孵化
白い、白い壁が目の前にある。驚きの白さ!とはこのことで、それが壁の向こうの光を透かしていることに気づくのにしばらく時間がかかったほどだ。もう一つ気づくことは、体が動かしづらいということだ、手足を動かすことがほぼ不可能に近く、何とか身体をひねることができる程度だ。やっとのことで後ろを振り返ると、そこにも同様に白い壁があるのみだ。
さて、ここは一体どこなのだろうか・・・・。とかいう状況説明だるいよね、だるくない?
聡明にして才気あふれる俺は、すぐにこれが卵の殻の中だと見抜いた。どうやって見抜いたのだとかそういう説明はいらない。見抜いたって言ったら見抜いたのだ。こういう説明でいちいち揚げ足をとる輩は、一度ハードボイルド小説でも読めばいい。あの時代の探偵は大した証拠やら伏線やらもなく直感で行動して許されていたのだ。
とにかく俺は今、卵の中にいる。そういうことだ。そして俺をここに送り込んだのは、あの菩薩とか名乗る女だ。何が慈悲深いだ、あのアマ、次に会ったら酷い目にあわせてやる、エロ同人みたいにな!
そうと決まればいつまでもこんなところに留まっている道理はない。さっさとこの殻を破って外に出るのみだ。俺は手足をばたつかせたり、腕は振れないので殻に肘打ちをしてみたり、ヘットバットしてみたりとにかくいろいろなことをやった。とにかく必死でやった。よく自分の殻を破れ、などというやつがいるが、お前に何が分かる!お前は卵から孵化したことがあるのか?お前にこの苦労が分かるのか!?
「クソがぁぁぁぁぁぁ!」
叫びながら何度も壁を叩くと、やがて壁に一筋のヒビが走った。そのヒビを何度も何度も、気の遠くなるほど叩くと、やがてヒビはクモの巣のように広がり、ある時、遂に破けた。
「ぶハッ・・・」
その時気づいた。今、はじめて俺は息を吸ったのだ。肺の中に清らかな空気が入り込み、体中の細胞を満たしていく。
「生き、てる・・・」
そこからは夢中だった。今にして思えば、横に一直線に剥がして殻を二つに割るとか、そういうクレバーな方法もあったのだろうが。そんな小賢しいことも思いつかないほど、狂ったように穴を広げて広げて、やっと肩と腰が抜けるほどに広がると、転がり出るように殻を抜け出た。頬と掌が大地の感触を捉える。乾いた石と砂ばかりの冷たい大地の感触が、しかしこの時ばかりは何よりもうれしく感じた。そしてその大地に両の足をついて、この世界を初めて見た。
そこにあったのは、空と、雲だった。地上からそれらを見上げているのではない。頭の上にどこまでも青く広がった空があり、足元に地平線でも水平線でもない、見渡す限りの白い雲が果てしなく広がっていた。その空と雲の間に突き出た、わずかな尖った大地のその頂上に立っている。
「俺は生きてる!生きてるっ!生きてるっっ!」
自分の中にどうしてそういう気持ちがあったのかはわからないが、けれども俺は何度も生きていると叫んでいた。
やがて叫び疲れて、ハタと気づいた。俺はなぜ卵の中にいたのだ?
振り返ると卵があった。よくもまあこの中に入っていたものだと思えるほど、入るのに十分とは言えない大きさの卵だった。
なぜ卵なのだ?あの女の嫌がらせということは、容易に推測できる。しかしそれならば、もっと効率的で陰湿な方法もあるはずだ。あの女がもし俺をどこにでも転生させられるというならば、それこそかの『いしのなかにいる』ということも、あるいは石そのものにしてしまう、ということもすらも可能だったはずだ。ではなぜ・・・?
そう思って、顎に手をやったその時、チクり、と何かが顔に刺さった。その痛みに驚いて自分の手を見て、俺は驚愕した。
血だ、赤い血が見える。さっきの痛みから考えれば、それは俺が手をやった顎からの血には間違いはない。しかし、しかしその血が付着したこの物体は何だ?
墨に染まったような色の、それの尖端を赤い血が染めている。それは紅葉型に分かれて大部分が爬虫類に似た鱗で覆われ、五つの尖端には湾曲した鋭い鉤爪がついている。五つの指があるということを除けば、昔、図鑑か何かで見た大型の鳥の足にそっくりだ。
そして最も驚くべきことは、それは俺の意思で動いているということだ。つまり、この指は、この手は、この禍々しい、忌むべき化け物の様な手は、俺の手だ。
「嘘、だろ?」
そう思いたい、きっとこの手はあの女のイタズラに違いないのだ。
しかしその考えはすぐに打ち砕かれた。その手が付いている腕を見てしまったからだ。そこには羽があった。手と同じく黒い、まさしく濡れ羽色というべきカラスの様な羽だ。その羽が、腕を、胸を、腹を、背中を、足を、とにかく俺の全身にわたって覆っているのだ。
しかし俺はカラスになったわけではない。そうであればいっそ楽だったろう。しかし俺は今、両の足で地面に立ち、以前と変わらない視界をもってこの状況を見て、翼ではない奇妙な前腕に、以前と同じ喉と歯と舌と唇で驚愕の声を上げている。
では俺という存在は何なのか、結論は一つだった。
「化け物・・・」
聡明にして才気あふれる俺は、自分の姿を評してそう言った。