4
ホッとしたような、ガッカリしたような……
そしてその匂いとともに甦ってきた、あの頃の気持ちに翻弄されて……
揚羽は浮かない気分になっていた。
「大丈夫ですか?
まだ調子悪そうですが…」
「いえもう、大丈夫です。
ご心配おかけしました」
「なら良かったです。
あ、あの花好きなんですか?
さっき立ち止まって眺めてたから」
「あぁ、はい。
だから、た……鷹巨さんがこういった所に連れて来てくれて、本当に嬉しかったんです」
恥じらう素ぶりで、下の名前を口にする。
「ほんとですかっ?
じゃあ良かったら、また一緒に来てもらえませんか?」
「もちろんですっ、嬉しいです」
なんとか次回に繋がり、ホッとしながらカフェを出ると。
家まで送るという鷹巨に、建前上遠慮の素振りは見せたものの。
揚羽は素直に受け入れた。
住居が分かれば、ターゲットは警戒を緩めたり、安心して油断したりするからだ。
さらにそうやって先手を打てば、発信機等を仕掛けられのも防げる。
「今日はありがとうございました。
お気をつけて」
「僕こそご馳走さまでした。
また連絡します」
そうして揚羽は、会釈をしてマンションに入ると……
勝手口から駐車場を抜けて、裏道に止まっているタクシーに乗り込んだ。
護身用のGPSにより、倫太郎が手配したものだ。
それから別のマンションに着くと、また同じように勝手口から裏道へと抜けて、ようやく自宅のマンションに入るのだった。
倫太郎は発信機でそれを確認すると、連絡を待ちながらカップ麺を食べて……
今日はないかと風呂に入った。
出たあと、半裸のまま髪をわしゃわしゃ拭きながらリビングに入ると。
「相変わらずいい身体」
「うっわ!なんだよオマエっ。
なんでいんだよっ」
帰ったはずの揚羽に、突然声かけられて動揺する。
「GPS見てなかったの?」
「いやアンタ帰ったじゃん。
24時間見てろってか?」
「あそっか。
それより、今日泊めてくれる?」
「はあっ!?意味わかっ……」
意味がわからないと言いかけて、続きを飲み込む。
「……なんか、あったのか?」
ボタニカルカフェで揚羽の様子がおかしかったのを、盗聴器を通じて聴いていたからだ。
「……聴いた通りよ。
お腹の調子が悪いから、誰かといた方がいいと思って」
でも本当は……
浮かない気分を引きずっていて、1人でいると気が滅入ってしまいそうだったからだ。
「ふぅん」
倫太郎はそう相槌すると。
それ以上何も訊かずに、揚羽の隣に腰を下ろした。
「……ねぇ」
ぼそりと呟く揚羽に、いつになく優しげな顔が向けられる。
「倫太郎は、なんでハッカーになったの?」
「は?
なんだよ急に……
今さら俺に興味でも湧いた?」
渇いた愛想笑いを浮かべて、そう返す倫太郎に。
訊くんじゃなかったと言わんばかりに、溜息を吐く揚羽。
「ごめん、プライベートな事は訊かない約束だったわね」
それはバディになった当初、2人で決めた約束だった。
そのため揚羽は、倫太郎の素性を何も知らない。
その生い立ちはもちろん、名前も偽名かもしれないし年齢も嘘かもしれないと。
それでも……
「ビール、付き合う?」
おもむろに立ち上がった倫太郎が、冷蔵庫からそれを取り出す。
「しょうがないわね」
その誘いは、お腹が悪くないのをお見通しで。
揚羽もまた、本当は付き合ってくれてるのを解っていて。
そう、何も知らなくても……
揚羽にとって倫太郎は、気を許せる存在だった。
最初から自分の素性はバレていて。
だからといってどうなるわけでもなく。
だからこそ何の詐称も必要なく。
何の飾りもいらなければ、何の駆け引きも何の気兼ねもいらないからだ。
「シャワー借りるわね。
あ、タオル貸して?ちゃんと洗濯したやつ」
「どれもしてるよ、洗濯くらい」
「料理はしないくせに?」
キッチンに置かれたカップ麺の空容器に視線を向ける。
「別に、プロテイン摂ってるし」
「まったく……
最近作りに来てなかったし、近いうち栄養がつくもの作ってあげる」
揚羽はたまに、倫太郎に手料理を作ってあげていた。
それは例の、最後にした美人局がきっかけで……
*
*
*
「守れなくてごめん……」
酷く落ち込む倫太郎。
「だから全然大丈夫だし、倫太郎は悪くないから。
むしろ天才ハッカーの力で、こうも身の安全が守られてるワケだし」
「それじゃ守ってる気しねんだよ!
俺はちゃんと、ボディガードで守りたかったのに……」
「もう、駄々こねないでよ」
「ガキ扱いすんなよっ!」
「そうやってムキになるとこがガキなのよ」
そう言われて、しゅんとなる倫太郎。
だけどそれが可愛いくて……
揚羽はやれやれといった様子で、感謝の気持ちを口にした。
「あのさ、いつも私の動向を見守ってくれてるけど、それもボディガードになるんじゃないの?
実際、すごく大変な事だと思うし……
だからちゃんと、エネルギーつけなきゃね。
何食べたい?
これでも感謝してるから、好きなもの作ってあげる」
「っ、はっ?
それ食えんの?」
倫太郎は泣きそうな顔で小馬鹿に笑った。
わかってくれてた事、労ってくれた事に泣きそうだったのだ。
でもそれだけじゃなく。
両親がネグレクトで、その離婚後どちらからも引き取られず。
幼い頃から親戚中をたらい回しされて来た倫太郎は、問題ばかり起こしてどの家でも煙たがられていたため……
誰かが自分のためだけに料理を作ってくれるが、初めてだったのだ。
「あんた殺されたいの?」
「じゃあ生姜焼きなら死ぬ気で食ってやるよ」
そう憎まれ口を叩きながらも、今度は心底嬉しそうに笑った。
*
*
*
自分の心には、他に誰も入れないくせに……
俺の心には、そーやってほんとズカズカ入ってくるよな。
眠れずに、ソファで1人溜息をつく倫太郎。
当分寝ないからと、ベッドは揚羽に譲っていた。
するとその寝室の方から、苦しそうな声が聞こえた。
すぐに様子を見に行くと、どうやら夢でうなされてるようで……
倫太郎はベッドの端に腰を下ろすと。
その切れ長の大きな目を切なげに細めて……
そっと髪に触れて、優しく撫でた。
安心しきっているのか、揚羽は起きる気配もなく……
心地よさそうにまた、スヤスヤと寝息を立てていた。