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週末。
〈今日、仕事が終わったらそっちに行くわね〉
事前にそう連絡していた揚羽は……
その時間を迎えると、待ち遠しい気持ちで鷹巨の家に向かった。
組織と折り合いをつける時間を装い、一週間近く日を空けていたため。
早く足を洗った報告をして、喜ぶ顔が見たかったのだ。
すると、店用の携帯に公衆電話から着信が入り。
怪訝に思いながらそれに出ると。
『もしもし揚羽ちゃん?』
その声はまさかの久保井で……
瞬時に胸が攫われる。
揚羽からしてみれば……
もう無理だと思った相手が。
鷹巨のためとはいえ、諦めた相手が。
この土壇場で現れて。
まるで教会から攫われる花嫁のような、ドラマティックな錯覚に襲われる。
だけどすぐに。
「今さら何の用?
悪いけど、」
そう撥ね退けようとした矢先。
『追われてるんだ、かくまってくれないかっ?』
その言葉に……
ー「追われてんだろ?かくまってやるよ」ー
かつての記憶が、ぶわりと甦り。
心臓が激しく揺さぶられる。
「……っ、どういう事?」
『実は俺、かなり大きな組織の一員で。
足洗おうとしたんだけど、無理みたいでっ……
今逃げてるとこなんだ』
かなり大きな組織……
それも、足を洗えないくらいの。
それは、久保井がヤバめの組織ぐるみで動いていると言った、倫太郎の情報と合致していて。
完璧なまでに手掛かりを残さない男が、自ら暴露した状況に。
あながち嘘じゃなさそうだと判断する揚羽。
「だからって……
私に助けを求めるのは筋違いじゃない?
しかも勝負を途中で投げ出しといて」
『投げ出してなんかないよ。
揚羽ちゃんの事、好きだって自覚して……
だから足洗おうと思って立ち回ってたんだ』
私のためにっ?
思わずぎゅっと胸が掴まれて。
慌ててそれを振りほどく。
「そんな手口に騙されると思うっ?
悪いけど私、結婚するの。
だからもう、あんたのお遊びには付き合えないから」
『遊びじゃないよ。
てゆうか、結婚?
この前まで、愛なんか信じてなかったくせに?』
「信じられる愛を見つけたのよ」
『だからって、そんな人間が簡単に人を愛せるとは思えないけど』
「愛される幸せに気付いたの!
とにかく、そういう事だからもう掛けて来ないで」
『無理だよ。
だってそいつより俺の方が、何倍も……
何百倍も愛してるから』
その言葉と、切実な声に……
また胸を掴まれそうになった揚羽は、カチンと苛立つ。
「いいかげんにして!
あんたなんかに愛を語る資格はないわ」
それを喰いものにしてきた分際で!
『……俺にだって愛はあるよ。
誰にも負けないくらいの愛が。
ずっとずっと、ただ1人だけ……
死ぬほど愛してるよ、望』
その瞬間、揚羽の心が破裂する。
それは、とっくに捨てた本名で……
11年ぶりに耳にした呼び方で……
再び呼んだのは、最後に呼んだその人で……
まるで羽化するように。
揚羽の皮を破って、死んだも同然だった「望」の心が甦る。
「気づい、てたの……?」
『うん、最初から。
気づかないわけない。
忘れるわけない。
今日までずっと、ほんの一瞬だって忘れた事なんかなかったよ』
途端、ぶわりと涙が堰を切る。
「じゃあどおしてっ」
『言えるわけないだろっ。
あんな目に合わせといて……
なのに会いたくて、近付きたくてっ。
今だって!
本当は関わらせたくなかったのに、最後にもう一度だけ会いたくて……
きっともう二度と、会えないだろうから』
最後?
もう二度と、会えない?
その言葉と、ヤバい組織から逃げているという状況から……
命を狙われているのが窺われた。
「今どこっ?
すぐに向かうわ」
逸る思いで問いただすと。
『望っ……!
……ありがとう』
仁希はそう声を震わせた。
それから、タクシーの運転手に行き先の変更を告げた望は……
今度は別の涙に襲われる。
ごめんね、鷹巨……
ごめんなさいっ……
そのマンションを目前に、きっともうここに来る事はないだろうと。
胸が千切れそうになる。
そう、仁希が全てだった心が甦った事で。
望の心は仁希に向いてしまったのだ。
それにより、鷹巨に別れと謝罪のメッセージを送ろうとしたが……
ー「受け取ったら最後、あんたの前から消えるわよっ?」
「うん、そうして?
そうでもされないと俺、一生諦め切れないからさっ……
聡子が本気で別れたいなら、俺との手切れ金にして奪っていいよ」ー
そのやり取りを思い出し。
苦渋の思いで、聡子の携帯の電源を落とした。
手切れ金は、頃合いを見計らってこっそり返すとして。
今は詐欺を装って消えた方が、鷹巨も踏ん切りがつくんじゃないかと。
だけどそれは、かつての自分と同じ目に遭わせるという事で。
どれだけ待っても、くる事のない連絡を……
鷹巨も、何日も何日も待ち続けるのだろうかと。
信じた相手に、愛する存在に……
大金を奪われて、悲しみを与えられて。
あんな辛い日々を送るんだろうかと。
自分が味わった裏切りを、一番許せない事を……
鷹巨にしようとしてる現実に。
「ごめんっ、鷹巨……」
望は胸を抉られる。
そして追い討ちのように。
ー「いや笑いすぎっ。
あぁも、ソラ!
ちょっとは援護しろって」ー
お腹が痛くなるくらい、笑ったあの日や。
ー「そういうのって、被害を受けてるのは身体だけじゃないと思うから」ー
その優しいバカさに、じんわり癒された日。
ー「もっと、抱いてい?」
「んっ……
全部、忘れさせてくれるんでしょ?」ー
初めて肌を重ね合った日や。
ー「だから付き合お?彼女になってよ」
「もぉ、困らせないでよ……」
「ごめん、困らせたい。
いいって言うまで、ずっとキスするよ?」ー
甘いキスに溺れて、付き合う事になった日。
ー「私は、詐欺師なのよっ?」
「うん、でもその前に1人の人間だよ?」ー
優しく慰めてくれた日や。
ー「詐欺師を辞めて、俺の奥さんに転職しない?」ー
プロポーズに驚いて、嬉しくてたまらなかった日。
そんな鷹巨との日々が思い出され……
ぼろぼろと泣き崩れる望。
ー「愛してるよ、聡子。
すごく、すごく……
無事にやめれたら、結婚指輪買いに行こう?」ー
約束、守れなくてごめんなさいっ……
ー「俺の事、ちょっとくらいは好き?」ー
「ううっ……」
今頃になって、ちゃんと鷹巨を好きだったと気づいて……
いっそう涙に襲われる。
だけど、それでも仁希を選ぶほど……
その存在は絶大だったのだ。
かつては自分の全てだった存在で。
その裏切りで、今までの自分は成り立っていて。
つまり望の基盤は仁希で形成されていて。
もはや一心同体とでもいうべき存在に、惹き寄せられずにはいられなかったのだ。
そうして望は……
仁希を拾って、自分の家にかくまうと。
「お腹空いてるでしょ?
とりあえず何か作るから、苦手なものがあるなら言って?」
タクシーの中で、一日中逃げ回っていたと聞き、そういたわる。
「えっ、作ってくれんだ?
だったらリクエストしてい?」
「まぁ、材料があればね」
「じゃあ、薄味の生姜焼きはっ?」
「生姜焼きっ?
男って好きなのね。
でもごめん、それは個人的な理由で作りたくなくて……
他には?」
「……ふぅん、じゃあ何でもいいよ。
薄味で水分少なめのものなら」
やたらと落ち込む仁希に、気が引けながらも……
細かいリクエスト内容が気になる望。
「どこか、悪いの?」
「あぁ俺、透析患者なんだ。
ほら今、逃亡中で受けれないからさっ。
せめて食事は、いつも以上に気を付けとこうかなって」
「そうなんだ……
でもそれ、早く受けなきゃヤバいんじゃない?」
「うん、でも……
後で話すけど、当てはあるから大丈夫だよ」
安心させるように、目でもそれを訴える。
「ならいいけど……
話はじっくり聞かせてもらうから。
あの日の事も、この数ヶ月の事も」
そう、合流してからその事が聞きたくてたまらなかったのだ。