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A calling for ... on the dryland

作者: 若木士

 岩に覆われた山に挟まれた中を、幅が二十メートルほどある道が東西に走っている。

 路面は舗装は碌にされておらず、俺が運転する大型トラックは頻繁に跳ね上がり、その度に身体が座席から浮き上がった。

 辺境に続くこの道を行きかう車はほとんどない。この一時間で目にしたのはすれ違った三台の車だけだ。しかもそのうち二台は軍の車両だった。広いのはただ土地が余っているというだけで、交通量が多いということではない。

 車内に備え付けられたラジオからは、雑音交じりの音声が流れている。ここまで来ると地形のせいもあって電波の通りが非常に悪いが、まだ何とか聞き取ることができた。

 国営放送のアナウンサーが、西の国境地帯での武力衝突は依然として続いていることを報じている。

 乾燥した風が開け放たれた窓から吹き込んできた。一緒になって舞い込んできた砂埃が耳の中に入り込み、目に襲いかかってくる。俺は悪態をつきながら目元を擦り、それから耳から砂を掻き出した。

 風が吹いてきた方角を睨みつけてみるが、自然相手にそんなことをしたところでなんの意味もない。

 窓を閉めてしまえばいいだけではあるが、不幸なことにエアコンが故障しているのであった。夏が過ぎたとはいえいまだに強い日差しが降り注ぐ中で空気の流れを遮断すれば、どこまでも上がり続ける車内の気温に蒸し殺されてしまうだけだ。それに比べれば砂塵に耐える方がまだマシである。

 ただでさえ乗り気でなかった仕事だが、この如何ともしがたい環境のせいで、さらにやる気は削がれていた。

 この文字通り不毛な行程を一刻も早く終わらせるべく、俺はアクセルを踏み込んでトラックの速度をさらに上げた。

 



 しばらくすると、目的地が見えてきた。

 乾いた泥の壁と有刺鉄線に囲われた、陸軍基地。四方を山に囲まれていて、辺りに他の建造物はない。見渡しても視界に入るのは岩と砂、そして無造作に生えた草や木だけだ。所々にヒビが入ったくすんだ色の防壁はどこか寂しさを漂わせているが、地面に色濃い影を落とす監視塔が周囲に目を光らせ、ここがただの古びた屋敷でないことを示威している。

 南の正門の前では、数人に衛兵が自動小銃で武装して立っていた。そのうちの一人が手をかざして制止してきたので、俺はそれに従いってトラックを停止させる。

 すると門の横に建っている小屋から兵士が出てきて、運転席の横までやってきた。

「用件を」

「東都商社のサハレです。物資の納入に」

「どうも、ご苦労様」

 身分証と軍が発行した通行所を呈示すると、兵士はそれを受け取って、小屋の中にいる別の兵士に渡した。小屋内の兵士はペンを片手に、デスク上に並べられたいくつかの書類とそれらを見比べる。

 しばらくして確認が取れたのか、兵士たちはいくつかの言葉を交わすと衛兵に向かって合図をした。それを受けて衛兵の一人が、行く手を阻んでいたゲートを手で引き開ける。

「このまま真っ直ぐ行って突き当たったところを右に曲がってください。第五師団の隊舎があるのでそこへ」

 身分証らを返却しながら、兵士が敷地の奥を指差して言う。

「ああそれと、敵の攻撃があるかもしれないので一応気を付けてください。この前も迫撃砲が飛んできて営倉がやられたので」

「敵がここまで?」

「どうも少数の部隊が浸透してきてたみたいです。すでに掃討はしたらしいですが」

「そうですか」

 俺は溜息を吐きながら天井をあおぐ。

 ここの基地は国の西方に位置している。そして今この国は西の隣国と戦争状態にある。とはいえ、主戦場となっている国境地帯からはまだ距離があって戦火はここまで届いていない、と考えていた。だが実のところそれは誤りであったようだ。

 しかしここまで来てしまった以上、このまま帰るわけにはいかなかった。仕事はしなければならない。実際に砲火が飛び交っていれば逃げたかもしれないし、そんな状況であれば言い訳も立つが、見渡す限りはまだ平穏である。喜ぶべきか嘆くべきか、なんとも嫌な中途半端さだ。

 といっても、ここでいくら愚痴を並べたことで詮無いことである。

 衛兵に礼を言うと、俺は半ば諦めの気持ちでブレーキを解除し、門を通過した。




 軍に物資を納入する商社で働き始めてから約三年が経過する。そこで担当している主な仕事の一つは、今日の様に物をトラックで運送することだ。そのため今までいくつかの基地に出入りをしてきたが、それらは全て東部でのことであり、ここに来るのは初めてだった。なぜこんなことになったかと言えば、前任者が逃げ出してしまったからだ。理由は知らないが、それで貧乏くじを引いたのが俺だったというわけである。

 指示された通り、正門から伸びる道をまっすぐ進み、突き当りで右折する。T字路に立てられている標識にも、行き先である第五師団隊舎の方向がしっかりと矢印で示されていた。これならば迷うこともないだろう。

 建物の間を抜けると、左側に訓練場が見えた。その手前側で、十数人程度の部隊が訓練をしているようだ。

 教官らしき男は、遠目からでもわかる鍛え抜かれた肉体を持っていた。実戦を幾度も経験しているのかもしれない、そんな雰囲気をここからでも感じ取れる。そしてそんな男の前に整列している兵士たちは皆、背丈が異様に低かった。

 兵士というには不相応な、子供たちの姿がそこにはあった。

 俺は思わずトラックの速度を緩め、彼らの様子を目で追いかける。

 この国で兵役に就けるのは十八歳からだが、彼らは明らかにそれを下回っている。しかし、子供たちが身に着けている野戦服が、彼らが紛れもなく兵士であることを主張していた。

 心の奥がざわめく。

 俺は右手でハンドルを強く握りしめた。そのまま握りつぶしてしまえというくらいに。手のひらから伝わってくる痛みが、胸のざわめきを申し分程度に誤魔化してくれる。

 違法であることは明白だが、そもそも法以前の話として、正しいか否かで言えばこれは間違っていることだ。彼らが自ら志願したのか、それとも徴兵されたのかは分からないが、どちらにせよ子供を戦争に送り出すこと自体が道義に反している。少なくとも、自分はそう思う。

 けれども、思うだけだった。

 そんな正義感じみた感情を抱いたところで、現実に繰り広げられていることを正すことはできないし、しようという気も湧いてこない。それをする資格も能力もないことは、誰よりも自分が一番わかっているからだ。そんな自分を心の片隅で蔑みながらも、それに気づかないふりをする。

 唇を噛むと、俺は視線を前に戻した。




 第五師団隊舎の前にトラックを停め、玄関をくぐってすぐ右手にある事務所に向かった。

 外国の音楽が流れている部屋には二人の兵士がいた。門を守る衛兵たちとは正反対に、休憩室かと錯覚してしまうくらいにだらけきった空気が漂っている。一人はブーツのまま足を机にのせてくつろいでおり、もう一人は腕を組んで窓の外に目をやっていた。

 物資の搬入に来た旨を伝えると、腕を組んでいた方の兵士が応じてきた。よれよれの野戦服の襟には、上等兵の階級章が縫い付けられている。目の前までやってきた彼に、俺は手に持っていたプリントアウトを提示した。運び込むべき物資のリストが記載されてい納品書だ。兵士はそれにざっと目を通すと壁に掛けてあった鍵束を手に取り、付いて来てくれと言って部屋を出ていった。

 兵士の背中を追いかけ、建物の左に続く廊下を進む。左右にはそれぞれ四つずつ扉が並んでおり、一番奥の右側には第一倉庫というかすれた文字が染みだらけの表札に書かれていた。向かいの部屋には、第二倉庫という文字。

 兵士は第一倉庫の鍵を回し、錆びた鉄製の扉を開ける。

 部屋の中では木製の棚が等間隔に並んでいるが、そのほとんどが空だった。奥の方でいくつかの木箱が積まれているだけである。窓の付近では、差し込む光が室内に漂う埃を照らし出していた。

「荷物はこの辺りに運んで、終わったらまた事務所に」

 扉の近辺を指さして兵士が言う。適当に積み上げてくれということだろう。

 反応を返さずに部屋を見回していると、兵士が顔を覗き込んできた。

「他になにか?」

「いや」

 何か気になる事でもあるのかと問うてくる兵士に、俺は首を振って答える。

「じゃあ頼みましたよ」

 それだけ言うと、兵士はさっさと踵を返していった。見るからに暇そうだが、どうやら手伝ってくれるつもりはないらしい。

 兵士の姿が見えなくなるのを待ってから、俺はトラックに戻った。




 トラックの荷台からに下ろした荷物を片袖台車に積み重ね、手押しで倉庫部屋まで運んで床の上に積み直す。それを繰り返すこと三往復終えたところで、俺はついさっき運び込んだばかりの木箱に腰かけた。

 俺の働きにより、倉庫と銘打たれたこの部屋もその名前に似合って賑やかになってきた。内訳は木箱が大半で、あとはダンボール箱とプラスチックケースが少々。重いものもあれば、大きな見かけによらず軽いものもある。

 これまでの成果からして、完了した作業は全体の三分の一ほどだろう。

 ダンボール箱の上に放り投げられた目録に目を落とす。事務用品や工具、あとは衣服だったり個人宛の小包等々、いわゆる武器兵器と呼ばれるもの以外がいろいろだ。第二倉庫の方がどうなっているかは知らないが、ここがすっからかんだったことを思うと、結構な消耗具合なのだろう。なので納入するべき荷物の量も今までに比べて非常に多い。

 仕事を再開するべく立ち上がり、台車の取っ手を掴んで部屋を出る。

 不意に声が聞こえたのはその時だった。

「ねえ」

 驚きのあまり、体が跳ね上がる。慌てて声のした方を見るも、そこには誰もいない。

 嫌でも警戒心が高まる。

 今度は物を叩く鈍い音がした。発信源は俺の目線の先、第二倉庫の扉からだ。ガンガンガン、とそれは三回続けて鳴り、一拍おいてからまた響く。

 注意してみると、扉の覗き窓を覆っているカーテンの端が微かにめくれている。

 ゆっくりと歩み寄り、カーテンを取り払う。

 鉄格子越しのすぐ向こうに、人の顔があった。まだ子供であろう少女の顔が。

 彼女が先程聞こえた声の主なのだろうか。

「ねえ、軍の人じゃないんでしょ。ここから出して」

 そう少女は小声で懇願してきた。呼びかけてきた声と同じだ。

 俺は少女から視線を外してドアノブを回してみる。だがちゃんと施錠されているようで、押しても引いても扉は動かなかった。

 状況は何となく把握できた。この少女はどいうわけかこの第二倉庫と称される部屋に閉じ込められていて、それで俺に助けを求めてきたというところか。

「どうしてそんなところに」

「家に帰ろうとしたのが見つかって……」

「脱走したのか」

 少女は躊躇いがちに小さく頷く。

 ちらりと見える少女の手首は、その細い腕に比して大きな野戦服の袖に通されていた。表はデザートパターンの迷彩柄で、裏地はカーキ色。この国の軍で標準的な迷彩服で、今日俺が持ってきた荷物の中にも同じものが含まれているはずだ。

 正門から隊舎に来る途中で見た子供たちと同じように、この子も兵士ということである。いや、もしかしたら元兵士というべきなのかもしれない。

「徴兵されたのか」

「わたしの村に軍が来て、兵士にするってわたしたちを無理やりここに連れてきたの」

 聞くに忍びない話だ。

 自らの意思に反して強制的に兵士に仕立て上げられ、戦場に送られる。そこはただ苦しくつらいだけではなく、日常的に死が隣り合わせの、運が悪ければあっさり殺される場所だ。そんなのは誰だっていやに決まっている。しかも、この子はまだ子供でしかない。本当に可哀想な話だと思う。

 けれども、俺にできることはなかった。

 俺は適当に話を切り上げてその場を離れようと、カーテンに手を伸ばす。

「すまない。俺に出してやれない」

「お願い。お母さんのところに帰りたいの」

 少女の訴えに、俺はたじろいだ。

 少女か細い声が、細い針に形を変えて胸の奥に刺さり込んでくる。

 それは、心底で息を潜ませていた、捨てたはずの情念を揺れ動かしてきた。

 



 大小様々な山がいくつも連なり、東西に走る広大な山脈を形成している。海からは遠く距離があり、辺り一帯は年間を通してほぼ乾燥した気候、降水量も少ない。そんな土地に、この国は存在していた。

 東西に長い国土のほとんどは山岳地帯に占められており、平地は枝分かれした山脈の末端に囲まれる形で僅かばかりが東部に位置しているだけである。そんな国であるから、首都をはじめとした都市部は、東の平野部に集中していた。

 俺が生まれ育ったのは、東にある都市の一つだった。この国で三番目に大きな都市で、古くからの日干しレンガで造られた建造物がまだ多く姿を残すも、中心部では背の高い鉄筋コンクリート製の建物が増えてきていた。離れてからそれなりの年月が経過しているが、今は開発がより一層に進んでいることだろう。

 俺は高校を卒業すると、軍に入った。大学に進学するという選択肢もあるにはあったが、それは選ばなかった。

 動機は至極単純で、そしてひどく幼稚なものだった。

 この国は、西の隣国との武力紛争が長きにわたって続いていた。原因はまとめてしまえば歴史的経緯という言葉になるが、つまりは様々な要因が絡み合った結果である。ただ大まかには国境問題と説明されることが多い。

 武力衝突は二十五年ほど前から落ち着き気味になっていたが、俺が学生の頃にまた活発になりだした。国境付近で散発的に戦闘がおこる程度ではあったが、双方に死傷者が出ることは珍しくなく、場合によっては民間人に被害が出ることもあった。報道されるそんな様子を、学校から帰って暇を持て余していた俺は家のテレビで見ていた。

 ニュース以外にも、西の隣国との戦争を扱った番組を見る機会があった。小康状態になる前の、大規模な戦争をしていた頃の話だ。互いに無数の砲火を浴びせあい、夥しい数の死者が積み上げられていく。そして戦場となった村は焼かれ、破壊しつくされ、住民たちは家を追われるか、さもなくば死ぬしかない。そんな想像するだけで悲惨な光景が、国の西半分で繰り広げられていた時代だ。しかしそんな陰惨な世界の中に、いつも俺が見入ってしまう存在があった。

 それは、戦地で戦う兵士たちだった。国や市民を守るために、自らの危険を顧みず戦火にその身を投じていく。勇敢で、献身的な姿。

 そしていつしか、自分も彼らの様になりたいと思うようになった。

 しかしそれは、ただの安っぽい、受け売りの愛国心でしかなかった。

 入隊して訓練を終え、国の中部にある基地に配属された。前線で戦うつもりでいた俺は、その辞令にがっかりしたというのが正直なところだった。国境地帯に――今まさに仲間たちが戦っているあの地に行きたいと希望したが、どういう判断があったのか軍の上層部はそれを叶えてはくれなかった。不満はあったが、一介の兵卒でしかない以上は命令には従うより他はない。だから俺は気持ちを切り替え、そこで来るべき日に備えて訓練を繰り返す日々を送った。

 戦況に転機が訪れたのは、軍に入ってから三年後のある日だった。隣国の大軍が一挙に国境を越えて侵攻してきたのだ。越境行為自体は小部隊によって恒常的に行われていたが、それまでとは異なり本格的な攻勢を仕掛けてきたのである。

 それに対応するために、俺の部隊は最前線に送られることとなった。戦争を望んでいたわけではないが、待っていなかったと言えば嘘になる。出撃の指令を受けた時、確かに胸が高鳴った。遂に戦う時がきたのだという意気込みを抱え、俺は同僚たちと共に銃を携えてトラックの荷台に乗り込んだ。

 与えられた任務は、進撃を続ける敵軍からある村を防衛することだった。住民が避難して無人となった村に到着してすぐに、敵の襲来に備えて防衛陣地の構築に取り掛かった。何もかもが訓練通りで問題は一切ない。あるとすれば、標高の高いその場所は、思っていたよりも寒かったということくらいだっが、しかしそれも演習で経験済みのことだった。

 そして敵の攻撃は、陣地が出来上がってからほどなくして始まった。万全に整えられた準備の下、迫る敵を迎え撃つ。俺にとって初めての実戦だったが、士気は十分だった。

 しかし、すぐに地獄へ叩き落されることになった。

 俺を待っていたのは、訓練以上に過酷な環境だった。十分に休息を取れず、快適さとは程遠い場所に身を置かされる、ということ自体は訓練でも経験した。それは辛かったが、辛いなりになんとかなるものだった。だが戦場のそれは、訓練以上に苦しいものだった。とはいえ、それだけなら耐えられないものではなかった。

 戦場では、常に死の恐怖に晒され続ける。それは訓練には決して存在しえないものだ。隣にいた仲間が銃弾を受けて倒れ、横を見れば砲撃に吹き飛ばされた味方の死体が横たわっている。そして否応なしに、次は自分の番ではないかと打ち震えるのだった。

 もちろん、兵士というものが危険と隣り合わせであることは承知していた。しかし実際に直面するまで、それが本当にどういうものか理解していなかったのだ。

 俺の惰弱な精神は、またたく間に限界を迎えてしまった。

 戦闘がひと段落した時、俺は逃げるように部隊長の元へ駆け込み、除隊を願い出た。

 それが受け入れられたのは、きっと半分以上が部隊長の善意によるものだったのだろう。もしくは、他人から見た俺が相当に酷いありさまだったのかもしれない。ともかく、二人きりの天幕で促されるままに泣きながら心中を吐露すると、彼は俺が辞められるように根回しをしてくれた。

 俺は負傷者たちと一緒に、前線から後方に送られ、そのまま軍を去った。

 そして悟ったのだ。俺は自分を犠牲にできるような、そんな立派な人間ではないということを。




 自分は軍から逃げ、少女は軍に徴募されている。

 別に彼女が身代わりになっているというわけではない。けれどもそこに、不正義を感じずにはいられなかった。それはかつて胸に抱いた、人々を守りたいという気持ちと同じだ。同時に、自らのあまりの不甲斐なさにひたすら惨めな気持ちになっていく。軍に入った時はどんな苦痛も厭わないし死ぬ覚悟もあったはずなのに、それがあっという間にこの有様である。

 少年兵を徴募を決定した誰かやそれを実行した誰か、そしてそれを知りながら黙認している人達、彼らに対して憤りはある。その犠牲になっている子供たちに同情する気持ちもある。しかし自分がそんな感情を抱えるのは恥知らずもいいところだ。そんな権利などあるはずがないのに。

 気がつけば、俺は廊下で壁を背にして蹲っていた。

 少女の懇願に答えは返していない。何も言わないまま、逃げるように扉から離れたのだ。いや、実際逃げたのだ。

 しばらくは少女が扉を叩きながら助けを求め続けていたが、諦めたのか今はもう静かになっている。

 俺は右の拳を床に叩きつけた。鈍い音が廊下の静寂を破るが、またすぐに静けさが戻る。

 部屋の鍵はきっと、事務所に会った鍵束の中にあるだろう。それを何とかしてくすねれば、基地を出て母親のところまで戻れるかどうかは分からないが、あの子をここから出してやることはできる。しかしそれにリスクが伴うことは言うまでもない。

 それを分かっていても助けてやると言えるほど強くない。かといって、助けないと決断することもできない。

 助けてやりたいとは思う。それは彼女への思いやりというより、義務感から生じているものだ。あの時はできなかったが、今度こそは正しいことをしたい、するべきだと、心のどこかが訴えてくる。それは良心か、正義感か愛国心か、それとも憧れか。しかしその衝動は、何か別のものに引っかかって表にまでは出てこれないでいる。

 第二倉庫の——少女が監禁されている部屋の扉を見た。沈黙を保つそれは、当然だが答えを教えてくれはしない。

 再び床を殴る。一回、二回、三回……。その衝撃で天秤がどちらかに傾かないか、踏ん切りがつかないかと力強く。

 だがそんなことを続けたところで、右手の痛むが増すばかりだった。 




 日が傾き、空が茜色に染まる頃。

 搬入作業を終え、俺は報告の為に再び事務所を訪ねた。

 結局、少女のことをどうするか答えは出ていない。先延ばしにしたまま、遂にここまで来てしまった。

 事務所には兵士は一人しかいなかった。来た時に対応してくれた上等兵が、相変わらずスピーカーから垂れ流されている陽気な音楽の中で、何やら書類仕事をしている。

 作業が終わったから確認してくれと声をかけると、兵士は面倒そうな反応をしながらも、立ち上がって鍵を掴んだ。

 机の上から兵士の手の中に移る鍵束を、目で追いかける。鍵束には四つの鍵がまとめられていて、それぞれにネームタグが繋がれていた。

 出し抜けに、目の前に手が突き出されてきた。一瞬の間をおいてから、それが書類を寄越せという意味だと理解する。抱えていたバインダーを慌てて差し出すと、兵士はそれを手にして部屋を出た。

 互いに無言のまま、廊下を歩く。兵士の右手からぶら下がる鍵は、その歩調に合わせて揺れていた。彼の数歩後ろを行く俺の視線は、自然とそれに吸い込まれていく。

 第一倉庫に入ると、兵士は無造作に鍵を積み重なっている荷物の上に置き、上腕のポケットからペンを抜いて、運び込まれた物品のチェックを始めた。

 放射状に広がった鍵束の中には、予想していた通り、第二倉庫という文字のシールが張られたタグがあった。

 兵士は俺に背を向け、無防備な姿をさらしている。

 今のうちにあれを失敬して、部屋を出て向かいの扉を開け、少女を逃がしてから元あった場所に戻す。まあ、感づかれることなく一連の振る舞いを成し遂げる自信はない。この兵士がよっぽど鈍いか、信じがたいほどに作業に没頭しているなら話は別だが、まず間違いなく気付かれるだろう。あの子を部屋から出すどころか、鍵を手にした時点で打ち切りになる公算が大だ。

 なら眼前の男を叩き伏せるか。

 不可能ではない。格闘の腕にそれほど覚えがあるわけではないが、何せ相手はまったく警戒していないのだから、不意打ちを成功させれば勝算はある。

 兵士の背中から視線を下げると、腰のホルスターに収められた自動拳銃が目に入った。

 下手をすれば撃たれるかもしれない。だったら先にそれを奪うか。そうすれば武器を持ったこちらに対して相手は丸腰となり、優位に立てるかもしれない。銃で脅して事を運ぶということも可能だ。すべては上手くいけばという前提ではあるが。逆に、銃に手を伸ばして失敗すれば、言い訳をするのは厳しくなるわけで、そうなったらお終いだ。

 だが、それらをクリアしたとしても、まだ根本的な問題が残っている。

 拘束されている少女を解放するということは、その正当性の是非は別として、結果として軍――子供の徴兵に関連することが軍のどのレイヤーで行われているのかは不明だが――と敵対するこということだ。そうなれば、俺は敵性分子として追われる身となる。希望的観測として、たかだか子供一人の脱走を幇助した奴にそこまで関心と人手を割きはしないかもしれないが、向こうがどう判断するかなど知りようがない。つまりこれから先は、迫っているかもしれない追っ手のことを考えながら生活を送らなければならなくなり、以前のようには暮らせなくなる。正直に言って、それは嫌だった。

 そう、本当に嫌になる。

 この期に及んで、俺は自分のことばかり考えているのだ。

 自らを叱咤する。なけなしの胆力を総動員し、ぎゅっと右手を握り締めた。

 さあやれ、あの子を村に帰してやるんだ。

 後のことが不安なら、俺が手引きしたと露呈しないようにすればいい。まずはこの兵士の口を封じれば、当面はしのぐことができる。おあつらえ向きの道具も丁度目先にある。だが俺にそれができるか。倫理的な課題だけでなく、それをやってしまえばそれこそ軍との関係を決定的にしてしまう。

 いや、それは終わってから考えればいい。今やるべきは、まずは動くことだ。

 右足を半歩、前に踏み出す。

 だがそこで二の足を踏む。思考と肉体が分離したかのように、脳の命令が体に届かない。

「問題ないですね」

 おもむろに、兵士が振り返った。検品作業が完了したのだ。兵士は書類にサインを書き込むと、こちらに向き直ってそれを返してきた。

 俺は拳を解いてそれを受け取る。これで予定していた仕事は終了し、あとは帰るだけだ。

 兵士が空いた手で鍵束を拾い上げ、鍵同士が触れ合った軽い金属音が耳に届く。

 言われるがままに部屋から退去すると、後に続いて出てきた兵士が、鍵を鍵穴に差し込んで回し、戸締りをする。その様子を、俺はただ漠然と見守った。

 状況に流されるまま、兵士と共に事務所前まで引き返す。

 そしてそこで別れの挨拶を一言二言交わすと、兵士は事務所内に姿を消していった。

 バタン、と音を立てて扉が閉まる。

 俺はその場でしばらく佇んでいたが、ほどなくして歩き出し、トラックに戻った。フロントドアを開けて乗り込み、運転席のシートに腰を沈める。キーをポケットから取り出してエンジンをかけ、アクセルを踏み込んでトラックを発進させた。

 来た道を逆に辿り、正門を抜けて帰路につく。

 基地が後方へ離れて行く。

 それまでの間、俺は決して第二倉庫のある方角を見ることはなかった。

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