*第一話*
せっかくの休日だというのに、今日も悪い夢を見て目が覚めた。だいたい夢というものは、自分の深層意識から勝手に形作られるらしく、前後の脈絡のない馬鹿馬鹿しいストーリーが展開されることが多い。現実の世界とはまったく関係のないストーリーが展開されたり、身分の上下関係が真逆になっていたり、見たこともないような登場人物が出てきたりもする。自分の機嫌が良かったから、寝心地が良かったからといって、必ずしも良い夢を見られるとは限らないのだが、こんなことは誰しも理解できていることなので、長々と話すつもりはない。
ただ、今日見た夢はずいぶんおかしなもので、高校生時代に一度か二度会ったような不良連中に、理由もなく追い回される羽目になり、私は仕方なく公園に無造作に置いてあった大きな木製の樽に逃げ込んだのだが、その樽の外側にはなぜかレバーが付いていて、それを不良に見つけられてしまい、彼らはそのレバーを勢いよくグルグルと回したものだ。すると、どうしたことか、樽の内部もその勢いで水平方向に回りだし、私はすっかり目を回してしまったと、そういう夢だった。ずいぶん、奇妙な夢だ。昨晩の酒が残っていたのかもしれない。
年末ということもあって仕事量も増えていて、毎晩の帰宅も遅くなっている。翌日のことを考えれば、帰っても酒を飲むくらいしかすることはないので、毎朝の目覚めは悪い。いつも私をむかつかせる上司や同僚が夢に出てくるのならばまだ話はわかるのだが、日常ではすっかり忘れているような連中が突然出てくるのだから夢というものは困ったものである。嫌な思い出だけをバッサリ消し去ってくれる機械があったら、私は何十万円出してもそれを購入するだろう。しかし、嫌な記憶というのも人それぞれで、同じような思い出でも、自分には大事だと言う人もいるだろうし、そんな都合のよい機械は今後も発明される見込みはないだろう。つまり、我々は嫌な思い出をなるべく脳の一番深くにしまい込んで生活するほかないのである。
冷蔵庫の中にもいくらか食料はあったが、休日だからといって部屋に篭っていては何もいいことは起きない。外に出れば万分の一の出会いが待っているかもしれない。運命の女性が満面の笑みを浮かべて私を待っているかもしれない。可愛らしい仕草で手を振っているかもしれない。そう淡い期待を抱いてドアを開けた。
自分の住む団地の敷地を出ると、すぐにけやき通りになっている。真冬なので新緑の美しい景色は見れないが、駅まで一直線に続く商店街があるため、行き過ぎる人は多い。ふと気づくと、通りの手前側にあるホルンというパン屋の前に、いつもは見られないような行列が出来ていた。何があったのかと近づいて窓越しに覗いてみると、いつもは一つ100円のパンが今日は85円で買えるらしい。やれやれ、たったそれだけのことで長い時間を無駄にして並ぶのか。市民は何と貧しいことか。『小さなパン屋さんだから、セールのときにきちんと買ってあげないと、いずれ潰れてしまうかもしれない』と店主の心情まで量って並んでいる客はまずいないだろう。ほとんどの客はたった差額15円のために並んでいるのだ。そのお金を節約したところで、いったいどうなるというのか。暮らしは豊かになるのか? 家族の笑顔は増えるのか? 幸運の女神が降りてくるのか? いや、何も起きはしない。差額として余った僅かの金は、次に一つ88円のキャベツや一缶200円のビールの購入に使われるだけだ。明日も次のセールを探す同じ日常が続くだけ。時は金なりというが、あれはどうやら金持ちのための言葉らしい。市民は自分の休日の貴重な時間を削ってまで、微々たる金額の節約に努めている。こんな光景を晒しているうちは口が裂けても先進国などと威張れない。私は自分のポケットをまさぐってみた。チャリチャリと小さな音がした。ここにも小銭しか入っていない。遠くまで弁当を買いに行かず、私も85円のパンで我慢した方がいいのかもしれない。世の中には、自分で金の心配をしなくても、他人をうまくこき使って金を集めさせ楽に生活をしている人間もいるのだろうが、貧乏人がどんなに頭を使ってやりくりしても一本の大根が二本に増えるくらいで、社会的な地位は一向に変わらないのである。
そんなことを思いながらパン屋の前を通り過ぎた。次に目に入ってきたのはスポーツ用品店と蕎麦屋で、この二つの店舗もここに店を開いてからすでに20年にもなる。土日になればそこそこの客は入っているようだが、バーゲンや模様替えがあるわけでもなく、ずっと同じ佇まいなのでそれほど儲かっているようには見えない。だいたい、週にどのくらいサッカーボールやグローブが売れれば儲けになるのかが私にはわからない。マンモス団地がすぐ側にあるので、それなりの需要はあるのだろうか。蕎麦屋は小さくて古めかしい造りだが、子供の頃からずっとここにあって、両親に手を引かれて、ここへざるそばを食べに来るのが楽しみだった。私はここを通るたびに両親が元気でいた頃を懐かしく思い出す。確か、この先はアーケードになっていて、眼鏡屋とコーヒー喫茶が並んでいるはずだ。そう思いながら歩みを進めていくと、コーヒー店の手前に赤いカーテンで彩られた小さな店が挟み込まれるように出来ていた。長年この町に住んでいるがこんな店を私は知らない。最近になって出来たのだろうか。
入口の自動ドアの横に派手な色彩の看板も出ていて、『あなたも幸運シャッフルしませんか?』と書かれていた。占い系の店だろうか? それとも霊能力関係の怪しい団体の店だろうか? 疑おうと思えばいくらでも悪いほうに疑えるが、大都会の裏通りならともかく、こんな田舎町に店を出すくらいだから、そこまで悪気のある店ではあるまい。きっと、商店街の組合にも加入している真っ当な店なのだ。ここで新しい経験が出来れば、後で話の種になるかもしれない。私は思いきって中に入ってみることにした。
「こんにちはー」
私はなるべく大声を出そうと思い、そう言いつつ、カーテンをくぐって店内に入ったが、四畳ほどしかない小さな店で中には誰もいなかった。店内の壁にはびっしりとポスターが張ってあって、それはほとんどがテレビでよく見かける有名人の宣伝用のものであり、皆、笑顔でピースサインをしていて、どれも、『幸運ミキサーのおかげで私もテレビに出られました』というフレーズが付いていた。壁際には棚が設けられていて、運気アップの宝石ネックレスだの、霊感が助けてくれる蛇皮の財布などが並べられていた。やはり、そういう類いの店だったのかもしれない。私は後戻りすることも考え始めていた。
店の奥にはカウンターがあって、『ご用の方は押して下さい』と立て札に書いてあり、その横に子供の手の平ほどの金色のベルが備え付けてあった。店主が出て来たら、何を言われるかわかったものではないが、嫌なことを要求されたら、はっきりと否定する自信もあったし、取り合えず話を聞いてみようと、私はそのベルを押してみた。すると、十秒もせずに、奥の部屋からどこにでもいそうな、50代のおばさんがドタドタと走って出て来た。頭にはパーマをかけていて、小太りで赤いセーターにピンクのスカートを履いていた。外見は悪そうな人には見えなかった。
「こんにちは、どうなされました?」
笑顔たっぷりにそう話し掛けられたが、興味があって入って来たわけではないので、どう返事したらよいかわからず、私が口ごもっていると、「人生に迷われましたかね」とすかさず二の矢を放ってきた。
「いえ、そんなことはありませんが、外の看板に出ていた、幸運シャッフルという文句が気になったもので……」
「まあ、そうでしょう。ここへ来られる方は、口ではみんなそう言いますのでね。ただ、見えない何かに引き寄せられて来ているんですよ。実際は人生が行き詰まって、路頭に迷われている方が多いんですよ」
女性はそう言ってから椅子をすすめてくれたので、私は長居するつもりはなかったが取り合えず腰をかけた。
「幸運というものを説明する前に、あなたは運の良い方ですかね?」
女性はまずそう尋ねてきた。私は少し考え込んでしまった。いきなり自分の半生を総括することは難しかった。
「さあ、どうでしょう……。普段はあまり自分の運勢について考えることはないですね。まあ、困難も色々とありましたが生きていられますので、良くも悪くもないのではないですかね」
私は無難にそう答えた。
「しかし…、こう申し上げるのも失礼ですが、私からあなたのお顔を見て、あまり幸せそうに見えませんね。女優のような顔立ちの彼女はおられます? おられませんよね。宝くじで大当りしたことは? 競馬の万馬券ってご存知です? 100万円入りの財布を拾われたことはありますか? 親戚の遺産が転がり込んできたことはありますか?」
私がどれも否定すると女性は大きく頷いた。
「やはり、あなたもかなりひどい人生を歩まれていますね。こう言ってはなんですが、運というものは常に一定ですから、このまま漫然と生きていかれても、決していいことは起きませんのでね。今、すでに癌などの病にかかられていて先が長くないのでしたらそれでもいいんですが、あなたはまだお若いですし、今後も数十年と生きていかれるのでしょうから、この辺りで徹底的な運の改革を行われた方が良いかと思います」
「待ってください。確かに私の人生は恵まれてはいないかもしれません。家柄も普通ですし、才能にも恵まれなかった。人生を変えるような恩師もいませんでしたし、好きになった女性にもすぐフラれるし、財布に金が貯まったこともない。普段は意識しませんが、幸か不幸かでいえばついていない人生かもしれません。でも、一歩この店の外へ出て辺りを見回してくださいよ。この付近には私と同じような境遇の人が何千何万と住んでいます。85円のパンを買うために長蛇の列が出来ていたんですよ。その人達をみんな不幸と断定してしまうんですか? そうではなくて、今の私の状態は、世間一般から見れば、普通と言えるのではないですかね。現在の社会では当たり前の姿です。多額の資産を所有している人のほうがはるかに少ないのです。私のような凡庸な人間が何百万何千万と集まってこの国が出来ているのです」
女性は私の言葉を聞くと目を見開いて驚きを示した。
「まあまあ、なんという開き直り方でしょう! 私もこの商売をしておりますと、不運の固まりのような方によく出会うのですが、あなたのように我が国の国民は、皆不幸だと居直ってしまわれる方は珍しいですね。それでは絶対に駄目です。その生き方では不幸がさらに大きな不幸を釣って来ますのでね。運不運というのは魚釣りと一緒です。ついている方は何の意識もなく大きな魚を次々と釣られますが、ついておられない方は小さな魚も何も釣れずに、バケツや靴下ばかり湖から拾い上げられて、川や湖の洗浄で来られたのでしたらそれでもいいのですが、やはり目的あっての人生ですから、あなたもすでに中年の域ですし、そろそろ大物を狙わないと、ついには我が身まで波にさらわれてしまいますのでね」
「しかし、今さら何かやったところで運勢がそれほど劇的に変わりますかね? 『あなたもきっと生まれ変われる』なんていうフレーズを、雑誌やテレビの広告でもよく見ますが、運回りが良くなるなんていう文句は、大抵は何の根拠もなく一般常識さえ知らないような霊能者が声高に叫んでいて、うっかりと乗せられてしまう人も多いようですが、結局は参加者が被害者になるようですけどね。本当に運を変えられたという話をまだ聞いたことがありませんよ」
女性は私の話を待ってましたとばかりに満面の笑みになって大きく頷いた。まあ、おそらくは私のような懐疑的な客をこれまでも迎えて来ただろうから、扱いには慣れているのかもしれない。まさに自信の笑みだった。
まだ続きます。お楽しみに!




