アマミキヨの詩
一、いざ沖縄へ
大海は、東京→沖縄便の機内で、これから始まる沖縄での暮らしに思いを馳せていた。海外でのマングローブ植林プロジェクトに参加して、多くの友人と知り合い、マングローブの大地に根差す生命力と、それが育む美しく青い海と豊かで優しい自然に魅せられて、その植林プロジェクトを国内でも普及させようと、沖縄に移住を決意したのである。
本土ならそろそろ桜の咲く季節なのだが、沖縄は暖かいので移植してもソメイヨシノは休眠のままで花は咲かないらしい。代わりにクメノサクラという桜はあるらしいのだが、いずれにしろこの季節に長年悩まされていた大海にとって、花粉症が無いのは実に有難いのだ。
初夏を思わせる陽気の中、那覇空港に降り立った大海は、空港で三枚肉のたっぷり入った沖縄そばを味わって空腹を満たすと心まで満たされ幸せな気分になった。
早速、タクシーに乗り、宜野湾市の不動産屋に向かう予定なのだが、約束の15時までにはまだ時間がある。
大海は以前にテレビのニュースに映し出された首里城火災の映像が気になっていたので、運転手さんに頼んで近くを経由してもらうことにした。
タクシーは混み合っている国際通りを抜けて首里城方面に向かった。
カバンを車内に置いたままタクシーを最寄りの駐車場に待たせて15分ほど散策する。
100メートルくらい先に切手の図案で見覚えのある守礼門が見えた。
色鮮やかな門がかつての琉球王朝の栄華を物語っている。
しかし、その先には無残にも焼け焦げて悲しい首里城の姿が横たわっていた。
この城は太平洋戦争末期の沖縄戦でも焼失している。
島人ぬ宝ともいうべき琉球文化の拠り所であるこの城の焼失が沖縄住民を大そう悲しませたであろうことは想像に難くない。
大海はひとしきり沖縄の歴史に想いを馳せると沖縄の光と影が交錯するその場所を離れ、待たせていたタクシーに戻り、宜野湾市に向かうことにした。
宜野湾市一帯は、空港からタクシーで少し北に向かい40分くらいの那覇市郊外に広がるベッドタウンで、沖縄本島の中南部に位置する。首里城を後にして沖縄自動車道に乗ると、20分程度で不動産屋に着いた。
2DKくらいの生活と交通の便が良さそうな物件を選んで、住居を構える支度を整える予定である。
落ち着いたら、妻と娘を呼び寄せるつもりだ。不動産屋の主人は、どことなく気の良さそうな沖縄訛りの口調で3件ほど物件を紹介してくれた。
「この辺は米軍基地が3割近く占めているから、米軍機の騒音がうるさくてね。どの物件も防音工事はしているけど、慣れるまでは多少気になるかも知れないよ。」
「僕も東京の街中に住んでいたんで多少の騒音は大丈夫ですよ。実は、沖縄のマングローブ林を調査して、本土の海岸にも移植したいと思っているんです。それには、北部のマングローブ林へのアクセスと、那覇空港へのアクセスもいいこの近辺がいいかなと思って。」
「そうなんだ。じゃあ、築10年くらいになるけど、インターやスーパーにも近いし、家賃も手頃だから、2DKのこの物件なんかがいいかも知れないね。部屋を見に行くかい?」
「お願いします。」
大海は、不動産屋の主人の車に乗せてもらい、数百メートル先のアパート物件を見に行った。
部屋は3階の角部屋でベランダが南西方向に向いており、日当たりも良さそうである。ベランダからは沖縄にしては珍しく神社の鳥居が見えた。
「沖縄にも神社があるんですね?」
「あれは普天満宮の鳥居ですよ。普天満宮は、本土でも有名な熊野権現を祀っているんですけど、奥に鍾乳洞があって、沖縄の祖霊神アマミキヨにも関係があるかも知れません。」
「沖縄にも神道が根付いていたんですね。明日、時間があったら参拝しようかな。」
「小出さんは、お仕事はどんなことをされているんですか?」
「大学で考古学を専攻しています。琉球大学の人文社会学部で沖縄や東アジアの歴史について教鞭を執ることになりました。大学で教えながら、趣味で時間を見つけてマングローブ林の調査も行う予定ですけどね。」
「そうでしたか。大学は米軍基地の南側の西原町だから、ここからも近いですしね。」
「そうなんです。ここに決めたのもそんな理由があって・・・。でも、島を巡るには車は必須ですから、明日にでも車屋さんに行ってみるつもりです。」
「じゃあ、この物件でいいですかね?後の2物件はどうしましょう?」
「いや、大丈夫です。ここ気に入ったんで、ここに決めます。」
「ありがとうございます。じゃあ、事務所に戻って契約の手続きをお願いできますか。」
大海はアパートの賃借契約を済ますと、ガスや水道の手続きをして、身の回りのものと食料品などを近くのスーパーで買い揃え、送っておいた荷物を友人の家に受け取りに行った。
二、島の夜
大海は、最寄りのバス停で降りて、琉球大学の近くにある友人の大輔の家まで、グーグルマップで入力した住所の地図を頼りに訪ねて行った。
「はいさい(こんばんは)、小出です。」
「めんそーれ(いらっしゃい)、おう、小出君、久しぶり!元気そうだね。荷物届いているよ。」
「ありがとう。俺もとうとう沖縄に来ちゃったよ。山下君も元気そうでよかった。」
前述の通り、小出大海と山下大輔は、海外ボランティアでマングローブの植林プロジェクトに参加して知り合い、それ以来親交を深めていた。
大輔はまだ独身で、琉球大学の農学部で助教として働いており、大海に沖縄の魅力を事あるごとに伝えてくれて、マングローブのことなら沖縄に来いとばかりに誘ってくれ、大海も遂に決心して沖縄移住を決めたのである。
大海は大輔に手伝ってもらい、届いた3個口の荷物を、近くのコンビニまで運んで、今日決めた自分のアパート宛に宅急便で転送する手はずを決めていた。
無事発送を終えると、二人は近くの居酒屋で一杯やることにした。店に入ると中は学生たちでいっぱいだった。それでも、店員に案内されて、奥の一角の掘りごたつ席に何とか腰を下ろすことができた。取り敢えず、オリオンビールの生と地元の海鮮舟盛り、ゴーヤチャンプルー、もずくのサラダを頼んで、二人で乾杯する。
「まずは、沖縄移住おめでとう!」
「ありがとう。君が近くに居てくれてほんとに助かったよ。」
「今日はゆっくり飲もう。俺ん家も豪邸じゃないけど、布団くらいあるから泊って行けばいいさ。」
「助かるよ。色々ありがとうな。」
「大学へはいつから出るんだい?」
「来週の月曜日に挨拶に行くことになっているから、この土日までに身の回りを整理しなきゃと思ってる。」
「そうか、じゃああんまりゆっくりはしてられないな。」
「そうなんだよ。取り敢えず明日車屋に行って中古でいいからマイカーを手に入れないと移動が面倒でさ。」
「そうだな。この近辺にはカーショップも沢山あるから、見て廻るといいよ。」
「でも、この町は中央を米軍基地が陣取っているから、騒音もすごいし、島の西海岸と東海岸の往来も面倒だね。」
「そうだな。沖縄は良くも悪くも米軍の影響が大きいよ。西海岸の北谷町に行くともうアメリカの西海岸ウエストコーストって感じでお洒落な店が立ち並んでいるし、基地で経済が潤っているところもあるからね。」
「でも、アパートから鳥居が見えて驚いたんだけど、沖縄にも神社があるし、本土と同じ日本なんだなあと改めて思ったよ。」
「普天満宮のことかな?米軍基地の傍らにあるけど、熊野権現と琉球古神道神を祀る歴とした神社だよ。昔は首里城から普天満宮に通じる参道があって、歴代の王も普天満宮を詣でていたらしい。」
「首里城とも関係あるのか・・・正殿は西の中国の方を向いているって聞いたけど、日本の神様とも関係あるんだね。民間人を巻き添えにして多大な犠牲者を出したあの沖縄戦の時は、首里城の地下に旧日本軍の司令部もあったらしいし、不思議な因縁がありそうだね。今日来るときにさ、途中で首里城に寄って来たんだけど、跡形もなく全焼してて、沖縄の人もさぞかしショックだったろうね。皮肉にも、今では首里城と普天満宮の間を引き裂くように米軍基地が横たわっているってわけだ。普天間基地の辺野古移設では沖縄住民の間で反対意見が多くて揉めているけど、ひょっとしたらこれって神様の意志かも知れないね。」
「おいおい、沖縄住民の考えは間違っているって言うのかい?」
「いや、そうじゃないけど、普天満宮には洞窟があって、そこは沖縄創造の祖霊神のアマミキヨに関係があるんじゃないかって不動産屋の主人も言ってたからなあ。普天満宮の祭神の琉球古神道神ってアマミキヨのことじゃないのかな。」
「そうかも知れないな。そのアマミキヨが最初に降り立ったのは、南部の久高島っていう島らしい。君も落ち着いたら一度行ってみたらいいよ。沖縄ではとても神聖な場所らしいんだ。」
「沖縄にも本土と同じように島の創造神話があるんだね。俺も考古学やってたから日本神話には詳しくなったつもりでいたけど、今度は学生に琉球の歴史も教えなきゃならないから、沖縄の神話もじっくり探求しなきゃなあ。」
そんな話をしていると、どこからともなく三線の音色と共に聴き覚えのある歌が流れて来た。BEGINの『島人ぬ宝』だ。大輔も大海も何となく嬉しくなり一緒に歌いだした。
♪『僕が生まれたこの島の空を 僕はどれくらい知っているんだろう
輝く星も 流れる雲も 名前を聞かれてもわからない
でも誰より 誰よりも知っている
悲しい時も 嬉しい時も 何度も見上げていたこの空を
教科書に書いてある事だけじゃわからない大切な物がきっとここにあるはずさ
それが島人ぬ宝 ・・・』
しばらくすると、また、懐かしい歌が流れて来た。夏川りみの『涙そうそう』だ。
♪『古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ
晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても
おもかげ探して よみがえる日は 涙なだそうそう ・・・』
二人はテビチと海ブドウ、それに泡盛を注文して、マングローブ植林時の話に興じていた。
「プロジェクトにいっしょに参加していた奈美恵のこと覚えているかい。」
「そりゃあ、忘れやしないさ。俺はあの子の笑顔に何度癒されたことだろう。親父とおふくろが次々に亡くなり、天涯孤独の身になって、生きる意味を失いかけた頃、彼女がいっしょにマングローブの植林プロジェクトに参加しない?って誘ってくれたのさ。海と大地に根差して僕たちの夢とロマンを乗せ逞しく育っていくマングローブの森は僕たちの未来をも育ててくれていたのかも知れない。」
大輔は思わず涙していた。
「それなのに、なんで彼女まで、帰らぬ人になってしまったんだろう。そう、俺はその日からもう一人で生きていくと決めたんだ。」
大海は、彼女に何かあったのだと悟り、自分の切り出した話を悔いた。
「あれから色んなことがあったようだけど、俺はいつだって君の味方だよ。」
「ありがとう。でも、人の命は儚いよね。自然の驚異に対してあまりにも無力でさ。」
「だからこそ、僕たちは愛の森を育ててきたんじゃないのか。」
奈美恵はあの日、津波に飲まれて帰らぬ人となってしまったのだ。大輔はそれをニュースで知り、やっとの想いで現地を訪れて、血眼になって捜索したが、遺体はおろか彼女の遺品すら何一つ見つからなかった。あれから十年が経ち、町の姿も落ち着きを取り戻してはいたが、まだ、人々の心の中にはあの日の亡霊が浮かんでは消えていくのである。
「でも、沖縄の人々や自然はそんな心の傷を優しく癒してくれるのさ。そこには、激しい戦禍に見舞われても明るく生きて行こうとする人々の温かい笑顔があるんだよ。」
大輔に笑顔が戻ってきたのを見て、大海は少しホッとした。
大海は気分転換にとシークワーサーの酎ハイを大輔にも勧めて一緒に注文した。
「日本古来の柑橘類は、この沖縄特産のシークワーサーとタチバナなんだってさ。」と、大輔が言うと、今度は大海が古事記の橘に関する逸話を語った。
「古事記の垂仁天皇記には、多遅摩毛理が常世の国から持ち帰ったとされる非時の香の木の実の話が載っているんだけれど、それがさっき君が言ったタチバナらしくて、そのかぐわしく爽やかな香りが時空を超えて垂仁天皇と天照大御神と卑弥呼をつなげているような気がするんだ。次の代の景行天皇記に登場する倭建命の東征の段で、荒れた海を鎮めるのに海に八重畳を浮かべ、后の弟橘比賣命が身を賭してその上に降りるという話があるんだが、この女性も同じ『橘』でつながっている。天照大御神は記紀の神話にしか登場しないし、卑弥呼も魏志倭人伝などの中国の史書にしか登場しないんだけど、神話はどうも歴代の主要な天皇のイベントを象徴的に表現しているようなんだ。そして、よーく観察すると、その神話と魏志倭人伝にも接点がありそうなんだよ。それらの情報をつなぎ合わせると垂仁天皇や弟橘比賣命と天照大御神、卑弥呼が同時代の人であることが見えて来る。垂仁天皇と、景行天皇の時代の倭建命に接点があるとは思えないだろう。ところが、日本書紀に記された天皇の即位年の干支を調べると、景行天皇とその次の成務天皇の即位年の干支が辛未で同じなんだよ。干支は六十年で一周するから景行天皇は六十年在位したと考えることもできるが、垂仁天皇が崩御された後、景行天皇と成務天皇が同じ時代に手分けして統治したと考えられないだろうか。そこで考えたんだが、次の代の天皇即位年とほぼ同じ干支なら在位年数を0(ゼロ)として年代の確実な天皇の代から遡って歴代の天皇の在位年数を計算すると、垂仁天皇の次の代となる景行天皇や成務天皇の即位年と卑弥呼の死去年が251年と248年でほぼ一致するんだよ。これって、垂仁天皇である卑弥呼が亡くなった後、景行天皇と成務天皇が分割統治を行ったっていうことじゃないだろうか。天照大御神が岩屋に籠られた後に再び現れるという天岩戸神話は、魏志倭人伝に記された卑弥呼の死と台与の継承を象徴していると巷で噂されているから、この信憑性のある説に従うと卑弥呼=天照大御神となる。さらに、垂仁天皇のお名前は伊久米伊理毘古伊佐知命と言うんだが、その『伊久米』とは魏志倭人伝の邪馬台国の官として記された『伊支馬』という名と類似しているから、それが卑弥呼とすれば、卑弥呼=天照大御神=垂仁天皇ということになる。そして、景行天皇記に登場する倭建命を成務天皇とすると、その后は弟橘比賣命(※)となるので、卑弥呼=天照大御神=垂仁天皇=弟橘比賣命ということになる。つまり、神話に登場する恐れ多い太陽神である天照大御神は実は弟橘比賣命という倭建命の后として東征の旅に登場し、魏志倭人伝に記された狗奴国との抗争という荒れた海を鎮めようとして犠牲になったんじゃないかと思っているんだ。宮崎の同じ読みの生目古墳群の一号墳も卑弥呼の墓じゃないかという噂があるから、そうすると邪馬台国のあった場所は宮崎ということになる。宮崎にはこれまた同じ読みの『橘通り』という地名があるし、伊邪那岐神が禊を行ったとされる竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原も『橘』で宮崎ではないかと思われる。ただし、今話した内容は、実は俺の父親の説の受け売りだけどね。」
(※)古事記には、倭建命の后に弟橘比賣命、成務天皇の后に弟財郎女と記載されているが、倭建命=成務天皇とすると、弟橘比賣命も成務天皇の后となる。
「お前の話は複雑怪奇でよくわからないとこもあるけど、天照大御神が何だか身近で愛おしい人に思えて来たよ。さすが考古学者だな。大海も古代日本には詳しいんだな。ということは、ひょっとしてタチバナを持ち帰った常世の国っていうのは沖縄だったりして。」
大輔がそう返すと、大海がさらに付け加えた。
「そう、沖縄かも知れないし、朝鮮半島かも知れないんだなあ。まあ、その話は次の機会に取っておくことにしようか。ところで、そう言えば、沖縄って何で沖縄って言うか知ってるかい?それに琉球とも言うだろう。僕が前にネットで調べたら、沖縄=浮縄が由来らしい。鹿児島から沖縄に続く島々が縄のように真っすぐに並ぶ浮島のようだから沖縄と名付けられたようなんだ。そして、琉球は龍の宮と書いて『龍宮』じゃないかと思っているんだ。海神の宮が竜宮城だとすれば、琉球は海神の本拠地で、そこには乙姫ならぬ弟橘比賣命が居たのではないだろうか。」
すると、浦島太郎を演じる桐谷健太の歌声が竜宮城を慕って流れて来た。
♪『空の声が 聞きたくて 風の声に 耳すませ 海の声が 知りたくて 君の声を 探してる
会えない そう思うほどに 会いたい が大きくなってゆく 川のつぶやき 山のささやき
君の声のように 感じるんだ ・・・』
また、耳を澄ませていると、奄美へと続く海の調べはマングローブの歌に・・・。
遠くの方から、昔聴いたことのある南方の民謡らしい調べが・・・。
あれは元ちとせの『ワダツミの木』だ。
♪『赤く錆びた月の夜に 小さな船をうかべましょう
うすい透明な風は 二人を遠く遠くに流しました
どこまでもまっすぐに進んで 同じ所をぐるぐる廻って
星もない暗闇で さまよう二人がうたう歌
波よ、もし、聞こえるなら 少し、今声をひそめて
私の足が海の底を捉えて砂にふれたころ 長い髪は枝となって
やがて大きな花をつけました
ここにいるよ、あなたが迷わぬように
ここにいるよ、あなたが探さぬよう
星に花は照らされて 伸びゆく木は水の上
波よ、もし、聞こえるなら 少し、今声をひそめて
優しく揺れた水面に 映る赤い花の島
波よ、もし、聞こえるなら 少し、今声をひそめて』
海神とは、神話の中で伊邪那岐神から海原を治めるよう命じられた須佐之男命に象徴されるとすれば、その生みの親とされる伊邪那岐神と伊邪那美神、倭建命をも意味するのだろうか。
沖縄から奄美にかけて自生するマングローブ種はヒルギと呼ばれ、その由来は、『漂木』の意味で、果実が浜辺近くの水底に漂着して生育するからといわれる。また幼根の形が蛭に似るので『蛭木』とする説もある。
大海には、『ワダツミの木』のこの歌詞が水の底に根を伸ばし、水面に伸びて枝を生やすヒルギの生育する様を擬人化したもののように聞こえてならなかった。
三、ウチナータイム
明くる日の朝、大海が目覚めると、大輔がベーコンエッグとひじきのサラダ、それに小倉トーストとアメリカンコーヒーを用意してくれていた。
「おはよう。よく眠れた?」
「おはよう。おかげさんでぐっすり眠れたよ。あー、うまそう!朝早くからヘルシーな食事用意してくれたんだ。俺、餡子のトースト大好きなんだ。」
「いやあ、俺もさっき起きたとこだし、あるものだけだから。」
「ありがとう。泊めてもらった上に、朝食まで用意してもらって。やっぱ、持つべきものは友達だな。」
「まあ、そう言ってもらうと作り甲斐があるよ。今度はお前んとこに泊めてもらうから、その時はよろしく。」
「おう、任しとけ。」
そう言い合いながら、二人はゆっくりと流れる沖縄の朝のひと時を満喫していた。
そう言いつつも、大海は今日済ませないといけない用事が沢山あるし、大輔の都合もあるだろうから、食事を終えると手早く身支度を整えて、彼の家を後にした。
「今回は世話になったな。大輔も遠慮せずに家にも遊びに来てくれ。そして、何かあったらすぐに連絡してくれよ。俺の大事な友達なんだからさ。じゃあな。」
「ありがとう。お前が来てくれて俺もほんとにうれしいよ。じゃあ、またな。」
大海は、まず、近くの車屋に立ち寄り、まだ一年ほど車検までの期間が残っている手頃なマイカーを購入した。オフホワイトでジープ仕様の10年落ちの軽自動車だが、整備済みで錆止め塗装も施してある。手続き等に少し時間を要したが、何とか当日渡しで乗って帰ることができた。最寄りのファミリーレストランで昼食を済ませてアパートに戻ると昨日置き配指定で送っておいた荷物が届いていた。早速荷を解いて、部屋を片付け、不足する日用品などを書き留め、スーパーに買い足しに出かけた。
車に乗ろうと駐車場に出ると、中古とは言え買ったばかりのジープのルーフに一匹の猫が昼寝をしている。大海は、トックリヤシの木の細長い葉っぱからこぼれる柔らかな日差しを浴びながら、何だか気持ちよさそうに寝ている三毛猫を追っ払うのも可哀そうな気がして、車を諦めて歩いて出かけることにした。
スマホの地図を見ながら広い通りに出ようと少し歩いて行くと、通りの向こう側に普天満宮の鳥居が見えた。大海は沖縄の神社とはどのようなものかと興味津々で、買い物のついでながら早速参拝させてもらうことにした。
昨日、窓から見えた普天満宮が気になったので、ネットで調べて次のような予備知識を得ていたのである。
『普天満宮は普天満権現とも言い、琉球八社の一つで、主祭神は熊野権現と琉球古神道神とされている。熊野権現と言えば熊野三山を総本山とし、須佐之男命をはじめ、その両親である伊邪那岐神と伊邪那美神、天照大御神などの天神を包括した神様である。一方、琉球古神道神の由来は、首里桃原に女神が出現され、のちに普天満宮の洞窟に籠られたという伝承や、洞窟より仙人が現れ「我は熊野権現なり」と示されたという伝承、また、安谷屋村の百姓夫婦や東恩納村の当ノ屋に黄金のご神徳を授け苦難を救ったという伝承などに散りばめられており、そう言う由緒から普天満の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まるらしい。旧暦九月には普天満参詣といって、かつては中山王(沖縄を統一した天孫系とされる琉球王朝)をはじめ、御嶽という聖域で祭祀を司るノロという祝女(巫女)や、一般の人々が各地より参集し礼拝の誠を捧げたとされている。沖縄戦(※)では迫り来る米軍から逃れて、宮司が御神体を南部の糸満へ疎開させたことで何とか難を逃れたらしい。戦後は、宮司の出身地である具志川村(現うるま市)に仮宮を造って祀り、その後、普天間の境内地が米軍より解放されると、1949年2月、元の本殿に無事還座したようである。そして、不動産屋の主人が言っていたように沖縄の創世神であるアマミキヨがここに祀られている琉球古神道神なのだろうか。』
(※)1945年の沖縄戦では、宜野湾以南に結集して持久作戦を取る方針で強靭な首里城地下壕に司令部を構えて徹底抗戦する旧日本軍に対して、米国・英国の連合軍は、本島中西部の読谷村や北谷町辺りの西岸から上陸して、徐々に南部に向けて制圧して行った。その結果、身を挺して挑んだ特攻攻撃による善戦虚しく、旧日本軍は、首里防衛線崩壊後、南部の喜屋武半島に撤退し、ひめゆりの塔に象徴されるあの凄惨な結末を迎えるのである。沖縄戦では、民間人だけでも約10万人(もしくはそれ以上)が戦死し、米軍上陸前に北部に疎開した民間人などはほとんどが米軍に保護されて生き残ったのに対し、中南部以南の特に軍民雑居地域では犠牲者率が48%にも上る悲惨な状況だったようだ。沖縄住民は、本土決戦を前に、その捨て石となるべく、女・子供も含めて全員が戦闘員として駆りだされ島全体が戦場と化したのである。そして、この戦いで連合軍も多大な人的・物的損害を被ったのである。その影響もあってか、沖縄陥落後は、本土上陸とはならず、広島・長崎にあのおぞましい原爆が投下される結果となったのだ。そして、沖縄県糸満市、広島市、長崎市に平和を祈念するモニュメントが設置され、毎年戦没者の追悼と平和を祈念する式典が催されているのである。そのような歴史によるものかはわからないが、ウチナータイムなどに象徴される南の島の陽気で大雑把な沖縄県民性とは裏腹に、その深層心理には本土の犠牲になったという負の感情が根差しているのかも知れない。
鳥居を潜ると参道の階段の先に拝殿が見える。大海は、手水舎の説明書きを一見していつものように手と口を清めると、本土の神社と同じ要領で良さそうなので、拝殿の前に進み二礼二拍手一礼で参拝した。よく見ると拝殿の両脇にはシーサー風の狛犬が守りを固めていて、ようこそ沖縄へと出迎えてくれているようにも見える。何だか幸せな気持ちになった。そして、ここには洞穴の中に配された奥宮があるのだ。授与所で受付をして琉球の神の由来などが掲示された祈願控室で待つこと十分程度で巫女さんが洞穴へ案内してくれた。本殿を横に見て、約2万年前の琉球鹿、琉球昔キョン、イノシシなどの化石が展示された廊下を抜けるといよいよ洞穴が現れた。大海が鍾乳洞の中に設けられた拝所で拝礼すると、仄かにかぐわしく爽やかな香りが漂い、微かに波の音が聴こえて辺りが白く光ったような気がした。しかし、周りを見渡しても特に何の変化も見つけることはできなかった。
普天満宮を後にした大海は、もう少し先にあるスーパーマーケットで、今晩の食材と、キッチン用品、洗濯用品などの雑貨を買い揃え、それを両手いっぱいにぶら下げて、帰り道を急いだ。
何とかアパートに戻って、コーヒーを飲みながらホッと一息ついてスマホを開けると、1件のLINEメッセージが届いていた。妻の穂乃香からである。娘の那美が夏休みに入ったら、二人で遊びに来るとのこと。
それまでには住居を整えていなければと、大海は思い付いたことを一つ一つメモしてみた。
エアコンは予め部屋に設置されていたが、テレビが無いのでまだスマホとパソコンで世間の情報は入手している状態である。電子レンジと小型の冷蔵庫はあるが夏になり人数が増えると保冷需要が追い付かなくなりそうだし、洗濯機も揃えないとならないな。夏とはいえ布団も必要だし、カーテン、テーブルとイス、・・・。取り敢えず優先順位を付けて休暇の間に買い揃えることにした。
大海は疲れていたので、シャワーを浴びて、缶ビールを開けると、買ってきた総菜やサラダなどで軽い夕食を済ませ、早々に眠りについた。窓の外には丸い月が出て、どこかで三線の音色と愉快な猫の啼き声が響いていた。
四、龍宮の学び舎
長いようで短かった赴任休暇も終わり、いよいよ大学で教鞭を執る日がやって来た。いつもより少し早起きして朝食を済ませ、身支度を整えるとジープに乗り颯爽と大学に向かった。青空に米軍の飛行機が轟音と共に白い線を描き、大海の門出を祝ってくれているようにも見える。道はそれ程渋滞することもなく、30分程度で大学に着いた。
大海は事務棟で手続きを済ませると、学部長の所に挨拶に行った。
「歴史・民俗学の専攻過程を担当することになりました小出です。東京の国学院大学から赴任して参りました。どうぞ宜しくお願い致します。」
「小出先生、東京の大都会から南西の端にある沖縄の我が琉球大学への赴任ありがとうございます。人文社会学部を担当している学部長の真弓です。君の話は、農学部の山下先生からよく聞いていますよ。考古学専攻なのに、マングローブに興味を持たれているとか?」
「そうなんです。彼とはインドネシアでのマングローブ植林ボランティアで知り合い、それからマングローブに興味を持つようになり、彼とも親しくお付き合いさせていただいているんです。そうですか、大輔のやつ、宣伝してくれてたんですね。」
「農学部ではマングローブの研究を盛んにやっていますよ。山下先生にも聞かれていると思いますがね。」
「そうですか。実はマングローブの森が二酸化炭素を吸収して酸素を生み出す地球温暖化対策の救世主であると同時に、津波などへの減災効果があると知って、気候変動で温暖化が進んでいる本土の海岸にも植林できそうなので、そういう活動に繋げて行けたらなあと思っているんです。」
「それは良いアイデアですね。日本では沖縄や奄美辺りにしか生えないと思われているマングローブですが、実際には鹿児島辺りにも自生しつつあるようですよ。ぜひ農学部の皆さんも巻き込んで発信されたらいいかも知れませんね。」
「ありがとうございます。大輔ともまた、連携を取りながら進めたいと思っています。」
「それじゃあ、まずは、学長に紹介しますので、その後、助手の二階堂さんに構内を案内してもらいますね。」
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
そういう話の後、二人は学長室に向かった。
「学長、こちらは今度東京から赴任いただいて歴史・民俗学の専攻課程を担当いただく小出先生です。」
「小出です。東京の国学院大学で考古学の研究をしておりました。琉球の歴史とマングローブに興味があり、こちらに転籍の希望を出して受理いただき、本日赴任致しました。どうぞ、よろしくお願い致します。」
「小出さん、メンソーレ、ウチナー。ようこそいらっしゃいました。学長の玉城です。琉球はアジア太平洋地域の海上交通の要衝に位置し、古くから海洋貿易で栄えてきました。そんな琉球の歴史を学生諸君に伝えて、広く世界にも発信していただけると嬉しいですね。」
「ありがとうございます。私の持論で恐縮ですが、実は『琉球』とは竜宮城の在り処を指していて、通常は『りゅうぐう』と読みますが、龍の宮と書いて『龍宮』とも読めますよね。ですから、『琉球=龍宮』だと思っているんです。古代日本で海上交通を司った海神は、東シナ海を中心に活動していたはずです。そのホームグラウンドが沖縄だったので、浦島太郎の竜宮城伝説が生まれ、琉球と呼ばれるようになったのではないかと。まあ、私の仮説でまだ証明できたわけではないんですけどね。」
「面白いお話ですね。じゃあこれからは琉球大学ならぬ龍宮大学をキャッチフレーズに大学の広報にも一役買っていただけるとありがたいですよね、真弓先生。」
「そうですね。まだまだ、琉球の歴史は文献も少なく、未知の分野ですからね。面白いお話が聞けそうで、楽しみです。」
「お二人ともそう言っていただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。」
真弓と小出はそんな話をして、学長室を後にした。
「そうしたら、小出先生の所属される歴史人類学の稲垣研究室にご案内しますので、これからのことは稲垣教授と二階堂さんに相談していただけますか。」
「わかりました。真弓先生、お忙しい中、ほんとうにありがとうございました。」
真弓は、稲垣研究室の前まで案内してくれて、中を覗くと、若い女性と軽く話をして、自室に戻って行った。
「お世話になります。今度赴任して来ました小出です。ご厄介になります。よろしくお願いします。」
「小出先生、ようこそいらっしゃいました。私は助手の二階堂です。どうぞよろしくお願いします。稲垣先生は、今講義中なので、取り敢えず、私が構内を案内させていただきますね。」
「ありがとうございます。」
「小出先生はどちらからおいでになったんですか?」
「東京の国学院大学におりました。二階堂さんは地元の方ですか?」
「ええ、私は那覇市の出身なんですが、今は北谷町に住んでいます。」
「北谷町ですか。アメリカ西海岸を思わせるような素敵な街だと聞きましたが。」
「ええ、基地の人も多く住んでいて、観光客も多いので、国際色豊かで賑やかな街ですけど、住んでいるとそれ程でもないんですよ。小出先生はどちらにお住まいなんですか?」
「私は、隣町の宜野湾市にアパートを借りました。普天満宮と、それに米軍基地も近いですけどね。西海岸の浜辺のテラスで潮風に吹かれてジャズなんか聴きながら、クラフトビールを飲んでみたいですね。」
「先生独身なんですか?」
「いいえ、妻と子供がいるんですけどね。まだ、子供の学校の都合なんかもあるんで、私だけ先に来ているんです。」
「なーんだ、そうなんですね。じゃあ、今度奥様と子供さんがお見えになったら、ご案内しますよ。」
「ありがとうございます。二階堂さんもご結婚されているんですか?」
「いいえ、私はまだ一人の方が気楽なんで、仲間の人たちとスキューバダイビングなどに興じています。」
「そうなんだ。沖縄はきれいな海に囲まれているから、マリンスポーツの聖地ですよね。」
そんな他愛無い話をしながら、千原キャンパスと上原キャンパスの全容をキャンパスマップで一通り説明してもらった後、人文社会学部の他に、隣接する国際地域創造学部、教育学部、理学部、図書館、中央食堂売店などを見て廻り、再び研究室に戻ると、稲垣教授が講義を終えて戻っていた。
「稲垣先生、こちらが今日赴任された小出先生です。隣接する学部棟を一通りご案内して来ました。」
「東京から赴任して来ました小出です。まだ、沖縄の土地勘や大学内の作法などはあまりわかっていないので、ご迷惑をおかけすることが多々あるかと思いますが、一日も早く慣れて微力ながら稲垣先生のお役に立てればと思っておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。」
「小出先生は確か考古学が専門でしたよね。歴史・民俗学分野における言語や民俗や史料などを基にした総合的統計的手法で推論した仮説を、考古学的見地から実証して行っていただきたいのですよ。中国と盛んに交易していた中世以降の時代考証を裏付けるために首里城近辺の発掘はだいぶ進んでいるのですが、沖縄本島を始め周辺の島々には往古の時代を示すと思われるまだ多くの古代遺跡が手つかずで残っているんです。あなたには是非それらの遺跡が物語るアジア太平洋の古代人の足跡と営みを仮説と実証を交えて明らかにして行ってほしいんです。」
「はあ、わかりました。まだ、私も古代の日本や東アジア辺りまでしか把握できておりませんが、徐々に守備範囲を広げて行けるように頑張りたいと思います。」
大海は少し苦笑しながらも、稲垣の容赦ない要求に同意せざるを得なかった。
「稲垣先生、小出先生はまだ赴任されたばかりですから、そんなに難題を持ち出されると東京に帰ってしまわれるかも知れませんよ。」
「二階堂さん、お気遣いありがとうございます。でも私なら大丈夫です。」
「小出先生、私も遠慮しないほうなんで、気を悪くされたのならすみませんね。まあ、兎に角楽しくやりましょう。どうぞよろしく。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
それから三人はおもむろに昼食を摂るために食堂に移動した。食堂はカフェテリア方式になっており、思い思いにご飯と、主菜、副菜、汁物などを取ってトレーに載せ、空いているテーブルに持ってきて食べる。大海はチゲ風の少し辛めのタンメンを単品で注文して食べた。
「小出先生、無難なメニューにされたんですね。沖縄料理とかは苦手なんですか?」
トマト風パスタとコンソメスープを前にして、二階堂が微笑みながら聞いた。
「いいえ、そんなことはなくて偶々ですよ。そう言う二階堂さんも無難なメニューじゃないですか。でも、私は基本的に沖縄料理は何でも好きですよ。まだそんなに何でもトライした訳ではありませんけどね。テビチなんかでも大丈夫かな。」
「そうなんですね。じゃあ、私、美味しい沖縄料理のお店知ってるので、研究室に学生が入ってくる前に一度そこで歓迎会でもやりませんか?」
「そうじゃなあ。小出先生の歓迎会をやらんとなあ。ナミちゃん、週末辺りで予約頼むよ。」
稲垣も素麺チャンプルーを食べながら付け加えた。
「わかりました。じゃあ、早速ですが、今度の金曜日18時くらいで予約しますけどいいですね。」
「ありがとうございます。僕は大丈夫です。じゃあ、美味しい沖縄料理を味わいながら、みんなでこれからの活動計画でも練りますか?」
そんな訳で、次の週末にささやかながら大海の歓迎会を催してもらうことになった。
大海は翌日10時から日本古代史概論の講義を受け持つので、その資料準備と教室や備品などの確認を済ませて早めに帰宅した。
「皆さんこんにちは。今年度は12回に亘って『日本古代史概論』を開講します。講師は東京から赴任したばかりでほやほやの私、小出が担当します。どうぞ、よろしく。」
「皆さんは古代史と言うといつぐらいからをイメージしますか? 奈良時代? 飛鳥時代? 通常は古事記や日本書紀などの史書としての資料が記され、大和朝廷が発足してほぼ国家として統一された奈良時代くらいからを対象としますが、僕の視点は少し違って、クニと呼ばれる環濠遺跡などで守備を固めながらその中に住居や稲作などの共同体を形作るようになった弥生時代からを対象とします。何故そんなに遡るかって?それはね、古事記や日本書紀:この二つを合わせて『記紀』と言いますが、この記紀には実は弥生時代のことから記述されているんです。この二つの文献と東アジア周辺諸国の文献を注意深く照らし合わせながら解読すると、神話に紛れて弥生時代のことが見えてくるんですよ。そうすると、今まで謎だった邪馬台国や大和朝廷の成り立ちが見えてきて、古代史が実に興味深くなること請け合いです。」
「では、第一回は、まず、大和朝廷成立の礎となる聖徳太子が活躍した飛鳥時代からを題材に導入編とします。・・・」
大海は第一回目の講義をこのような形でスタートした。中には遡る時代も単位取得試験の対象になるのかといった質問をする学生もいたが、大海は「それは興味の問題なので選択式にするので大丈夫だ」と答えた。受講する学生も40名程度集まり、概ね好評のようだった。
こうして大海の助教としての生活が始まり一週間が過ぎた金曜日の夜、歓迎会が催された。
大学から程近い沖縄料理の店には『ナンクルナイサー』という看板が掛かっている。三人は暖簾を潜り予約席に座ると、大海にアルコールが大丈夫なことを確認して二階堂がメニューを見ながら早速注文した。
「オリオンの生三つと、ミミガー、テビチ、ゴーヤチャンプルー、それに、グルクンの唐揚げ、取り敢えず、そのくらいで。」
「二階堂さんの行きつけなんですね。お名前は『ナミ』さんで良かったんでしたっけ?」
「ええ、ちょっと恥ずかしいんですけど、南に美しいと書いて『南美』と言います。『ナミ』って呼んでもらえばいいですよ。」
「そうなんだ。南国的で素敵な名前じゃないですか。じゃあ、南美さん、実は僕の娘も那覇の『那』に美しいと書いて『那美』って言うんですよ。なんか親しみを感じますね。」
「そうか、じゃあ、今日は酒を『なみなみ』に注いでとことん飲むか。なんちゃって。」
「稲垣先生、相変わらず絶好調じゃないですか。」
そんな話をしていると、店員が注文したビールを持ってきたので、みんなで乾杯した。
「じゃあ、今日は小出先生の着任のお祝いと、研究室のみんなの健康と益々の発展を祈って乾杯じゃ。乾杯!」
そうこうしているうちに料理も運ばれてきた。
料理を味わって酒が進む。南美はジョッキを空けると、今度は泡盛の水割りを注文しようと、大海と稲垣に追加注文はないかと確認した。
「ここの泡盛は古酒でなかなか行けるんですよ。いかがですか?」
まだ、ジョッキにはビールが多少残っていたが、二人とも、もう一杯飲みたくなって、南美の誘いに便乗した。
「薩摩焼酎の原料は薩摩芋だけど、泡盛の原料って何を使っているか知ってますか?」
大海が稲垣に聞いた。
「泡盛は歴史が古くてね。今では『タイ米』が使われているそうじゃが、昔は島で採れる米以外に粟も原料にしていたようじゃ。現在、沖縄の稲作跡が確認できているのはグスク時代(10世紀以降)辺りからなんじゃが、その前には畑作で粟などの雑穀を栽培していたのかも知れん。その昔、本土との間に『貝の道』と呼ばれる交易が行われてイモガイやヤコウガイなんかが弥生式土器などと交換する形で取引されていたらしいんじゃ。そうすると、貝類や魚でたんぱく源は補給できるが、それに合わせて炭水化物なんかも補充せんといかんわな。島はそれほど広くないから自生する木の実や穀類も多くないし、農耕でもして作物を育てないといかんじゃろ。交換で得た土器を使って穀類なんかも煮炊きして食べていたとすれば、焼畑などの畑作も行われていた可能性は高いと思わんか。」
「そうですね。畑作をやっていたのかも知れませんね。そうだ、だから『粟』を使って酒も造ったんで『粟盛』っていうんじゃないですかね?」
大海がそう言うと、南美がさらに次のように付け加えた。
「そうそう、泡盛という名前の由来には『泡』の立ち具合でアルコールの度数を測るからという説と、原料に『粟』を使っていたからという二つの説があるって聞いたことがあるわ。それって、粟を使って古代琉球で独自にお酒を蒸留するようになったってことじゃないんですか?なんか凄くないですか?」
「そうなんじゃよ。穀物で酒を造るには、麹菌で糖化する必要があるんじゃが、泡盛の特徴は『黒麹』を使うという点にある。本土の酒造りの場合、日本酒では『黄麹』なんじゃが、沖縄のように温暖で湿気があると、黄麹では雑菌が混じって良い酒が造れないらしい。ところが、黒麹だと雑菌を寄せ付けない酸を出すと同時に奥深い風味が加味されて良い泡盛が作れるらしいんじゃ。黒麹は後に本土にも伝わり、焼酎造りにも使われるようになったそうじゃ。そして、アジアでも黒麹を使う酒は他に無くて、どうも琉球泡盛が発祥みたいなんじゃよ。」
「『粟』で思い出したけど、本島の西に『粟国島』って言う島もありますよね。」
研究室の事業計画はさておいて、今宵の宴会はこのようにして泡盛談義に花が咲き、夜が更けるとともに幕を閉じた。
ある時、大海が古代史概論の講義をしていると、受講生の橘八羽重がこんな質問をした。
「先生、倭国大乱があったことが、記紀にも載っているって何でわかるんですか?」
「中国の後漢書東夷伝には『桓帝・霊帝の治世の間(西暦146年~189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。』と記されている。一方、記紀には、伊邪那岐神と伊邪那美神の国生みの神話の後、伊邪那美神が火之迦具土神を産んで火傷を負い亡くなるんだが、伊邪那岐神は亡くなった伊邪那美神にもう一度会いたくて黄泉国に行き、そこで雷神となった伊邪那美神を始めとする八柱の雷神に追われ、命辛々逃れて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊をするんだ。これは、倭国大乱を伊邪那岐神率いる高天原軍と、雷神率いる葦原中国軍の戦いと仮定すると、年代的にも、卑弥呼の女王即位の経緯とも辻褄が合うんだよ。卑弥呼が亡くなったのは西暦248年頃とされている。そこで、伊邪那岐神という王の庇護のもと13歳くらいで立太子を済ませたのが189年頃とすると、それにより争いが収まり、卑弥呼が亡くなったのが72歳くらいとなり妥当な年齢と思われる。卑弥呼は日の巫女と捉えることができ、これはつまり天照大御神と同じ太陽神と考えられるので、世の中でよく言われている卑弥呼と天照大御神の同一人物説とも合致するんだ。また、伊邪那美神が火傷を負って亡くなったという記述を、大乱勃発が原因で伊邪那岐神と別れて雷神側に付いたということを意味する比喩表現とすればこれも辻褄が合うんだよ。そして、魏志倭人伝では、卑弥呼には弟が居たとされているが、天照大御神にも須佐之男命という弟が居たんだ。」
「なるほど、先生のおっしゃる説も一理ありそうですね。でも、なぜ、伊邪那美神は雷神側に付いたのでしょう?私が伊邪那美神の立場だったら、雷神たちが悪い人たちなら、敢えて伊邪那岐神を裏切ってまで離反しないはずです。」
「君もそう思うかい。僕だって、その意見には賛成だな。勝てば官軍って言葉があるだろう。つまり、歴史っていうのは、常に勝者の側で作られるってことさ。だから、歴史の真実は往々にして隠されているものなんだ。争いの背景には、いずれにもその時点での多少の正義があるものさ。でも、その先の将来も踏まえて、どちらが正しかったかは、新しい時代が来て初めてわかるものじゃないかな。だから、歴史を振り返る時は、表面に現れている勝者の歴史と共に隠された敗者の歴史にも光を当ててみる必要があると思っているんだ。」
「先生ってフェミニストなんですね。でも、生存競争ってきれいごとだけじゃ済まされないでしょ。人類の歴史も結局は弱肉強食の闘争の歴史じゃないんですか?」
「僕はそうは思わない。過去の人類の歴史は確かに争いに満ちていたけれど、争いと直接関係しない愛に満ちた芸術や宗教や福祉の場をも生み出して来たじゃないか。そして、現代においては、一部の非民主的な国家を除いて、強者弱者に関わらず誰もが自由で人権を尊重されるべき存在であるという共通の価値観が共有されているじゃないか。」
「先生は全ての人に平等に光を当てようとされているのね。何かゴールが見えて来たような気がするわ。先生の遠くて長い旅ももうすぐ終わるのね。」
橘のひめゆりのような白いブラウスの胸元でエメラルドグリーンに輝くペンダントが少し揺れ、仄かにかぐわしく爽やかな香りがした。
五、南十字星は語る
本土では見ることのできない南十字星(正確には十字を示す4つの星と少し暗い右下の1つの星からなる『みなみじゅうじ座』という名の星座)が、ここ沖縄に居ると1月から6月くらいの限定された期間ではあるが観ることができる。この星は、昔の大航海時代には南方を示す船乗りの羅針盤とされ、夜空に煌めく『十字架』なのだ。
八重山地方では『はいむるぶし』とも呼ばれるこの星を観るには八重山諸島などのできるだけ南の島のほうがいいらしいが、離島に出かけるのはもう少し落ち着いてからにしようと考え、取り敢えず大海は、大輔が話していた本島南部の久高島に行ってみることを思い立った。太平洋に面したその島は、沖縄の祖霊神であるアマミキヨが降臨した場所とされている。そして、久高島へのフェリーが発着する南城市の安座真港のすぐ南にはアマミキヨが本島に上陸して祈祷したであろうと窺える世界遺産にも登録された最も神聖な斎場御嶽が広がっている。そこから、知念岬を過ぎて海岸沿いにさらに南下して本島南端の摩文仁の丘に辿り着くとあの沖縄戦最終激戦地を今に伝えているひめゆりの塔と平和祈念公園があるのだ。
これらのモニュメントを擁する糸満市にはその地名の由来を表す多くの昔話が残されている。
『糸満の漁夫はサバニ(丸太舟)に乗って、太平洋はおろか、インド洋、地中海にまで出かけた。 ナポレオンがエジプト遠征した際、地中海を走る小さなサバニを見て、「あれは何か?」と質問した。 調べたところ、糸満の漁夫だった。 そこで部下は「あれはイーストマン(東洋人)でございます」と答え、それがなまって「イトマン」になった。』
また、『昔、難破した英国船の漂流民がこの地に住み着いた。それが8人の男だったから、「エイトマン」と呼ばれ、そのうちに変化して行き、現在の「イトマン」になった。』
また、『白銀堂御嶽前に勢理井戸という古い井戸があり、井戸を掘った際に大きなカニが糸と繭をくわえて出てきたのでイトマンとなった。』など、その他にも多数の伝承が語り継がれているようなのである。
そのような話を聞くと、糸満市には重要な歴史が隠されているような気がした。父親の光一が以前に話していた言葉が思い出された。「歴史の真実は通常は隠されていて、それは神話や昔話というカプセルに詰められて今に語り継がれているものなのだ。」と。
大海は摩文仁の丘で南十字星を観たいという衝動に駆られ、明くる日、本島南部を巡って南十字星を一緒に観ないかと、南美を誘ってみた。
「南美さん、今度の土曜日に僕に付き合って貰えませんか?」
「ええ?どんなことでしょう?一応、土曜日なら時間は取れるけど。」
「実は、摩文仁の丘で南十字星を観たいんですよ。一緒にどうかなって思って。」
「それって、デートのお誘いですか?那美ちゃんと奥様に怒られちゃいますよ。それに、少し不謹慎じゃないかな。」
南美は苦笑しながら、半信半疑で答えた。
「いやあ、そう言うつもりじゃないけど。僕はまだ南十字星を観たことが無いので、単純に一度観たいと思っただけなんですけどね。南美さんなら現地に詳しいし、夜間に一人で摩文仁の丘に佇むのもちょっとね。」
「結構怖がりだったりして。でも、小出先生の頼みなら、一日くらい付き合ってあげてもいいですけど。戦争で亡くなった沢山の戦没者の慰霊碑が並ぶ摩文仁の丘で星空散歩はちょっと不謹慎じゃないかと思いますよ。」
「そうですね。僕の考えが浅はかでしたね。すみません。でも、当然戦没者の慰霊碑に手を合わせてご冥福を祈ることも考えていますよ。」
大海は、失言を悔いながらも南美が同意してくれたことに感謝して、満面の笑みを浮かべながら土曜日の段取りを話し合った。
土曜日は、8時に家を出ると、ジープで南美の家まで迎えに行き、沖縄自動車道を南に向かった。西原JCTで降りると、そこから安座真港まで行き、車は駐車場に停めて高速船で久高島に向かう。
久高島に着いたのは10時頃だった。二人は、周囲8km程度の細長い島を着いた徳仁港からその向こう端のハビャーン(カベール岬)まで亜熱帯植物や青く澄んだ海を観ながら白砂の道をレンタサイクルでゆっくり進む。ここは、創世神のアマミキヨが降臨した聖地と伝わる。途中に五穀の種子の入った壺が漂着したという五穀発祥伝説のイシキ浜を過ぎ、30分程度で辿り着いた。帰りはロマンスロードと呼ばれる反対側の道を通って再び港に戻る。
「徳仁港って、天皇陛下のお名前と一緒なんですね。」
南美がそう言うと、大海もアマミキヨが天孫族とのつながりがあるに違いないと確信した。
フェリーで本島に戻ると、12時を回っていた。港の傍のカレー屋さんで昼食を摂る。本格的なバターチキンカレーとナン、それにマンゴーラッシーでお腹を満たすと、しばらく休憩を挟んで斎場御嶽を巡り参拝する。
御嶽の中には六つのイビ(神域)があり、その中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里城内にある部屋と同じ名前であり、当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示しているらしい。二人は拝所に据えられた四角い石の香炉に線香を焚くと静かにお祈りした。
それから、二人は車に乗り海岸沿いをドライブしながら摩文仁の丘に向かう。
「摩文仁って、近くに摩文仁家の墓もあるけど、その名前に由来するんだろうか?」
大海が停車して地図を眺めながら聞くと、南美が教えてくれた。
「琉球王朝の尚氏の系統の方のお墓らしいんだけど、その名に因んで付けられたかどうかは知らないわ。でも、天孫氏とされるからやっぱり天孫族の系統よね。」
「そういえば摩文仁の摩を取ると、『文仁』って秋篠宮親王のお名前だよね。」
二人は、いよいよ沖縄が大和の国と切っても切り離せない関係なんだと納得せざるを得なかった。
沖縄平和祈念公園はこの摩文仁の丘に位置し、そこには、戦没者の遺骨が納められた国立沖縄戦没者墓苑、悲惨さを極めた沖縄戦の実相及び教訓を後世に正しく継承することと平和創造のための学習と研究及び教育の拠点として建てられた沖縄県平和祈念資料館、世界の人種・国家及び思想や宗教のすべてを超越した「世界平和のメッカ」として建立された沖縄平和祈念堂、軍民問わず全ての戦没者の氏名が屏風型に刻まれた刻銘碑と平和の火が燃えている平和の広場などのある平和の礎、各都道府県や韓国などの出身戦没者(一部は摩文仁の丘以外にある)の慰霊塔群、そして、毎年戦没者追悼式が行われる式典広場とその先に建つガマ(戦闘避難場所として使用された洞窟)をイメージした平和の丘などがある。
平和祈念公園の駐車場に車を停めると、二人は戦没者墓苑と平和の礎で黙祷を捧げ、平和の火の向こうに遥か世界に通じる海を眺め、平和の尊さを実感した。
次に向かったひめゆりの塔は、沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立てられており、この慰霊碑の名称は、戦争当時に第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいる。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになったそうである。そして、職員を含むひめゆり学徒隊240名中、136名が亡くなった。それ以外にも戦闘のさなか学校に駆けつけることができなかった生徒が91名戦死している。また、当時沖縄には21校の中等学校があったが、それら全てから男女とも学徒動員され、学徒だけでも2,000名余りが戦場で亡くなったようである。ひめゆりの塔の外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がある。
二人は、慰霊碑に手を合わせた後、資料館を見学した。そして、手記などを読んでは、居たたまれない気持ちになった。
「先生、私たちのために命を落としていった先人の方々や、神聖な琉球の神に祈った後に、ロマンチックに夜景なんかを眺めるつもり?」
「僕はそんなつもりじゃなくて、夜空に輝く十字架に、これまで犠牲になった尊い先人たちのために祈りたいんだ。南十字星は、キリストが背負った十字架と同じなんだよ。沖縄戦で亡くなった20万以上の民間人・軍人、そして、広島・長崎に投下された核爆弾による二十万を超える被災者は、僕らのために十字架を背負って犠牲になったんだよ。だから、僕らは彼らの死を無駄にしちゃいけない。」
二人は、喜屋武岬から程近い沖縄家庭料理の店で夕食を済ませ、喜屋武岬へ移動した。車を降りて平和の塔を横に、視界いっぱいに広がる空と海を眺めた。日暮れの遅い沖縄ももう辺りはすっかり暗くなり、星空が見えた。5月のこの季節では南十字星が見え始めるのは、夜9時頃からである。しばらく、スマホで夏の夜空のアプリで予習をしながら時折空を眺めていると、南の空にケンタウルス座の柄杓部分が見つかった。そこから下に視線を下ろしていくと南十字座が見えてくるはずだ。
「先生、柄杓が見えたよ。えーと、その下に南十字星・・・あった、あったよ、先生!」
二人は夜空に煌めく南十字星を仰ぎ見て、静かに黙とうをした。
大海の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「南美さん、済まない。わがまま言って付き合ってもらって。」
「いいえ、いいのよ。先生の気持ちがわかるような気がする。先生だって、大きな十字架背負ってるんですものね。」
「そんなことないさ。やっぱり平和が一番だよ。」
二人は、車に戻って温くなった缶コーヒーを飲んだ。
「先生いいのよ。」
南美は、大海の目をそっと見つめている。
「南美さん、ありがとう。大丈夫だよ。君を傷つけるわけにはいかない。それに、家族も。でも、本当は自分が傷つくのが怖いのかも知れない。今日は本当にありがとう。さあ、帰ろうか。」
二人は、星降る丘に車を走らせ家路に就いた。
六、アマミキヨの詩
大海は大学での生活にも慣れて、講義を行わない時は、自らの研究の一環として、日本や中国、朝鮮半島など東アジアの古代史と照らし合わせながら、沖縄の歴史について調査・研究を行い、琉球の古代史を紐解く日々を送っていた。
琉球の歴史を知る上で欠かせない文献と言えば、『琉球国由来記』と『おもろさうし』である。前者には、琉球王朝の諸事習わしと、同時代に集められた琉球各地の由来伝承などが記されている。後者には、琉球王朝の万葉集とも言うべき全二十二巻一二四八首にも及ぶ歌謡集が収められている。
「琉球国由来記」の冒頭には、正月の公事として、次のように記されている。
『舜天王。乾道二年丙戌降誕。淳熙十四年丁未、即位 シタマフナリ。夏正ヲ用ヒ、寅ノ月ヲ歳首トスル事、此御宇ヨリ累世相続来歟。粤ニヲイテ、古事ヲ考、左ニ記ス。「通典曰、漢高祖十月二秦ヲ定ム。遂二歳首トス。七年長楽宮成ル。ョッテ群臣朝賀ノ儀ヲ制ス。武帝改テ夏正ヲ用ヒ、寅ノ月ヲ以歳首卜ス。サレ共元日ノ慶賀バ、モ卜漢高祖ヨリハジマル。」中華事始ニ見ヘタリ。』
舜天王とは、初代琉球国王とされているが、実は史記の夏本紀に登場する五帝の一人とされる「帝舜」に准えていると捉えると、「夏正ヲ用ヒ、寅ノ月ヲ歳首トスル事」という記述が、中国の伝説の夏王朝の帝禹(帝舜を助け黄河治水事業を成功させ夏王朝を宣言した帝禹)が即位して、夏王朝を正式に宣言し、三皇本紀の天皇氏が太歳の寅の年を紀元としたという記述と相通ずる。
また、巻八の『那覇由来記』には、以下のように琉球の由来として龍宮とある。
「やはりそうだ。琉球は龍の宮なのだ。」
『琉球神道記曰く。「国土ヲ視ニ、不寒不熱ニシテ、・・・爾バ琉球ノ二字、恐ハ龍宮ノ韻也。・・・」曰ニヤ』
さらに、巻三の『田・陸田』の項には、次のように記されており、アマミキヨ(アマミク)がニライ・カナイ(ギライ・カナイ)より稲種を持ってきて植えたのが始まりとある。しかし、倭国は天照大御神が粟・稗・麦・豆を陸田の種子としたとも記されており、記紀(古事記と日本書紀)の五穀の起源と多少矛盾するが、やはり五穀の起源に天照大御神が関与しているのである。
『当国、田・陸田、昔阿摩美久、ギライ・カナイ ヨリ稲種子持来、知念大川・玉城親田・高マシノマシ カマノ田二、稲植始也。此田之始也。其制未備、景定年間、英祖王、自四方巡狩、効周徹法・而正経界、均井地。五毅豊饒、而万民安寧也。中華ハ、「詩疏云。易繋辞二、神農始テ耜ヲ作トアレバ、即、田ハ神農ヨリ起ル。通典云。始テ歩ヲ立、畝ヲ制ス。然レバ、田ヲ畝ヲ以斗ル事ハ、軒轅ヨリオコル。」倭国ハ、「天照大神、稲種ヲ天狭田及長田二植給ヲ、孝徳天皇二年二、凡田ハ、長サ三十歩、広十二歩ヲ段トシ、十段ヲ町ト定ム。日本紀。天照大神、粟・稗・麦・豆ヲ以、陸田種子トス。是陸田ノ始也。」』
大海は、稲垣と南美に催してもらった飲み会での話をふと思い出した。
「泡盛は昔は『粟』を原料としていた。そして、沖縄には『粟』の付く地名として『粟国島』がある。そして、先日南美と出かけた久高島のイシキ浜には、五穀の種子の入った壺が漂着したという五穀発祥伝説があるという。」
彼は、インターネットで『粟』と『シルクロード』という単語のAND検索を行ってみた。すると、『シルクロードのソグド錦』というワードが飛び込んできた。昔中央アジアに住んでいたソグド人はシルクロードを通って中国の絹をローマ帝国などへ売りさばく貿易商人だったらしい。そして、中国の文献ではソグド国を『粟特国』と記していたようだ。
「本土でも四国の徳島は昔、『阿波国』と呼ばれていた。そして、『阿波国』=『粟国』とすれば徳島と沖縄は何か関係があるのだろうか?」
大海は、父親の光一にLINEで阿波国についての情報を確認した。
すると、古事記には四国が『伊豫の二名島』と記されており、阿波国には『大宜津比賣神』というもう一つの名前があることがわかった。
つまり、徳島は『大宜津比賣神』という異名を持っているというのだ。
そして、古事記の神話では須佐之男命に斬り殺され、その亡骸からは『蚕』と共に、五穀の起源と言われる『稲』『粟』『小豆』『麦』『大豆』が生まれるというのだ。
これは、久高島のイシキ浜に伝わる五穀発祥伝説にも通じるではないか。
そして、琉球国由来記に記されているアマミキヨが根付かせた『稲』と天照大御神が根付かせた『粟』『稗』『麦』『豆』を総合すると、『稗』『小豆』『大豆』などの多少の違いはあるものの沖縄と本土でも概ね五穀の発祥伝説が繋がって来るのである。
そう言えば大宜津比賣神の『宜』という漢字が付く地名が沖縄に多数あるのだ。自分が住んでいる『宜野湾』を始め、『宜野座』、『大宜味村』など、少し考えるだけで、実に多いことがわかる。
「もしかすると、琉球の祖霊神とされる『アマミキヨ』とは『大宜津比賣神』のことではないだろうか? そして、『大宜津比賣神』と『天照大御神』とは同一神と言えないだろうか? 『大宜津比賣神』が斬り殺されるとは『天照大御神』の崩御を意味していないだろうか?」
大海は、以前に父親の光一から『卑弥呼』=『天照大御神』だという説を聞かされていた。そして、『卑弥呼』は魏志倭人伝によると狗奴国との戦闘で亡くなり、その後国内が乱れて『台与』がその後を継ぐことで収まると記されている。光一は一度隠れて再び現れる『天照大御神』の天岩戸伝説が『卑弥呼』の死と『台与』の継承を意味していると言っていた。
大海は、古事記の国生みの段をもう一度丁寧に読み返してみた。すると、最初に生んだのが『水蛭子』で、次に『淡島』とある。水蛭子はヒルギに象徴される沖縄・奄美地方ではないか。ワダツミの木の歌は奄美の民謡に由来しているとすると、水蛭子=奄美となり、淡島=粟島とすれば、粟国島が教えるとおり、淡島=沖縄ということになる。そして、前述の二つは子としなかったとあるので、倭国の範囲で無かったことがわかる。淡=粟とすれば、淡路=粟の道となる。したがって、次に生まれた『淡道の穂の狭別島』とは、種子島辺りではないだろうか。宮崎の西都市辺りは古事記の記述から狭穂と呼ばれていたことが窺われる。つまり、シルクロード海の道を成す中国福建省辺りから台湾を経て八重山諸島、琉球、奄美と続き、南九州の宮崎(邪馬台国)と鹿児島(投馬国)への分岐点が種子島辺りであったと考えられないだろうか。種子島の浦田神社の縁起によれば、往古伊邪那岐命は、竜城より五穀の種子を求めて当国に渡り農耕の道を定めたので、種子島と名付けられたとされている。やはり、倭国の頃から海の道があったのだ。
そして、倭国が拡大し近畿地方を拠点に全国を平定するに連れて、粟の道は現在の淡路島を介して関西方面へ延伸し、阿波国は関東方面に分岐して安房国となって行ったと考えられないだろうか?
つまり、五穀の発祥と粟の道を大宜津比賣神=天照大御神=アマミキヨ=卑弥呼という最も尊い天孫族の神名に准えて象徴的に表現したのである。
七、遺跡とヒルギの島
大海が引っ越してきてから3カ月余りが過ぎた頃、穂乃香と那美が東京から遊びに来た。大海はお気に入りのジープで那覇空港に迎えに行った。
二人とも初めての沖縄旅行ということもあり大海のことなどお構いなしで、車窓から見える青く澄み切った海の眺めに大はしゃぎである。
アパートに向かう途中で車を駐車場に預けると、早速国際通りでウインドウショッピングを楽しんでいる。やれやれと思いながら、大海はしばらくそれに付き合って、何とか二人をアパートに連れて行った。
「この時期は台風が心配だったけど何とか逸れてくれたから、明日は大輔と、同じ研究室の二階堂さんを誘って、西海岸をドライブしようと思っているけどいいかな。」
「大輔さんってあなたの友人で大学の同僚の山下さんよね? いいけど、西海岸ってどこに行くの?」
「そうだよ、あの山下だよ。北谷町っていうアメリカの西海岸みたいな所を通って、美ら海水族館辺りに行こうかと思っているけど。宿も取ったから次の日はマングローブの海をカヌーで散策ってのはどうだ。」
「私、美ら海水族館行きたい。大きなジンベエザメがいるんでしょ。見てみたい!」
那美が嬉しそうに言った。
「そうだな。父さんもまだ行ったことないけど、楽しそうだろ。マングローブの海だって父さんが以前にボランティアに行ったことがあるって言ってた浜辺のゆりかごさ。カヌーで散策すると色んな生物がいて楽しいぞ。」
南美が北谷町を案内すると言ってくれていたが、大海は自分たち家族のためにわざわざ休日返上で付き合ってもらうのも気が引けたし、独身の大輔にも彼女を紹介して二人が意気投合すればいいなと思ったので、大輔も誘って泊まり掛けでレジャーを楽しむつもりでいたのだ。
明くる日の朝、大海のアパートに大輔がやって来ると、大輔の車と大海の車の2台で北谷町の南美の家に向かった。大海は南美の家でみんなを紹介し、少し打ち解けてから南美を大輔のRV車に誘うと、ひとしきり街中を散策して美ら海水族館に向かう。沖縄自動車道を使うことで、北谷町から2時間弱で水族館に到着することができた。
ジンベエザメの大きなモニュメントを過ぎて海人門を通ると、そろそろお昼時だったので、まずは4Fのレストランに入ってみんなで昼食を摂ることにした。エメラルドグリーンの本部の海が窓いっぱいに広がるオーシャンビューの席に座ると自ずと会話が弾む。
「那美、ジンベエザメは2Fの大水槽で見られるようだよ。でも、順路は3Fから順番に下に降りて行くようになってるから少しお預けだね。」
大海がパンフレットを見ながら那美に声を掛けた。
「そうなんだ、早く見たいのに。」
「那美ちゃん、ジンベエザメの水槽にはマンタって言う大きなエイもいるのよ。」
南美が続けた。
「そういえば、那美、お姉さんも同じ南美って言うんだよ。」
大海がそう言うと、穂乃香が少し茶化し気味に付け加えた。
「二階堂さんも『なみ』さんって言うんですね。なんか不思議なご縁かも。ねえ、チビなみちゃん。」
「チビなみちゃんは那覇の『那』に美しいって書くでしょ。でもね、ネエなみさんは、南十字星の『南』に美しいって書くんだってさ。どっちも美しいのに変わりはないけどね。」
大輔が笑いながら教えてくれた。
「大輔、女性の褒め方が上手になったなあ。それに、南美さんの名前までしっかり聞いてるんだ。やるじゃない。」
大海が少し茶化し気味に言った。
「馬鹿言え、俺は場を盛り上げようとしているだけだよ。」
「でも、大輔さんと、しっかりLINEの交換もしちゃいましたけどね。」
南美がダメ押しで白状した。
そんな会話をしながら、あぐー丼や沖縄ソバなどでお腹を満たすと、みんなで3Fに降りて入館した。
大海たち家族と大輔たち二人は入口で別れて、1Fの出口を出てブルーマンタというお土産ショップ横の休憩所で16時に落ち合うことにした。
「南美さんのダイビングスポットはどの辺ですか?」
「恩納村辺りが多いですかね。青の洞窟なんか神秘的で素敵ですよ。」
「僕もシュノーケリングくらいならやるんだけど、スキューバダイビングはまだやったことなくて。」
「大丈夫ですよ。じゃあ、今度シュノーケリングで一緒に潜りませんか?」
「本当ですか。うれしいなあ。」
大輔と南美は、そんな話をしながら結構楽しく見て廻った。
大海と穂乃香は、那美の後を付いて廻った。
穂乃香とゆっくり話しするのも久しぶりなので、夏休みが明けて那美の学期が変わるタイミングで引っ越すのがいいんじゃないかと言って手続きを進める段取りなども話し合った。
大海たちが一通り見て廻った後、休憩所でジェラートを食べながら休んでいると、大輔たちも程なく出て来たので、みんなは水族館を後にして、近くの予約しておいたリゾートホテルに向かった。
ホテルは青い空と海に映える白亜調の建物で、リゾート気分を満喫できる素敵な建物だった。大海は、大輔と南美を同じ部屋にしたほうがいいだろうかと思案してみたが、さすがに初対面で同じ部屋はまずかろうと、オーシャンツインを2部屋取って、大輔と大海が一方に、南美と穂乃香と那美がもう一方の部屋に泊まるようにと割り振ることにした。
「男組と女組に分かれて泊まることにしようと思うけどみんないいかな?」
大海がそれとなく聞くと、南美が気を遣って言った。
「大海さん、久しぶりだし家族一緒のほうがいいんじゃないですか? 私、大輔さんと一緒でも大丈夫ですよ。」
大輔が少し照れながらニヤついていると、それを打ち消すかのように那美が横やりを入れた。
「私、ネエなみさんと一緒のほうがいい。お父さん別の部屋にしてよ。」
大海は大輔の方をチラッと見て苦笑いすると、少し寂しそうに、まあ仕方ないかと最初の方針でチェックインすることにした。
夕飯はホテルのレストランでバーベキューをいただく。
「やっぱり、ジンベエザメは迫力あったな。」
「餌やりが楽しかったわ。一気に吸い込んじゃうんだもの。マンタも可愛かったし、それにサンゴ礁のクマノミもニモみたいで可愛かった。マナティも可愛かったけど、あれって人魚のモデルになったんでしょ。アリエルとは大違い、何かおじさんみたいだった。」
大海が口火を切ると、ディズニー通の那美が次から次に率直なコメントをくれた。
みんなが食べ終えた頃、翌日の段取りを意見交換する。
「明日は、この先の屋我地島と古宇利島に行ってみようと思うんだが、どうだろう?両方とも道路が橋で繋がっているから、楽に行けるんだ。」
「何があるの?」
今更ながら穂乃香が聞いてくる。
「古宇利島は恋の島って言われてて、砂浜の海岸にハート型の岩があるそうだ。それに、屋我地島や本島側にかけて縄文時代の遺跡も点在していて、アダムとイブみたいな伝説があるらしいよ。屋我地島の方は、前にも話したと思うけど、本島との間の羽地内海にマングローブの林が広がっているんだ。そこをカヤックで散策したいと思っているんだけど。」
「そうね。ハート型の岩をバックに写真撮りたいわね。」
大海は穂乃香がそれなりに賛同してくれてほっとした。
「カヤックってカヌーみたいなお舟でしょ。漕いでみたいな。」
那美も興味を示してくれて一安心。
「でも、ここは大輔と南美さんのご意見をお聞きしなきゃ。」
「楽しそうですね。大輔さん、どうですか?」
「いやあ、南美さんと一緒なら楽しいに決まってるでしょ。」
「じゃあ、これで決まり。明日は7時半から朝食、9時チェックアウトでいいかな?」
みんなが頷くと、男組と女組に分かれて部屋に戻った。
ネットの情報によると、古宇利島の神話伝説とは次のようなものらしい。
昔、古宇利島に空から男女二人の子供が降ってきた。彼らは全くの裸であり毎日天から落ちる餅を食べて幸福に暮らしていた。最初はそれに疑問を抱かなかったがある日餅が降らなくなったらどうしようという疑念を起こし、毎日少しずつ食べ残すようになった。ところが二人が貯えを始めたときから餅は降らなくなった。二人は天の月に向かい声を嗄らして歌ったが餅が二度と降ってくることはなかった。そこで二人は浜で生活するようになり、魚や貝を捕って生活と労働の苦しみを知り、ジュゴンの交尾を見て男女の違いを意識し恥部をクバの葉で隠すようになった。この二人の子孫が増え琉球人の祖となった。
これは、まるで、旧約聖書創世記のアダムとイブであり、古事記の伊邪那岐命と伊邪那美命による創世神話ではないか。もしかして、琉球の伝説が旧約聖書と日本神話につながっているのではないかと思ってしまう。
筆者はまず旧約聖書の記述を基に想像を膨らませてみた。そうして得た推論は次のようなものである。
この世に初めて生を受け、アダムはエデンの園に住まう。命の木の実を好きに食べることで永遠に生き続ける。やがて、アダムは細胞分裂すると、自らのパートナーとしてイブが生まれ、陰陽の理に従い、2の2乗で増えていく。しかし、禁断の実とされていた知恵の木の実を食べると善悪を知り楽園を追われ、エデンの園の東には剣の柵が設けられ、命の木の実を食べることができなくなった。つまり、不老不死を手放した代わりに、自らの知能で考え行動する自由意志を持った人類が誕生したのである。人類は、追われて住み着いた茨の園でも、授かった知恵で降りかかる禍いを乗り越え、産めよ増やせよとその子孫は四方に移り住み、その命の営みは営々と続いて行く。しかし、知恵と自由意志を得て増えて行った人類は、時には悪しき考えに傾倒する者も現れ、互いに殺し合うようにもなった。神は怒って大水で世界を洗い流しリセットしようとする。即ち、ノアの方舟であり、これとよく似た伝説は世界中の至る所に伝承されている。ただし、善に至るためのメッセージと、よき模範となる人類と動植物だけは残そうと、来るべき禍いに備えるためのメッセージを発する。そして、禍いが過ぎ去った後、セーブされていた者たちは復活を果たすのである。このような試練は、人類誕生以来、地球規模にも及ぶ災害も含め幾度となく繰り返されてきたのかも知れない。
さらに筆者の妄想は古宇利島の伝説や日本神話とのつながりについて世界史や歴史地図なども駆使して次のようにアジア全土に広がって行く。それは想像の域を出るものではないが、必ずしも違和感のあるような仮説ではないと信じる。
さて、この試練を度々受けて来た肥沃な三日月地帯のいわゆる四大文明(文明のゆりかご)では、いち早く文明が開けた。その中でも、砂漠に囲まれたエジプトでは、戦禍を免れて平和な王朝時代が続き、文化や科学が発達する。それを受け継いだ古代イスラエルの民は、エジプトを脱出して東方に建国するが、再び異国の攻撃に追われて、さすらう遊牧の民としてさらに東方へと移り住んでいくのである。そして、枝分かれしながらもアイデンティティを保ったまま各部族は、メソポタミア、インダス、中国へと移り住み、文明の橋渡しをしながら、中国の西戎となる中央アジアを拠点にシルクロードを介して東西交流の担い手として交易に従事して行く。その間に彼らは拠点となる遊牧民族国家として、ソグディアナ(粟特国→粟国)、月氏国、バクトリア(大夏国・吐火羅国→トカラ)、パルティア(安息国・奄蔡国→奄美)、クシャーナ(貴霜国)、ヴァルダナ(天竺国)、西夏国などを建国したと窺われる。そして、中国最古とされる伝説の夏王朝は西戎とされた遊牧民『羌』族の流れを汲み、その血統は『姜』氏の太公望呂尚が創始した周王朝諸侯国の斉に受け継がれ、さらに斉を追われた王は東に海を渡り古朝鮮を建国し、遂に東の端の日本に到達したのである。その地名には、『粟』『奄』『宜(月・夏)』『トカラ』などの文字が刻まれている。
明くる日は、沖縄産の魚介類や野菜果物などをふんだんに使ったバイキングをいただき、早々にホテルを後にした。
本部半島から屋我地島を通って古宇利島に渡り、島を一巡りしてハート型の岩のあるティーヌ浜で思い思いに写真撮影をする。特に大輔と南美のツーショットは沢山撮ってやった。
海の家風のカフェで休憩を挟んで、今度は再び屋我地島に戻ってカヤック体験だ。水着に着替えてパーカーを羽織り、砂浜でカヤックのレクチャーを受ける。二人乗りのカヤックに大輔と南美が乗り、もう一方のカヤックに大海たち家族が三人で乗って漕ぎ出した。
マングローブの群生地に辿り着くと、カヤックを降りてみんなで散策する。水の中から生えたマングローブの木の根元には、大きな蟹や魚などがいて那美も大はしゃぎ。ひとしきりマングローブ林を楽しんだ後、再び砂浜に戻って、遅めの昼食を摂る。
こうやって自然に溶け込んで一日を過ごした後、帰宅の途に就いた。
八、マングローブの夢
穂乃香と那美は、一週間ほど滞在して、東京に戻った。大海は二人を空港に送って行くと、「今度は引っ越しだな。それまで体に気を付けてな。」と笑顔で見送った。
アパートに戻った大海は家族や大輔らと泊まったリゾートホテルでの大輔との会話を思い返してみた。
あの夜、大海はシャワーを浴びたらどうだと大輔に促したが、彼は南美にマングローブの種類と生態を教えてあげたいので先に入ってくれと言って、スマホの写真と資料を整理していた。
大海は、そう言われて、仕方なく先にシャワーを浴びることにした。
大海がシャワーを浴びていると、仄かにかぐわしく爽やかな香りがしたかと思うと、遠くで波の音が聞こえたような気がして、普天満宮の奥宮で経験したような不思議な感覚が蘇った。しかし、その時は一日中動き回って疲れたせいだろうとあまり気にも留めなかった。
大輔がシャワーを浴びて出てくるのを待って、大海は缶ビールでも一緒に飲もうと誘った。そして、以前に話していたマングローブを本土へ植林する件について相談してみた。
大輔は、寒さに強いメヒルギ(※)なら九州南部の群生地や伊豆半島南端の植林による定着の事例が報告されているようなので、宮崎や四国南端辺りまでは可能かも知れないとアドバイスしてくれた。
(※)沖縄から奄美にかけて自生する代表的なマングローブ種には、メヒルギの他にオヒルギ、ヤエヤマヒルギという種類がある。この中でもメヒルギが最も寒さに強く、薩摩半島の南さつま市や鹿児島市喜入生見町辺りに最北端の群生地があることが確認されている。また、静岡県賀茂郡南伊豆町の青野川にも植林により定着した例も報告されている。オヒルギの名は種子の形が大きいことにより、メヒルギは種子が小さいことに由来する。オヒルギは内陸部に育ち、この三種の中で最も背が高く、他の花が白いのに比して、赤く目立つ花が晩春から夏にかけて咲く。
しかし、大海にはもっと大きな夢があった。
「昔、大宜津比賣神は、琉球の五穀を本土に根付かせてくれたんだ。今度は、僕たちが琉球のマングローブを本土に根付かせてみないか?」
「大海の気持ちはわかるけど、さっき言ったとおり、冬場の気温が下がり過ぎる所には無理だと思うんだ。」
「でも、近年は温暖化の影響もあって日本海側や東北以北は別として冬場も温かくなってきているだろう。それに、もっと寒さに強いメヒルギの品種を君の研究室で開発できないだろうか?」
「そうか、マングローブの品種改良をするってことか。沖縄の大学らしい面白いアイデアだね。君の言う通り、マングローブの森林が本土に広がっていたら、奈美恵だってあんなことにはならなかったかも知れない。そうか、どうして僕は今まで気づかなかったんだろう。早速、持ち帰って検討してみるよ。」
「ありがとう。日本列島の太平洋岸で発生が予測されている津波被害を少しでも軽減できるとすれば、本土でのマングローブ植林活動も意義があると思っているんだ。そうすれば日本と同様に地震が多くて高緯度のチリやニュージーランドなどの国々にも移植できるかも知れない。それに何より地球温暖化防止の救世主となるんだよ。よろしく頼む。」
二人はそんな話をした後、間もなく床に就いたのだった。
それからしばらくして、良い天気に恵まれたので、大海はもう一度ヒルギ林をつぶさに観察しようと思った。それに、本島北部のやんばる(山原)地域に生息するというヤンバルクイナも観たかったので、東村の東村ふれあいヒルギ公園と、北部の国頭村にある安田くいなふれあい公園を巡るドライブに出かけた。
東村の慶佐次川の河口から湾一帯には、10haにも及ぶオヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギの混生する森林が広がっている。そして、この森の中を歩いて散策できるように木製の遊歩道が整備されている。
大海は往復600mほどの遊歩道を各ヒルギ種の生育状況やそこに生息する生物などを観察しながら歩いた。
そして、安田くいなふれあい公園には、天然記念物のやんばる固有種であるヤンバルクイナが飼育されている。クイナの森と呼ばれる飼育施設には、黒っぽい体に赤い嘴と足のコントラストがお洒落なヤンバルクイナが、ここでは人に慣れていて愛嬌を振りまいてくれるのである。
ヤンバルクイナは森の中をキョキョキョと鳴いてヒョコヒョコと歩く愛らしい鳥であるが、羽が短くほとんど飛べないので、沖縄に生息するハブの天敵として放されたマングースの餌食となって一時は激減したらしい。今ではマングースの捕獲作戦により多少戻っては来たらしいが、まだ個体数が少ないのが現状のようだ。
大海は、ふれあい公園で飼育されている鳥を見学させてもらったものの、自然の中でもこの鳥と出会えるかも知れないという微かな望みを抱いて、沢を伝って少し山歩きをしてみることにした。
大海は清流を浴びて苔むした岩肌を滑らないように一歩一歩足元を確かめながら、沢を上流へ上流へと昇って行った。しばらく進むと、辺りには靄が立ち込めて、目を凝らして岸辺を眺めると、木漏れ日に照らされ深緑の艶やかな葉の上に柔らかな白い花が咲き乱れ、仄かにかぐわしく爽やかな柑橘系の香りがしたかと思うと、淡い羽衣を纏った乙女が・・・。よく見ると乙女の顔はどこかで見たことがあるようにも思えた。しかし、それはいつの間にか幻のように消え去ってしまった。
野生のヤンバルクイナには出会えなかったが、幾度となく例の幻を体験し、大海は何か自分へのメッセージではないだろうかと思うようになった。そして、さっきの乙女が自分の講義に出席していた橘八羽重に似ていたことを改めて悟った。大海は気を取り直して再び駐車場に停めておいた車に戻り、帰途に就いた。
しかし、その後の講義で橘の姿を見ることは無かった。
大海は、マングローブのゆりかごに抱かれながら、乙女の発するかぐわしく爽やかな香りのメッセージに触発されて、さらに琉球の古代史を紐解く日々を送っていた。
以前に大宜津比賣神をキーワードに沖縄と徳島のつながりが見えて来たこともあり、今度は古宇利島に伝わる旧約聖書創世記のアダムとイブに似た伝承が鍵になるような気がして、ネットで『旧約聖書』と『徳島』というワードでAND検索を行ってみた。すると、『イスラエル大使も注目! 徳島・剣山に「ソロモンの秘宝」・・・』という記事がヒットした。さっそく内容を確認してみると、徳島県の剣山に古代イスラエルのソロモン王の秘宝が眠っているという言い伝えがあるらしい。これが本当なら古代イスラエル人が沖縄や徳島にやって来たということになる。
このいわゆる都市伝説の類と思える話の拠り所として、日本人とユダヤ人(イスラエル人)は共通の祖先をもつという「日ユ同祖論」というのがあって、イスラエル政府も注目しているようだ。大海は、以前に光一から日本のルーツは中国の周王朝の諸侯国だった『斉』で、そこから朝鮮半島を経由して来たらしいと聞いたことがある。そして、その時も海神が関与していたということだった。
大宜津比賣神が大国主命の娘で、大国主命が月読命とすれば大宜津比賣神は『大月姫』ではないだろうか?
すると、中央アジアにはソグド国以外になんと、『月氏国』、『大月氏国』などがあったのだ。月氏は『夏至』と読むと、『西夏国』や『大夏国』も見つかった。
さらに、中国最古の伝説の王朝は『夏』で、その遺跡とされる場所からは五穀の遺物も見つかっているのである。そして、これらは古代イスラエルと同様遊牧民族国家のようだ。
「おもろさうし(おもろ草紙)」は、沖縄最古の歌謡集で、発生起源は五~六世紀くらいまで遡るらしい。「オモロ」または「ウムイ」とは琉球方言圏の中の沖縄、奄美諸島に伝わる古い歌謡のことで、この おもろ草紙では、十二世紀頃から十七世紀初頭にわたって謡われた島々村々のウムイを採緑し、全二十二巻の歌謡集としてまとめられている。
一般的に、おもろ草紙は「沖縄の万薬集」であると言われているが、「万葉集」は純粋な歌集であるのに対して、おもろ草紙は琉球王朝や地方の伝承などを歌に込めた歌謡集である点で赴きを異にする。
蛇足であるが、首里城の近くにこの『おもろ』に由来すると思われる『おもろまち』という地名がある。粟の道が関西の方言に影響を与えたかどうかは不明であるが、これは本当に『おもろい』つながりなのである。
歌の中には、「ニルヤ・カナヤ(ニライ・カナイ)」という天国に近い意味を持つ言葉が含まれているが、補注に「ニルヤ・カナヤ=儀来・河内」とされており、前述の琉球国由来記にもある通り、儀来=ギライ=ニライとなるから、これは本土からの教宣儀式や交易などのために訪れていた神を意味しているとすると、その出港元は地理的条件から鹿児島や宮崎辺りと想定され、河内=カナイ=川内とすると、鹿児島県の薩摩川内市辺りから訪れていたのではないかと推定される。
以前に、光一が邪馬台国の場所を特定する上で、弥生時代の薩摩川内市は投馬国に比定しており、魏志倭人伝によるとその官の名は『弥弥』とされ、弥弥についても後の倭建命に比定していた。つまり、倭国が南九州に進出した時代から既に沖縄・奄美地方へも進出し、海神の拠点としていたことが窺われる。
そんな古代史を紐解く日々が続いていたある秋の日、穂乃香と那美が、東京の家を引き払って沖縄に引っ越してきた。大海が、空港に迎えに行くと、二人は少し疲れ気味の様子である。
「メンソーレ、ウチナー。やあ、お前たちも遂に沖縄人だな。どうしたの?なんか元気無さそうだけど。」
「昨日までの荷造りや家の片づけなんかで疲れてるのよ。お父さん手伝ってくれないんだから。」
「そうか、ゴメンゴメン。じゃあ、こっちじゃしばらくゆっくりするさ。」
「そうね。サービス頼むわよ。」
そんな会話をしながら、宜野湾市のアパートに二人を連れて帰った。
それからしばらくして、那美は新しい学校に通い始めた。最初は、少し言葉の壁があったようだが、次第に打ち解けて友達もできた。穂乃香も学校の父兄関係や近所で知り合いも増えて島の暮らしに馴染んでいった。
大輔は南美と籍を入れて、一緒に暮らし始めた。そして、大海たちとも家族同士での付き合いをする仲となっていた。
それから、一年が過ぎた春の日に、大輔から、第一子の女児誕生と、ヒルギの品種改良に関する情報がもたらされた。いずれも結果は上々とのことであった。新種のメヒルギは、耐寒性が従来品種より格段に高く、氷点下10℃くらいまで耐えられ、繁殖力と成長速度も強化されており、『ヤマトヒルギ1号』と名付けられた。大海は導かれるようにヤマトヒルギ1号の試験植林を計画して行った。まずは、鹿児島のメヒルギ自生地域と同緯度付近の宮崎県日南市辺りで試験栽培を行ってみることにした。宮崎県に趣旨と植林概要を説明し認可を得ると必要な苗木を調達した。
大海と大輔は、宮崎行きの飛行機に搭乗していた。
宮崎県日南市の広渡川河口一帯に従来品種と共に試験的に植林を行い、成長度合いを比較観察するためである。日南市は五月晴れの好天に恵まれ、募ったボランティアメンバーと共に二人は植林作業に汗を流した。
ヤマトヒルギ1号林は根を張り枝を伸ばして順調に生育し、翌年には白い花を咲かせた。
大海たちはこの苗を四国、近畿、東海、関東、東北へとボランティアネットワークを通じて着実に根付かせて行った。
まるで、ヤマトタケルの東征の旅で成した大いなる和のように。
そして、大和の未来には、タチバナの清く白い花、ヤマトヒルギ1号の逞しく白い花が咲き誇り、仄かにかぐわしく爽やかな香りを漂わせていることだろう。