村
「ば、化け物だぁぁぁぁぁ!」
鳥のような怪物となった俺は、初めてこの世界で出会った相手に、そう叫んでいた。
『叫ばれた』のではない、俺が『叫んだ』のだ。しかしそれは、無理からぬ理由からであったと言いたい。別に俺は、出会いがしらに強烈な自己主張をしたいわけではない。何を好きこのんで自分が化け物であることを主張する必要があるだろうか、いやない|(反語)。だが俺にはこう叫ばなければならぬ理由があるのだ。
その人物は、いや人物と言っていいのかどうかわからないが、麻と思われる素材で出来た服を着ていた。和服のように前で合わせて帯で留める服ではなく、上着とズボンに分かれているタイプの服だが、お世辞にも上等なものとは言えない。靴はなく裸足で、手には平鍬、それも先端だけが金属の風呂鍬を持っていた。これだけ見れば、いかにも貧しい農民に違いないのだが、問題はそこではない。
その鍬を持つ手は、毛に覆われている。俺も数人、腕の毛が濃いやつを見たことがあるが、そんなものではない、毛皮に覆われているのだ。さらにその足も、首も、同様に獣のような毛皮に覆われている。毛皮を着ているのではない。そいつの皮膚自体が毛皮なのだ。そして俺が最も驚いたのはその顔だった。
犬だ、そいつは犬の顔をしている。頭の上から三角形の耳が天に向かって立ち、金の目の眼光は鋭く、何よりも前に突きだした鼻の下にある顎からは、鋭く尖った牙が何本も生えている。そう、そいつはまさに人狼と呼ぶべき姿だったのだ。
「何言ってんだ、お前。つーかお前、裸じゃねえか!あー、なんかだいたい分かった」
俺が恐怖におののいている、いや、断じておののいてなどはいない。この豪胆にして大胆不敵たる俺が恐怖におののく、などということはない、あってはならない。これは興味深い生物に出会って少し、ほんの少しだけ驚いただけだ、そうに違いない。
とにかく俺がごくわずかに驚いている間にその狼人間は何かに納得したらしく、幾度か頷くと、俺を手招きした。
「ついてこい」
よく考えればこれは大変うかつな行動だったのかもしれないが、俺は言われるがままに狼人間について行くことにした。だがこれは致し方のないことであった。この狼人間こそが、今俺が意思疎通の出来る唯一の生物なのだ。思えばこの世界に来てからというもの、俺が発した言葉と言えば「クソが」「ぶは」「生きてる」「俺は生きてる」「嘘だろ」「化け物」「ここはいったいどこなんだ」「おーい」「うががが」「うげ」そして先ほどの「化け物だ」、以上である。その全てが独り言、あるいはそれに類するものであるというのは、いささかこの孤高にして独往たる俺であっても薄ら寂しいものを感じるものであった。要するに俺は、会話に飢えているのである。断じて、逆らったら食われそうで怖いからとか、そういう理由ではない、断じてだ!そこで早速、会話をしてみることにする。
「な、な、なあお前、人間か?な、名前はなんていうのだ?」
いささか気持ちの悪い語りかけであったかもしれない。しかしまともに会話するのは実に一か月ぶりであったし、そのひと月前の会話の相手があの女だったということを考えれば、まともに言葉が出たことは称賛に値するものに違いない。何よりこの俺の発する言葉が、気持ち悪いなどということがあるはずもないのだ。
「これが人間にみえるか?だいぶ頭打ってんな。私は旻だ。お前は?」
「お、俺は・・・」
会話が成立した、素晴らしい!これが会話か!早く二の句を継がなくては、俺の名前を聞いているぞ、俺の名前を言うのだ、俺の名前、俺の名前は・・・なんだ?俺は一体なんという名前だったのだ?
「う、あ・・・」
「ぷっ、ハハ。まさかそれが名前か?」
俺が言葉に詰まって言い淀むと、狼人間は噴き出して笑った。こいつ、人が名前を思い出そうというのになんという奴だ!
「まあそういうことだったんだろうな、しかし、烏阿ねぇ・・・」
「い、いやち、違う、俺は」
「まあまあ、いいってことよ、今はそういうことにしといてやるよ」
この旻とかいう狼人間は、俺の言うことも聞かずに鋭い歯を見せてニヤニヤと笑いながら、ズンズンと民家の方へ歩いて行く。名前についてまだ言いたいことはあったが、しかし肝心の名前が思い出せないことにはこれ以上言いようがないので、俺はその後ろを大人しくついて行くことにした。
「おーい村長!居るか、村長!」
やがて一軒の粗末な家にたどり着くと、旻がその家の、やはり粗末な引き戸をドンドン叩いた。ということは、どうやらこの家はこいつの家ではないらしい。あまりに強く叩くので、戸の耐久度は大丈夫かと心配になったが、やはり大丈夫ではなかったらしく、家の中から怒鳴り声が聞こえてきた。
「ええいやめんか、戸が壊れるわ!」
「入るぞ」
その声も意に介さないように、旻は戸を引いて中に入っていった。俺は正直入りたくはなかったが、しかし旻が振り返って手招きしたので、入らないわけにはいかなかった。ここで断ってはどんな目にあわされるやも分からないのだ。
「お、お邪魔します」
そう言って中に入る。どうやら内装は外装ほど粗末ではないらしい。
土間と座敷の区別はなく、家の中でも土足履きだ。そう言えば旻も靴を履いてはいなかった。内壁と外壁の区別はなく、外から見えた日干しと思われる煉瓦がむき出しで、頭上には屋根の土台と思われる梁があり、その上に、外から見えたあの苔むした瓦が載っているのだろう。
家の中は木の机が一つと、椅子が四つある。入ってすぐ右手に煉瓦を積み上げただけのかまどがあり、鍋が火にかけられていた。
古いことは分かるが、土足履きなことや煉瓦積みであることなど、日本の伝統建築とはかなり違っている。
「そんなにこの家が珍しいですかな」
俺は思わず、わっ!と声を上げて驚いた。家の中を見まわしていると、俺の目の前にさっきの奴よりもっと大きな狼人間が立っていたのだ。
「だ、っだだ、だ、誰・・・?」
俺がそう訊ねると、そのデカい方の狼人間は無礼にもこの俺を笑った。
「ご安心めされい。ワシはこの村の長をしておる者じゃ」
デカい狼人間はそう言って、自分の長い顎の下の毛を撫でた。そう言えばこいつの話し方は、なんだか老人のようだ。よく見ると、旻と比べて毛の色も薄いし、毛並みも悪い。顎まわりの皮膚もなんだか弛んでいるし、どうやらこいつは歳を食った狼人間らしい。狼人間も歳をとるのだろうか。
「お前さんは?」
「お、俺は・・・」
俺が答えようとすると、旻のやつが横から口をはさんだ。
「見ての通りだよ、また連中のしわざだと思う」
「なるほどのぅ。しかし着物まで奪うとは、あやつらめ」
旻が言うと、この村長の狼人間は何かに納得したように頷いた。
「いや、俺は」
「ああよいよい、みなまで言わずともわかっておる。着物を用意してやるから、裏の井戸で水を浴びて来られよ」
「い、いや、でも」
「いいから行け、お前割と臭いぞ」
そう言って家から追い出されてしまった。この俺にむかって臭いとは何事だ、俺は何も感じないぞ?犬だから鼻が利くのだろうか。だとしてもこの俺が臭いとはあり得ないことだ。たとえひと月を山の中で過ごすとも、その間一度の水浴びもしていなくとも、この俺が臭いなどということはありえないのだ。俺がそう思うからそうなのだ。ではなぜ水浴びを?
聡明にして慧眼である俺は、この状況を合理的に判断するに、ある結論に達した。
やはり連中は俺を食うつもりなのだ。着物をやるから体を洗えだと?俺を洗って食うつもりに違いない。この後きっとクリームを塗れ、だの塩をすり込め、だのと言ってくるに決まっている。そうに違いない、注文の多い狼人間に違いない!
なんということだ!せっかく会話ができる奴に出会ったと思ったら、俺を食おうとしているとは!そうと決まればこんなところにいつまでもいる理由はない、今すぐここを離れなければ。
俺は論理的な推察の下に逃亡を決意した。身を低くしてゆっくりと慎重に、足音を消して家の裏手に回る。なるほど確かに井戸はそこにあった。だが俺は水浴びなどしない、周囲をうかがって山に逃亡するのだ。俺が息を殺して様子をうかがっていると、突然、誰かが狼人間の家の戸を叩く音が聞こえた。
「村長、村長!奴らだ、奴らが来るぞ!」
どうやら別の狼人間らしい。これはいよいよ俺を、この村の人間でおいしくいただくつもりに違いない!こうしてはいられない。一刻も早くここを離れなくては!
俺は慌てて山の方に駆けだそうとしたが、しかしそれはかなわなかった。家の裏にある勝手口から旻の奴が出てきたのだ。そっちにも戸があったのか!しかもなんということだ、旻のあの毛だらけの手にあるものは刀ではないか!正確に言えば、山刀とかブッシュナイフとかいうやつだ!せっかく生き返ったばかりだというのに、俺はあれでブツ切りにされるに違いない。そんな死に方は嫌だ!
「い、いやだ、俺は美味しくない、美味しくないぞ!」
「いいから服を着ろ、水浴びは後だ。奴らが来る」
「へ?」
旻はそう言って、俺に服を投げつけた。どういうことだ、なぜこれから食おうという相手に服を着せるのだ?
「早くしろ!」
「は、はい!」
旻にそう吠えられて、俺は慌ててその服を着た。旻が着ているのと大きさが違うだけの服だ。別にその顔が怖かったから従ったのではない。断じてそうではない。そうではないが、とにかく大急ぎで着た。
麻のひどくゴワゴワした服で、到底俺にはふさわしくないものだったが、どうやらソーセージのケーシングとは違うらしい。では何だ?そう言えばさっき言っていた「奴ら」とは?
「な、なあ、奴らってなんの・・・」
「しっ!来たぞ」
旻は家のかげから片目を出し、その向こうの何かを見ている。俺もそれに倣い、旻の頭の下からそっと片目を覗いた。
俺が下りてきた山の反対側、村を流れる川の川下へ、おそらくは村の外へと続いている道の向こうから。何かがこちらへ向かってくる。それと同時に何かの音が聞こえた。この音は、馬だ、馬の足音が聞こえる。それも一つや二つではない、少なくとも十以上の馬の足音が、聞こえた。そして俺の、以前より良くなった目が道の向こうに捉えたものに、俺は我が目を疑った。
それはやはり馬だった。それも鞍や鐙、手綱のついた馬だ。この世界にもこのような馬や、乗馬の文化があることには驚いたが、しかし俺が目を疑ったのはそこではない。その馬の騎手である。俺はその姿を見て、こう言った。
「サルだ・・・」