猿
そいつらは猿だった。この距離では馬の大きさが分からないので、騎手である猿の大きさもよく分からないが、もしあの馬がサラブレッドくらいの大きさだとしたら、その上の猿はおよそ人間くらいの大きさであろう。しかしそいつらは、人間と似た大きさのゴリラやオランウータンのような姿ではない。具体的に言えば、ヒト科ではない。あの赤い顔、茶色の毛、横に広い耳、間違いなくテナガザル科マカク目、ぶっちゃけて言えばニホンザルによく似ている。その猿たちが、馬に乗ってこちらへ向かってくる。よく見ると全員が鎧兜を着て、腰に刀を差していた。その鎧は色とりどりで、しかし日本の鎧とも西洋の鎧とも違う。日本にも軍団を名乗る猿がいたが、こいつらはまさしく猿の軍団だ。
猿の軍団はやがて村の中央にある広場までやって来た。この家の玄関のすぐ前にある広場だ。近くで見ると、やはり人と同じくらいの大きさがある。その中でもひときわ立派な鎧を着た猿が叫んだ。
「村長はどいつだ、出てこい!」
おそらくこいつがこの軍団のリーダーなのだろう。人の言葉でそう言った。いやこの場合の人というのはつまり俺なので、今の俺が人と言えるかはかなり怪しいところのなのだが、とにかく俺にわかる言葉でそう言った。もしかしてこの世界はこいつらのような獣人の世界なのだろうか?いや、しかしさっき旻のヤツは人間と言っていた、ということは人間もいるということなのか?
俺がそんなことを考えている間に、村長が家から出てきてその猿の前に立った。
「ジジイ、貴様が村長か?」
「如何にも、ワシがこの村の村長じゃ」
「よし、ならば聞け。今からこの村は我らが猴王様の支配下に入った。よって速やかに、税として食料を差し出すがいい。足りない分はそれ以外のもので勘弁してやろう。まあどうせこんな村、大したものはないだろうがな」
リーダーの猿がそう言うと、他の猿たちがケケケと甲高い声で笑う。
「お、おい、あ、あいつらは何なのだ?」
「何って見ての通り盗賊だよ。あいつら何が猴王だ、ふざけやがって」
家の陰からその様子を見た俺が声を潜めてそう訊ねると、旻は舌打ちして答えた。俺はその旻の答えに、じゃあ税って何だよとか、猴王って誰だよとか色々聞きたいことがあったのだが、それを言う前に旻のヤツが俺に聞いてきた。
「つーか、お前もあいつらに襲われたんだろ?」
「え、ああ、いや」
「あーそうだったな、覚えてねぇんだったな」
「い、いや俺は」
どうやら俺は何か勘違いをされているらしい。俺は違うと言おうとしたが、別の声に遮られた。
「なんだとジジイ、もう一度言ってみろ!」
それは猿の声だった。俺が振り返ると、猿が馬上から村長に怒鳴っていた。
「ですから、見ての通り貧しい村故、お譲りできるものは何もございません。どうかお帰りを」
「ほう、何もないか。おい」
猿のリーダーが後ろの猿を見て顎で合図した。すると後ろの猿たちは、馬から降りて村の家々の方へと歩いていく。
「待ちなされ、いったいなにを」
「お前の言葉は信用できん。こちらで探させてもらう」
猿は村長にそう言うと、ニヤリと牙を見せて下品な笑みを浮かべた。
「おい、烏阿」
俺がその様子を見ていると、旻が後ろから肩を叩いた。
「お、俺?」
「あぁ?お前以外に烏阿がいるかよ」
旻はそう言うが、いるかよと言われても、そもそも俺はそんな名前ではない。思い出せないが、きっとそんな名前ではなかったはずだ。無いと思う、たぶん。
「持ってろ」
「な、なにを」
「いいから、自分の身は自分で守れよ」
旻はそう言って俺に持っていた剣鉈を渡すと、広場へと歩いて行った。
どういうことだ?この鉈は俺を切り刻むための物じゃなかったのか?わけが分からない。
「おい猿ども、いい加減にしろ!」
猿たちが広場から家々に向かおうとするのを旻の声が止めた。
「あん?なんだお前」
「ここはお前たちの縄張りじゃねぇ、とっとと失せろ!」
「旻!出てくるなと言ったじゃろうに」
「こんなの見てられるかよ。やい猿、何が王だ、何が税だ、人間の猿真似もいい加減にしやがれ!」
旻の啖呵に猿のリーダーは怒ることもなく、ニヤリと嘲笑った。
「ほぅ、威勢のいい女だな。お前が税の代わりに奴隷として俺たちに奉仕するか?だが残念だったな、俺たちは犬の女はいらねぇ、犬くせぇからな!」
リーダーの猿がそう言うと、他の猿たちはまたケケケと甲高い声で笑った。
「まあどうしてもと言うなら人に化けてみろよ、そうしたら鼻をつまんでかわいがってやるからよぉ!」
猿のリーダーは自分の言葉に腹を抱えて大笑いした。
ちょっと待て、どういう事なんだこの会話は。女?どこに女がいるというんだ?いや、あの猿は今、旻に向かって女と言ったのだ。とすれば、状況から推測するに、その女というのは旻のことだろう。
・・・・・・女!?あの旻という狼人間は女だったのか!?それは確かに狼人間にも女、というかメスはいるだろう。だがあれがそうだったとは!あの猿はどうやって狼人間のオスメスを見分けているんだ!?俺の目には全身毛むくじゃらの狼人間の違いなんてさっぱりわからんぞ、あのリーダーの猿は狼人間鑑定士か何かなのか!?
俺は衝撃の事実に打ち震えた。
そして気づいた。もしかして今が逃げ出す好機なのではないだろうか。
広場を見ると、リーダーの言葉に手下の猿たちも腹を抱えて笑っている。おそらく家の中に隠れているのであろう他の狼人間たちも、そして広場にいるあの二人も、今俺を見ているものはいない。間違いない、これはチャンスだ、この隙に山に逃亡するのだ。
「猿が、くらえ!」
広場では旻がリーダーの猿の乗った馬に足払いをくらわせている。バランスを崩した猿は馬から転げ落ち、赤い顔をさらに真っ赤にして、
「このメス犬、ぶっ殺してやる!」
と、刀抜いて旻に切りかかろうとしていた。その様子に、ついに隠れていた狼人間たちも手に鍬や鋤を持って家々から飛び出してくる。だが他の家からでは、旻が猿に斬られるのが先だろう。
間違いない、これはチャンスだ。この混乱のスキに村の家屋の間を抜けて、再び山へ入るのだ。そしてこんな会話ができるだけの、恐ろしい怪物の居ない所へ行くのだ。山へ、再び、あの誰もいない、誰とも話すことの出来ない山へ、あの孤独な山へ。怪物の居ない、誰もいないあの山へ・・・。
目の前で白刃が光る。金属と金属がカチあう音がして、手に持った剣鉈に重い衝撃が走った。
「なんだ貴様」
目の前の猿が、俺を睨み付ける。他の猿も、狼人間の村人も、突然現れた俺に驚いて動きを止めた。
どうしてこんなことをしているのだろう。今が逃げ出す絶好の機会だというのに、狼人間は俺を食うかもしれないというのに、この猿たちはきっとこれから俺を斬り殺すだろうというのに、なぜ俺はこの広場の真ん中で、この猿の剣を受け止めているのだ?なぜ俺はこの毛むくじゃらの狼人間を助けているのだ?
ワケが分からなった。分からなかったが、しかし、俺はこの時、山へ逃げることを選ばなかった。