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2匹のアゲハ蝶が、ヒラヒラと戯れるように飛んでいた。
そこに、携帯の着信音が鳴り響く。
『ごめん、揚羽ちゃん。
ちょっと仕事が押してて……
今日の同伴、30分くらい遅れるかもしれない』
同伴とは、ホステスがお店の営業時間前にお客様と食事などして、そのあと来店してもらうシステムだ。
「いいですよぉ。
私は田中専務とお食事出来るだけで嬉しいですもん」
その時、片方のアゲハが蜘蛛の巣にぶつかりそうになり。
途端、もう片方が守るようにしてそれに捕まった。
「……じゃあ、お仕事頑張ってくださいね」
揚羽と呼ばれたかつての少女は、そう会話を締めくくると。
蝶に自己犠牲みたいな概念があるんだろうか?
目の前の光景をそんな思いで眺めて……
まさかね、と鼻で笑って通り過ぎた。
揚羽というのは源氏名で。
煌びやかに身を飾る水商売の女性を、夜の蝶と例える事から。
蝶に因んだその名前をつけていた。
さらにその漢字には、上がるという意味があるらしく。
絶望から這い上がってやる……
そんな思いも込められていた。
あのあと戸籍上の夫とは、失踪届により離婚が成立したものの。
その結婚詐欺で、お金も住む所も失った揚羽は……
年齢を偽って、日払いのある水商売で食い繫いできた。
そうして11年。
都道府県や店を転々と変えながら、今は高級ラウンジで働いていた。
でもそれは表の顔で……
〈データPCに送った〉
〈ありがと。少し時間が空いたから、こっちにも送って〉
揚羽はバディからのぶっきらぼうなメッセージに、そう返すと。
すぐに送られてきたそれを開いた。
こいつがターゲットの岩瀬鷹巨か……
結婚詐欺師とはいえ、飛び抜けて甘いマスクね。
データの写真を見ながら、これなら大抵の女が騙されるだろうと溜息を漏らす。
依頼者はこの男に、母親の治療費として集めた300万を騙し取られたらしく……
親を心配する気持ちに付け込まれ。
「結婚したら、俺がもっといい治療を受けさせるから」と。
その定期預金の満期が来るまで、結婚資金を立て替える事になり。
それを奪われたようだ。
依頼内容は、母親の病状が悪化する前に全額取り戻して欲しいとの事だった。
そう、裏の顔は……
詐欺師を騙す黒詐欺師として、嘘で飾る黒アゲハ。
ターゲットは、結婚詐欺などを主とした赤詐欺師で……
お金だけじゃなく愛まで奪う赤詐欺を、より卑劣だと思っているからだ。
この依頼者も、愛する人に裏切られた挙句。
親の命に関わる大事なお金を奪われて、どれだけ辛かっただろうと。
揚羽は依頼者の痛みに自分の痛みを重ねて。
許せない……
復讐心に火を灯す。
憎むべき詐欺行為に、自ら手を染めたのは……
当時のホステス仲間が悪徳ホストに騙されて、その復讐に加担する事になった際。
ずっと燻ってた憎しみのはけ口を見つけたからだった。
そんな奴ら、今度はこっちが騙してやると。
そして腕を上げて、いつかあの男に復讐してやると。
そうして赤詐欺専門の復讐代行サイトを立ち上げた揚羽は、そこに寄せられた依頼からターゲットをピックアップしていた。
被害が深刻なものを優先しつつも。
ターゲットが大きな組織の場合、下手に手を出せばこっちの身が危ない。
さらに、依頼内容がハードすぎるものも引き受けかねる。
また、嘘で塗り固められた詐欺師を探し出すのは、ただでさえ難しいのに……
手がかりが極端に少ない場合も手に負えないし。
虚偽の事実で相手を陥れようとしてるケースも見抜かなければならない。
そのため、いつもバディの天才ハッカーが……
ターゲットだけじゃなく、依頼者とその事実関係も調べていた。
うん、確かに……
依頼者の母親は陽子線治療が必要な状態で。
そのためらしき300万も引き出されてるし、他の情報も申告通りね。
ただ……
揚羽はターゲットの調査データに疑問を持つ。
詐称ではなく、本当にエリートなのだ。
それも、大手証券会社の営業マン。
◇
「ねぇ倫太郎、どう思う?」
その日仕事を終えると、揚羽は真っ先にバディの家を訪れていた。
「どうって……
身分詐称も甘かったし、初犯なんじゃね?」
倫太郎と呼ばれた天才ハッカーは、その切れ長の大きな目を揚羽に向けた。
「でもそんな高給取りで人目につく多忙な人間が、わざわざリスク負って犯罪に手を染める?
しかもここまで男前とか、なんか胡散臭いと思わない?」
「いやそれまんまアンタだろ」
「は?
ケンカ売ってんの?」
「だってそーだろ?
その美貌で、人目につく水商売でけっこう稼いでんのに、わざわざリスク負って犯罪に手を染めてんじゃん」
なるほどと合点しつつも、ふと思う。
じゃあそのターゲットも私みたいに、何かを抱えているんだろうかと……
だとしてもバカなの?
揚羽は鼻で嘲笑った。
自分と違って、誰もが羨むような人生に身を置きながら。
それを無防備に危険に晒しているからだ。
「まぁ私は化粧で誤魔化せるからね」
「そっか、アンタ顔面詐欺師でもあったよな」
「あんた殺されたいの?」
すると倫太郎は、楽しそうにハハッと笑う。
クソ生意気だけど、その笑顔は可愛いのよね……
ぶっきらぼうな6コ下の天才ハッカーは、時折無邪気な笑顔を見せる。
だけどその風貌は、長身で男らしい体つきで、やんちゃな雰囲気をまとっていて。
見た目通り喧嘩が強く、揚羽のボディガードも兼ねていた。
バディになったのは2年半前。
まるで道でも尋ねるかのように声掛けられたのだった。
*
*
*
「アンタの黒詐欺、混ぜてくんない?」
当然、揚羽は警戒する。
「……何者?」
「天才ハッカー、ってトコかな」
「天才って……
自分で言うのってどうなの?
むしろチンピラ小僧にしか見えないんだけど」
相手にしない方がいいと判断した揚羽は、そう言って通り過ぎようとした矢先。
「じゃあチンピラでいいよ、バツ1の西原サン」
誰も知るはずのない情報と、とっくに捨てた本名を口にされて、踏み留まる。
こいつ、本物のハッカーだ……
「アンタの詐欺情報、けっこう出回ってんだよ。
このままじゃ捕まんのも報復されんのも時間の問題だけど。
俺と組むなら全部揉み消してやるし、チンピラらしくボディガードもしてやるよ。
断るなら、アンタのデータ売らせてもらうけど」
「……何が目的?」
「まぁ金と、楽しそうだから?」
つまり一時的な収入より、継続的な報酬が欲しいってワケね……
バカそうに見えても、ハッカーだけあって賢い男だと、警戒を強める。
「悪いけど、脅しには屈しない主義なの。
私は誰も信用しないし、誰とも組む気はない。
相手が男なら尚更ね。
データも、売りたいなら好きにすれば?」
そう、人生に希望がない揚羽には……
誰かに屈してまで、守りたいものなどなかったのだ。