放浪
あれからひと月が過ぎた。俺はあの山を下り、深い森をさまよっている。鳥、兎、鹿、キツネのような獣、這う虫や羽虫、キノコや果実、草、ありとあらゆる食うことの出来るものを口にした。幸いにも、それらを見つけて食うことには困らなった。この体は、かつての俺よりも何十倍も鋭敏な感覚と、何倍も素早く強い筋肉を持っていたからだ。もっとも、だからと言って全く喜ぶ気にはなれなかったが。
これが、今この状況が前世の業だというのだろうか。獣となって山野をうろつくことが。いったい俺が何をしたというのだ。いったい俺が何を・・・。
「ここはいったいどこなんだ?」
そう言ってみても答えるものはいない。
まるで孤独な兎のように、俺は人間のいる場所を探し求めている。いや、この表現は正確ではない。兎はあれで縄張り意識の強い動物なのだ。寂しさで死ぬということはない。どいつもこいつもなぜあの○○中の言うことをいまだに信じているのか理解に苦しむ。いやいや、別にただのセリフにすぎないことだというのは分かっているのだが。というか俺は兎ではない!
もう限界だ。とにかく、とにかく誰か人間のいるところはないのだろうか。誰でもいい、誰かと会話しないと頭がおかしくなりそうだ。はじめのうちは考えていた、今のこの俺の姿を見たらどう思うだろうかと。しかし今はそんなことはどうでもいい。たとえこんな羽毛まみれの姿でも、俺は人間だ、話せばわかってもらえるに違いない。強靭にして高潔な俺の精神も、そろそろ限界を迎えようとしていた。寂しくて死んでしまうのは兎ではない、他ならぬ人なのだ。
もうあの尾根を越えて何もなかったら諦めよう。俺はこの人間のいない世界で、一人、獣として生きていく定めだったのだ。それが俺の、前世からの業だったのだ。ここは悪人が落ちるというかの畜生道に違いないのだ。
絶望感に駆られながら俺がその最後の尾根を越えると、向こうにも同じ尾根が見えた。いったいこの山脈はどこまで続いているのだろう。そしてその間の谷に、それはあった。尾根と尾根の間に隠れるようにひっそりと、谷を流れる川沿いに、明らかに今までと違うものがある。自然にできたものではないものだ。目を凝らしてみると、それは田畑と家屋であった。
人里だ!俺は狂喜した。ついに俺は文明と巡り合ったのだ!この世界にも人はいた!ここは畜生道ではなかったのだ!
「おーい!おーい!」
俺は遥か足元の村に向かって、まだ聞こえるはずもない距離から叫びながら駆けだした。
「おーい、誰か!誰かいないか!誰がっ」
あんまり急いで駆けだしたので、足元が完全にお留守だった。木の根に足を取られた俺は、急斜面を不様に転がった。
「うががががっ」
なんども頭や背中を打ちながら斜面を転がり落ちていく。まるで、かのイングランドのチーズ転がし祭りのチーズもかくやという勢いで一気に斜面を下ると、突然、さっきまで体中を引っ搔き回していた枝や木の葉の感触がなくなり、浮遊感に包まれた。
ああ、崖だな。そう思った瞬間に、地面に叩きつけらた。
「うげっ!」
幸い、それほど高い崖ではなかった。しかし数メートルの高さから落下し、背中を強かに地面に打ち付けた痛みと、肺の空気が一気に押し出された苦しさに、俺は悶絶した。
「おい、お前大丈夫か?」
と、頭の上から誰かの声が降ってきた。