六月の出来事・①
昔さ、ほんのちょっとの昔。もしかしたら去年だったかもしれないし、三年ぐらいたったのかもしれない。それぐらい前の話し…。
「おはよう」
ベッドから起きるとアップルさんと目をあわせて挨拶をする。彼女の毎朝の習慣になっているのだが、アップルさんは答えることはなかった。
彼女と会話するときはいつも上機嫌な母親の言うことには、彼女とアップルさんは生まれたときから一緒という長いつき合いらしい。それを考えると愛想が無いと言えた。
アップルさん。主成分はパンヤ。肌は幼児が好むようなパイル地。経年劣化のせいか擦り切れてきた箇所もあった。
もちろんそんな人間がいたら大ニュースだ。アップルさんはクマのヌイグルミなのだ。
幼稚園の頃などはアップルさんが添い寝をしてくれないと寝付けないほどであったが、彼女が中学受験をした頃には、窓際の椅子が定位置になっていた。
「あ〜」
薄い毛布を掛けたまま、彼女は頭痛がした気がして額を押さえた。
昨夜は久しぶりに帰宅した父親に、母親と一緒に都内のパーティに連れ出されたのだ。
なにやら商売上の利権が関係する政治家主催のパーティだったようで、小難しい「先生」とやらの話しを「拝聴」した後は、ろくに料理が並んでいないテーブルのそばで立ち話。パーティ自体はなにやら国際情勢を研究するとか立派なお題目だけの主催目的が掲げられていたが、実態は政治資金集めが目的であった。
そこで父親は自分の家族を政治家たちに披露したかったようだ。
落ち着いた紺色のナイトドレスで参加した母親の横で、当てつけのように高校の制服で「よき娘」というやつを演じた二時間だった。
主催者側の「先生」も何やら思惑があるのか、彼女と同じくらいの年頃をした少年を連れており、彼の甥だと紹介された。
つまり彼女の婿候補が一人増えたということなのだろう。それとも逆に、こちらが少年の嫁候補の一人に入ったのかもしれないが。
そういった大人の都合での「お友だち」は片手では数え切れないほどになっていた。
なぜなら外資系の投資会社を筆頭に、複数の会社を経営している彼女の父親は成功しており、その財力や人脈は権力者が無視できないほどの支脈を伸ばしていたからだ。
ただ事業者として成功している男が、家庭人として成功するかというのは、まったくの別問題であった。
父親は帰宅することが少なかった。
もちろん仕事が忙しいということもあるのだろう。外資系のせいか時差の関係で、日本では真夜中という時間に商談が行われることもあるようだ。
それでも彼女が小学校に上がるまでは三日に一回は帰ってきていたような記憶がある。それが今では、昨夜のように「家族」が必要なときにしか顔を見せなかった。
では彼は普段の生活をどうしているか。答えは簡単である、愛人を都内のマンションに囲っているのだ。
どうしてそんなことを知ったかというと、なんと父親本人からその愛人を紹介されたことがあるからだ。母とは全く正反対の、頭にスポンジが詰まっているような、自分に姉がいたらそのぐらいの年代であろう女であった。
(思春期の娘にそんなことをしても、自分は成功者だから軽蔑されないと思っているのだろうか?)
「学校行かなくちゃ」
ノロノロとベッドから起き上がって、壁に吊したセーラー服に向き合う。その横には小さな丸鏡を引っかけてあった。
「なんて顔をしてるのよ」
落ち込んだ表情をした自分がそこに映っていた。そんな戸籍だけの父親のために家族を演じさせられた翌日に、世界の全てがバラ色に見えるなら、その人物の脳みそ自体がバラのお花畑になっているに違いないと、いまの彼女には断言できた。
彼女は練習するように鏡の中で笑顔を作った。
器量自体は、自分でそんなに悪い方ではないと思っていた。それは彼女の謙遜かもしれない。町で芸能人と間違われた事が一度や二度ではないほど目鼻立ちのはっきりとした容姿をしていた。ただ女としては珍しいことかもしれないが、彼女自身が自分の外見に興味が薄いことが大きかった。
身につけていたTシャツとスウェットを床に落とす。窓から差し込んでいる朝日が下着姿の彼女を照らした。
薄いカーテン越しの柔らかい陽光は、美の女神である彼女を讃える属神が着せかけるローブのようにも感じさせた。
ただ表面上のサイズだけでなく、全体を緩やかに繋いでいる体の曲線すらも含めて、TV画面に出てくる同世代の少女たちすら引き離した物を持っていた。
これで大声ではしゃいだりして可愛気のある仕草でもすれば年相応に見られるのかもしれないが、彼女はどんな時も悟りを得た禅僧のような静かな雰囲気を纏っていた。
おかげでスーツ姿では大学生を飛び越してOLと間違われるほどだ。学校での取り巻きからは「BBAくさい」と言われることがたまにあった。
家からちょっと離れた場所にあるミッション系お嬢様学校である中高一貫校の制服であるセーラー服に袖を通していった。
彼女が自分の容姿に興味が薄いのには理由があった。
母親に似てきたからだ。
母親は夫である男が帰宅しないことは、どうでもいいらしかった。自分でも輸入家具の会社を立ち上げており、特に午前中は商談があるのか飛び回っていることが多かった。
その商売がうまく軌道に乗っており楽しくて仕方ないようだ。
そのため夫に頼らずとも生活費が充分すぎるほど確保できていたが、そこはケジメとして家庭に金を入れさせていた。
母の関心は、商売よりも自分の娘である彼女にあった。
歳と経るごとに自分とうり二つと言える程美しく育った娘。彼女が自分の理想通りに育ってくれるのがなによりも嬉しいのだ。
が、そのコピー品として育てられる方の立場にもなって欲しかった。
セーラー服を身につけ、おかしなところがないか鏡の中で左右に体を振って確認していった。
朝起きてから寝るまで自分の母親の理想通りに演技を続けるというのも大変なのだ。
母親が嫌いなわけではない。むしろ好きだからこそ完璧を演じ続けなければならないのだ。
学業ではどの科目でもトップクラス。運動もその部活に所属している者と肩を並べるほど。主にセンスの問題である芸術系でも貶されたことはなかった。
そのために普通の子供では真似が出来ないような努力を重ね続けているつもりだ。
(そう自分はまだ子供なのだ)
腹の底に沈殿したなにか重い物を吐き出したくなりながらも、彼女はそう自分に言い聞かせた。
床に落とした服を畳んでベッドへ重ねておく。それからアップルさんに挨拶をして部屋を出た。
この裕福な生活も、みんな両親が苦労して手に入れてくれた物と判っている。中学生にして大人びた思考を身につけた彼女にはそれが理解できており、そのため父親が愛人を作ろうが、母親が自分をコピー扱いしようが耐えることが出来ていた。
(だけど…)
彼女の目が自室の隣のドアに移った。
(弟はどうだろう)
彼女の弟は、そういった現実から逃避する道を選んでいた。部屋に引きこもって家族と積極的に会おうとしなかった。
母親も自分の期待に応えてくれる彼女を大事にはするが、デキの悪い弟には冷淡であった。
成績も振るわず母親が望んだ私立中学には入ることができなかった。運動も苦手で、母親が理想とする男の子の概念からだいぶ離れたものであったようだ。
今では関心は自分のコピーである彼女にだけ向いており、弟はいない者として扱われていた。
その点、父親も人のことが言えなかった。第一「帰宅」することの方が珍しいのだから、家庭内での弟の立ち位置など把握しているはずもなかった。
もちろん自らの男児であるから行く行くは自分の後継者と考えているのかもしれないが、学業も運動も下から数えた方が早いレベルでは、期待する方が酷という物だ。
最近世間では女性経営者も増えてきたこともあり、彼女の方を自分の後継者と考えている節もあった。
そんな父母の思惑から、公的なイベントに弟が出席することは希であった。昨夜だって一人で留守番していたはずだ。
きっと二人とも、弟が今日突然死していたとしても、葬儀業者へ任せっきりで、家庭内では涙一つも見せない事が想像がついた。(もちろん葬儀の席など外の人間が見ている場所では悲劇の父親、母親を演じるであろうが)
彼女自身はというと、弟に含むところはなかった。さすがに思春期の姉弟であるから以前のようにべったりとくっついたりすることは無かったが、事あるごとに彼を気にかけてきたつもりだ。
遠慮がちに扉をノックしてみた。
中からは何も反応がなかった。
「朝よ。遅刻しない?」
「…」
なにか体を動かす気配だけが扉越しに感じられた。
「学校は行くのよ」
姉というより母のようなセリフを弟にかけ、彼女は朝食が用意されているだろうリビングダイニングキッチンへ足を向けた。
家庭内で孤立状態の弟が家族と一緒に食事を取ることはなかった。朝も彼女は母親と二人で朝の情報番組を見ながらトーストを囓るのが定番となっていた。
学校が遠いため、食べ終わったら母親が運転する車で送ってもらう事になっていた。自分は女学校、母親もそのまま仕事へ直行だ。弟がどうやって学校へ行っているのかも知らなかった。
それでも自分の子供が心配なのか、母親は昼には自宅に帰ってくる。仕事はインターネットなどを活用してこなしているようだ。
「アカネ!」
階下から母親に声をかけられた。物思いに耽っていたせいで、いつもよりは遅い時間になってしまったようだ。
(さあ、今日も一日は始まるわ)
背筋を伸ばして正面を見た。
トイレ脇に設けられた手洗いの鏡にいつもの彼女が映っていた。
(頑張りなさい郷見茜。そしてあなたも頑張るのよ郷見弘志)
扉越しに彼女は弟へエールの視線を送った。