると久保井にじっと見つめられ……
思わずその視線から逃げてしまう。
2人っきりの状況は、思いのほか揚羽の心を騒めかせていて……
胸を揺さぶるその視線は、より威力を発揮していた。
「でも、今日みたいな事にならないように、連絡先を伺っててもいいですか?
柑愛ちゃんが休みの時とか、何かトラブルがあった時は連絡します」
「や、田中専務に怒られちゃうし。
次からは来る前に、お店に連絡するんで」
さすがにそこはガードが固いわね……
「意外と遠慮するタイプなんですね」
「あれっ、俺どんなイメージ?」
くしゃっと八重歯を覗かせて。
それが揚羽の胸を締め付ける。
「っ、そうですね……
自由奔放な猫みたいな?」
「それいいねっ。
でもあんまそうすると、刺されたりするからな〜」
そう言って久保井は下腹部を指差した。
へぇ、刺されたんだ?
まぁあんたの場合、当然の報いでしょ。
いっそ死ねばよかったのに。
僅かにしてしまった心配を掻き消すように、揚羽は必死に毒づいた。
「そんな俺の話より、揚羽ちゃんの事聞かせてよ」
「例えば、何を」
「例えば、それって源氏名?」
「本名ですよ。
私、名前が2つあるのって苦手で」
本当の名前の私は、もういない。
あんたのせいで、この世から死んだも同然だからね……
そう、蝶は死と再生の象徴らしく。
揚羽にとってはその名前こそが、もはや本名なのだった。
そうして、大した情報も得れないまま……
久保井は約束通り、一杯飲みあげて帰ってしまった。