駅の待合室
先達の作者諸氏による過去のホラー作品を拝見して思い立ち、夏のホラー2020企画へ初投稿いたします。よろしくお願い申し上げます。
――もう十年以上前になるだろうか。僕が学生だった頃の話だ。
「ちぇ、早く着きすぎた」
下り特急列車の出発するずっと前に、都内のとあるターミナル駅に着いてしまった。時期はお盆過ぎ。新幹線や飛行機は、貧乏学生の懐に厳しいものがあったため、JRの青春18きっぷを利用することにしたのだ。あいにくと大学内の友人たちはバイトやら合コンやらで忙しく、実家のある東北方面に旅行する――なんていう知人も見当たらなかったため、こうして僕は荷物を抱えて旅をしている。
(まだ三時間以上もあるし、待合室で暇を潰そうか)
売店で缶コーヒーを一つ買い、持参した文庫本を手に、僕はベンチに腰を据えた。
流行っている娯楽小説を読み進めていくが、バイト疲れや寝不足で、自然とまぶたが下りてくる。
(んん、疲れたなぁ)
眉間の辺りを軽くマッサージし、肩や首を軽く回す。……そうすると、いつの間にか待合室に他の旅行者が座っているのが見える。サラリーマン風の男性、大荷物の家族連れ、やけに古風な格好の出稼ぎ労働者等などだ。入り口の引き戸の音が聞こえなかったが、僕は気にもしなかった。
「ふぁあ……、もう眠気が限界……」
携帯電話のアラームをセットし、仮眠を取るためにまぶたを下ろした。
◇
「……う、もう二時間経ってたのか」
幸い、アラームのなる前に目が覚めた。駅構内のアナウンスがやけに遠くに感じる。……静かすぎる。
(おかしい、何かがおかしい……)
下り方面、○×番ホームにはそれなりの頻度で電車が出ているはずなのに、他の乗客が誰も待合室に入ってこない。
それに……。サラリーマンや単身者が静かなのはまだいい。だが、家族連れの中の子供まで一言も喋らず、座って俯いているだけなのはどういうことだ?
「……」
「……」
「……」
出稼ぎ労働者以外の格好も妙に古めかしい気がする。僕は文庫本で顔を隠しながら、一番近くに座っていたひとの表情を観察する。
(……うっ!)
のっぺりとした表情で、まったく生気というものを感じなかった。その中の一人と目が合う。――ガラス玉のような、空虚な瞳。感情の欠落した表情。思わず寒気を覚えたのは、エアコンの冷気のせいだけではなかったと思う。
「……」
全員の視線が僕の方に向けられていた。性別も年代も違うはずなのに、僕を除いた全員が、全く同じ無機質な表情をしている。
(理由はわからないけど、まずい!)
「すみません、ちょっと失礼っ! 用事を思い出しましたので!」
強引に押し通る。誰にも止められはしなかったが、目だけは僕を凝視していた。
(あっ!)
一人の足に引っかかったと思ったが、バランスを崩すこともなく、感触もなかった。
(心を強く持つんだ……!)
武術の達人は気配だけで存在を感知できたというが、達人どころか素人の僕でもわかる。まだ見られている。振り向いたら危ないと直感した。
◇
駅員室までの百数十メートルが何十倍にも感じた。窓口のドアをノックすると、襟まで汗をにじませた若い駅員が出てくる。
「すみません、あそこの待合室なんですが……。とにかく普通じゃないんです。何とかしてください! お願いします」
「あのう、お客様。あの部屋には、お客様以外誰もいらっしゃらないように見えますが……」
「そんな! 確かに見たんです! 古めかしい格好の乗客が何人もッ」
「困ります……。お急ぎとは思いますが、私どもにできることがあると思えませんよ」
埒があかない。暑さや疲れの末に見た幻覚と思われては、心外である。僕は必死だった。
「――や、どうしたね」
「主任!」
すっかり白髪の、別の駅員が声をかけてきた。最初に僕の相手をした職員が、事情を説明すると、彼は得心したように一つ頷き、僕にこう言った。
「お客様、よろしければこちらでお話ししましょうか」
導かれるままに暑く湿った事務室に入り、年季の入ったパイプ椅子を勧められた。
「したら、悪いけンど、もう一回話してもらえるかね?」
「――はい」
多分これが、彼の素の口調なのだろう。僕はできる限り主観を排して、あの待合室で起きたことを語った。
「うーん、こン駅も長いからねぇ。なんせ、先の大いくさの前からだし。ここで逝ったひともいるだろうからねぇ。私も勤めて四十年以上になるけど、お盆の時期になると出るんさ」
「本当ですか!?」
「そう、ひとによっちゃあ、見えたり見えなかったりするらしいんよ。けンど、この世のモンじゃあないのは確かだね」
「その、僕はどうすれば……」
「マァ、ズーと見てくるだけで実害はないらしいから、気にせん方がいいよ。私の新米の頃から居たからねェ」
年齢を感じさせる顎を、彼はつるりと撫でる。実害はなくても、あの待合室に行くたびに出てこられてはたまらない。
「一回部屋を出るとか、誰かと一緒に入るといなくなるから。ちょっと行ってみましょう」
半信半疑で彼の後ろに付いていき、あの待合室に入って中を覗くと――。実際に誰もいなくなっていた。飲みかけのコーヒー缶がぽつんとベンチの上に佇んでいる。
僕が頭を下げてお礼を言うと、彼は再び業務に戻っていく。腑に落ちないが、長居無用とばかりにさっさとプラットフォームに向かうことにした。……実家に戻った後、地元の神社に参拝したのを覚えている。
◇
それから何年か後、駅の大改装で待合室も新しく生まれ変わった。以降、インターネットをのぞいてみても、あの駅で起こった怪異は語られていない。
ある年ふと思い立ち、お盆に一人で改装後の待合室を使ったが、何も起こらなかった。……話を聞いてくれたベテランの駅員も既に退職していた。
――だが、僕は今でも忘れられない。この世のものとは思えない、人形のような不気味な表情を。死者から生者に向けられる眼差しに覚えた恐怖を。
……改装で行き場をなくした待合室の幽霊たちは、どこへ行ったのだろうか?