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清隆学園の一学期  作者: 池田 和美
17/29

六月の出来事・A

 今日は梅雨の中休み、しばらく続いたうっとうしい雨はあがり、夏の前兆の陽差しが照りつけていた。

 学校も今日から中間テストの試験休み。嫌々勉強詰めだった生徒たちも、この先の期末テストという現実を忘れて、学生ならではの自由を満喫してもイイ頃だ。

 そのため雲が多めの青空のもと、清隆学園高等部の生徒たちは、浮かれ気味で昇降口に向かっていた。

 あちらこちらから「カラオケ」だの「クラブ」だの楽しそうに弾んだ単語が耳に飛び込んできた。

(試験直前にはあんなに混んでいた図書室も、今日からはまた静かになってくれるわ)

 そんなことを漠然と考えながら他の生徒たちの流れに逆らって、藤原由美子ふじわらゆみこはC棟の廊下を歩いていた。

 右手には鞄の他に、数冊の文庫本を剥き出しのまま挟んでいた。

 この四月に知り合った子のせいで最近興味を覚えて読み始めたSF小説である。

 最近の量産されたファンタジーに比べて難解な物もあったが、なかなか楽しめた。テスト勉強の合間の読み物として図書室から借りていたのだ。

 C棟二階には高等部の図書室と、それに並んで閉架図書などをあつかう学校司書の事務室となっている司書室が設けられていた。

 迷わず由美子は司書室の扉を開いた。

 彼女は図書委員会副委員長の肩書きを持っているため、自由にこちらの部屋を使用できる立場にいた。それに委員会の仕事をするのもカウンター業務以外はこちらの部屋だ。

 部屋の中には先客が座っていた。

 それは街でじっと待っていればそこらへんの男が声をかけてくるような美少女だった。栗毛がちなウェーブがかかる柔らかい髪に、つつきたくなるほどのかわいい頬、薄い唇はまるでリップクリームを塗り立てのように輝いていた。

 しかし由美子は反射的に身構えた。

 相手が何者か骨身に染みて判っているからである。

(また許可無く入室してやがンなぁ、こいつ。)

 その座っていればどう見ても女の子が、実は彼女とは同学年の男で、しかも中身は爆発と下ネタが大好きという問題児の郷見弘志さとみひろしだからだ。

 弘志は彼が(無断で)いつも使っている窓際にある椅子に、なにやら難しい顔をして座っていた。

 同じ歳の男子に比べて薄い肩に、制服の上から白衣を羽織っているところからすると、またろくでもない実験を図書室と同じC棟にある化学実習室あたりでやってきたと思われた。

 彼の前には2メートル四方はある大きなテーブルが広がっている。その上にチョコンと薬瓶が置いてあった。

 彼はそれを半眼で睨み付けているのだ。

 いつも騒動の中心にいる時に浮かべている薄笑いから想像もつかないほどの強ばった表情だった。

 椅子の背もたれに浅い角度で寄りかかり、下腕を椅子の肘掛けに立てて指先同士を触れるか否かの距離で付き合わせている。

 いつもはお祭り騒ぎが大好きで後先考えていないように見える彼だったが、どうやら今は哲学的思考に陥っているようだ。

 ただ彼に関しては油断できない。そう見えるだけで、頭の中では夕食の献立を考えている可能性を完全には否定できないのであるが。

 開けっ放しの窓から梅雨の重い風が侵入し、逆光の中で彼のうなじを揺らした。

 なぜだか彼女の胸の辺りにチクリと何か刺さったような気がした。

「なんの薬だ?」

 突然後ろから声がして由美子は首をすくめて振り返った。

 そこにはいい男に分類可能な同学年の男子生徒が、いつの間にかに当然のように立っていた。

 由美子は自分が鈍い方だとは思っていなかったが、声がするまでまったく彼の気配が無かった。けっして見とれていたせいではないと自分に言い聞かすことにした。

 なにせ彼は石見氏直系という忍び一族の後継者(自称)なのだから、気配を消すのは得意であった。

「薬とも…、毒とも…」

 弘志が薬瓶を睨んだまま妙に歯切れの悪い答えをかえす。ちなみに瞳を閉じて内容に拘らなければ、彼の声はボーイソプラノの美しい響きを持っており、たいへん耳障りがよかった。

「なんだ? メチルか?」

 透明な薬液を見て聞き返す彼は、読書と居眠りそしてアルコールをこよなく愛している不破空楽ふわうつらである。

 同世代の男子よりも筋肉質の体が制服の上から察せられる彼は、体に見合ったバリトンの響きを持っていた。ちょうど弘志とは正反対だ。

「いや、アルコールじゃない」

「そうか。ならば専門外だな」

 そう答えつつ当たり前のように司書室へ入ってくる空楽。だがこの二人、どちらも図書委員ではないのだ。司書室に入室する権利はなかった。

「アンタらな」

 一言ガツンと言ってやらなきゃなと、自分を交わして先に入室した空楽の背中を、由美子は慌てて追った。

 弘志お気に入りの席は、入り口から見て丁度突き当たりの窓を背にしていた。彼はその席をこの新学期から自分専用の昼食兼読書の場として独占していた。

 間にある大テーブルを回り込み、座っている弘志を見おろす位置へと移動した。

 近くによって判ったが、瓶のラベルのど真ん中に「髑髏と骨」と呼ばれる死を意味するマークがデカデカと書かれており、その周囲にまるで小学生が書いたような字体で「のんだらしぬで」と書かれていた。

「アンタ」

 由美子はこの悪趣味に力が抜けた。

 その時、開けっ放しにしていた廊下の扉からドヤドヤと複数の男子生徒が入ってきた。ほとんどが図書委員ではない。よく言えば本好きの図書室常連、悪く言えば無許可司書室利用者である。

「薬名で言えばメチレジンオキシエタンフェタミンだ、デソキシエフェドリンの親戚みたいなもんだよ」

 まったく姿勢も視線も動かさずに弘志が説明した。

 由美子は空楽の顔をみやった。

(今の説明で判る?)

 表情だけで質問してみたが、空楽は軽く首を横に振って答えた。

 由美子は半分だけ振り返った。入り口にいた全員が空楽を真似するように首を振っていた。

「僕は文系だから」

 一同の先頭にいて、一番背の低い、銀縁眼鏡をかけた真面目そうな男の子がこたえた。真面目そうな外見に騙されてはいけない。彼は権藤正美ごんどうまさよし、弘志と空楽と同じクラスである。 この三人、同じクラスで気があったのか『正義の三戦士サンバカトリオ』として、いつも一緒にいて騒動を起こす仲間であった。

「で? わかりやすく言え」

 空楽が弘志をうながした。弘志は反っくり返った姿勢を止めて、薬瓶へ顔を近づけて言った。まるで話し相手が薬瓶の中にいるようだ。昔の説話に出てくる大男でない限りそんな所へ入ることはできないはずなのだが。

 弘志は彼にしてはめずらしく抑揚のない口調で言った。

「まあ簡単に言うと覚醒剤ってやつだよ。業界用語でシャブってやつ」

「はぁ?」

 由美子が首を傾げると、長目の髪が頬に散った。

「これだけの純度の物でこれだけの量を経口投与したら、姐さんでも死ねるよ」

 素直に「飲めば」と言えばいいところを「経口投与」と表現するところが弘志らしかった。

「なンで、ンな物がここにあンのよ」

「いや、科学部総帥の御門がね。麻黄からエフェドリンの抽出に成功して、そこから化学変換してデソキシエフェドリンを作ったんだ」

 ふむふむと判ったふりの一同。ちなみに御門とは彼らと同学年の男子生徒で、高校生の身ながら数々の発明パテントを持っており、明日のノーベル賞学者のその候補といった人物である。弘志は彼と並んで清隆学園の二大マッドサイエンチストとも称されていた。

「それに対抗心が沸いてさ。ほら試験中は実験室は誰も使用しないだろ、だから場所を借りてオレもさ…」

「アンタ、それ法律違反だろ」

 由美子は改めて睨み付けた。より正確には薬事法違反であろう。

「へ〜」

 無責任な軽い声で正美が言った。

「かくせいざいって作れるんだ」

 言葉の全部がひらがなであった。具体的にそれがどんなことなのかピントがきてないようだ。それに対照的に由美子は表情を険しくして言った。

「作れなきゃ存在しないだろ。だいたいそうポンポン覚醒剤だのなんだの口にするな」

「ヒロポンとも言うな」

 鋭い由美子のつっこみを空楽が邪魔をした。

「それ、昔の商品名だよ」

 空楽のセリフに反応しながら弘志はその小さな薬瓶を机から取り上げた。もちろん化学者らしくラベルの方に手をかけていた。

 まるでそうすれば別の物が見えると言いたげに、彼は薬瓶を曇りがちな外の光に透かすようにして見た。

「?」

 つられて一同の視線もそこに集まるが、小さな薬瓶の中にある透明な液体しか見ることはかなわなかった。

 彼は立ち上がると、ぞんざいに白衣のポケットにそれを落とし込んだ。

「どこに持って行くンだよ」

「ん? 薬効を確かめに」

「ちょっと待てぃ」

 さすがに首根っこを掴んで由美子は止めにかかった。

「そんな危険なもン、どうやって確かめるんだヨ。まさか学食のウォータークーラーにでも仕込むつもりじゃないだろうな」

「あ、それは思いつかなかったな」

 由美子の勘ぐりにいつものイタズラっ気たっぷりの表情と声を取り戻して弘志がポンと手を打った。由美子は我慢ならずに彼の首根っこを掴んだ手を引っ張って、自分の方へ向けさせた。

「アンタ、いいかげんにしろよ」

「王子、言葉遣い」

 入り口のさらに向こうから声が由美子へかけられた。二人の間にいた男子どもが、列王伝の記述された海のごとく左右へ二つに分かれていった。

 そのゆずられた空間を、お歴々を従える王女のような風格で、由美子と同じ清隆学園高等部の制服に身を包んだ一人の女子が入ってきた。

 彼女は長い黒髪と細く形の良い顎のラインを持っていた。背は並みの男子ほどあり、腰の高さなどは一般では考えられないほどの高さに位置していた。

 厚い生地で出来たブレザーでも隠せないほどの見事なプロポーションをしており、茶目っ気たっぷりの微笑みを浮かべる口元に八重歯が顔を覗かせていた。

 これだけのスペックを持つ彼女が美少女でないわけがない。それどころか毎月開催されている生徒会非公式事業の学園(裏)投票で『学園のマドンナ』に三ヶ月連続で選出されたというほどだ。彼女は由美子と同じクラスで友だちの佐々木恵美子ささきえみこである。

「そんなこと言ったってコジロー」

 由美子は恵美子に向かって身をよじってみせた。ちなみに『王子』は由美子のあだ名であり、『コジロー』は剣道部エースの恵美子のあだ名である。苗字の佐々木と剣道とで、巌流島の闘いで有名な武士からつけられた。

「めっ」

 恵美子に睨み付けられて由美子は下唇を出した。

「このようにして正義は必ず勝のだ」

 腕を組んで偉そうに言った空楽の鳩尾に、由美子は遠慮なく拳を叩き込んだ。

 彼は声なく体を屈して倒れていった。

「まさかオレが自分を試験体にするとでも?」

「そうよ」

「まさかぁ」

 にこやかに笑って弘志は一回指を鳴らした。

「ちょ、ちょっと」

 正美が怯えた声をあげた。いつの間にか背後にまわっていた空楽が、彼のことを羽交い締めにしたからだ。

「あれ? いま不破くんソッチにいなかったっけ?」

 当然の疑問を恵美子は口にしたが、相手にしてもらえなかった。

「安心しろ…」

 まるで幼子に語りかける父親のような空楽。

「…すでに正美は捕まえた。存分に人体実験するがよい」

「うわ〜っ! やめてくれ〜!」

「残念だが冗談だ」

 人体実験も大好きな弘志は、至極残念そうに口を開いた。

「もう試験体は決まっているんだ」

 弘志は胸を張った。身長差から由美子を見おろす。その顔は声には出さないが来るかどうか訊いていた。

「ついて行くわよ」

 彼に挑戦された気がして由美子はわざと声を固くした。

 弘志はそんな彼女に微笑んでみせた。正体を知っていなければ騙されそうな爽やかさであった。

 白衣姿の弘志を先頭に、空楽、正美の『正義の三戦士』と、同級生同士で仲良しでもある由美子と恵美子は、陽差しが差し込みにくいC棟の一階へ階段を降りた。

 意外にも他のみんなは図書室に残った。

 実を言うと今日のカウンター当番の三年生がサボって、誰もそこにいなかったのだ。色々と騒ぎを起こす連中だが、こういう時は気安くカウンター業務などを引き受けてくれる。そのために由美子は常連たちを、司書室から追い出したくともそう出来ずにいた。

 C棟が高等部全体の建物の北側に位置するため、この季節のこの時間にしても、一階の廊下が薄暗い。時々学内痴漢が現れる噂さえあるが、太陽の紫外線により分解してしまう数々の薬品を取り扱うには好都合な条件であった。そのため各実習室は、ここへ集中的に配置されていた。

 五人は生物実習室の入り口にやってきた。

「ここ『解剖された蛙の呪い』がかかってるトコだよね」

「きゃっ」

 正美が言わなければいい話しを持ち出した。剣道部エースとはいえ恵美子が女の子らしく怯えた声を漏らした。

「そんな話しもあったっけ」

 弘志は背後の会話を無視して、入り口の扉を五回叩き二拍おいてからまた五回叩いた。

 すると室内から声がかかった。

「メリーおばさん、何してる?」

「腹が出すぎて美容体操」

「ジャックポットだ。入んな!」

 弘志の答えを聞いて扉は室内から開かれた。中からは生物部部長の佐藤が顔を出した。

「どうしたの? みんな?」

 恵美子の声に弘志が振り返ると、彼女以外の三人が脱力したように、両手をついて廊下の床と友だちになっていた。

 不思議そうに見おろしていると、徐々に復活して立ち上がってきた。

「また、古い暗号を…」

「ベルストリート四三B一一、五〇四号室だっけか」

「あたしゃ昨日読ンだばかりよ」

「あれ? なんだかばれてるよ。また符丁を変えなきゃ」

 なぜだろうと首を捻る二人に空楽は言った。

「どこかで使われている物をそのまま使うからだろうが」

 次は“ファティ”と言ったら“スキニー”と答えようとか言っていた二人が顔をしかめた。

「なんの話しよぉ」

 一人置いて行かれた恵美子が悲しい顔で由美子を見た。

 由美子は説明しようかと思って口を開いたが、結局声は出さなかった。

 恵美子はちょっとむくれた。そんな顔も美しいのが彼女の損をしているところかもしれなかった。

 気を取り直して彼女は提案した。

「新しい暗号だったら“砂粒”と“世界”というのはドオ?」

「お、判りにくいね、それ」

 佐藤がすぐに反応した。その脊髄反射のような速さは、本当に思考過程をへて出されたものではない事が容易にわかった。こんなところにも『学園のマドンナ』の信奉者がいたようだ。

 しかし弘志が残念そうに首を振った。

「それで“野の花”には“天国”かい?」

 空楽までポンと手を打ち付け加えた。

「“てのひら”に“無限”だな」

「“いっとき”には?」

 試すように恵美子が二人に訊いた。二人がそろってこたえた。

「「もちろん“永遠”だな」」

「なんだ、だめか」

 恵美子が残念がる。ただし今度は正美と由美子が話しについて行けなかった。

「なにそれ?」

「まあなんでもいいじゃん」

 弘志が皮肉を言うような声でこたえた。

「アンタ馬鹿にしてンだろ。殴るよ」

「な、なぐるまえにいってほしひ」

 見事にきまったボディブローのせいで弘志の声は全部ひらがなにきこえた。

「またまたぁ、王子ったら照れちゃってぇ。安心して、郷見くんは取らないから」

 天敵同士であるかのような間柄のはずなのに、どこで勘違いしてしまったのか、恵美子は二人が恋仲になるべきだと考えている節があった。

 もちろん由美子にはそんな関係になるつもりは微塵も持ち合わせていないため、彼女の台詞を聞いて青い縦線が何本も入るゲッソリとした顔になった。

「だいたい何で合い言葉なンか必要なン…」

 由美子は質問の途中で、嗅覚に異常を感じた。

「アンタら…」

「な、なんにもしてないよ」

 あわてて佐藤がかぶりを振った。

 むなしく両手であたりの空気を扇いで、撹拌して誤魔化そうとすらしてみせた。

 生物実験室の後ろのほうで、素行不良者と噂されている者たち数人が、なぜか立派な雀卓を囲んで、佐藤の番を待っていた。室内に紫色をした煙が残っていた。

「準備は?」

 数秒前の恵美子の台詞から気を取り直して弘志。

「できてる」

 佐藤は体をずらした。実験室の教壇のうえには動物用ケージが置いてあった。中にはなにか小型動物が収められているらしく、薄汚れた毛皮の塊があった。

「そうか」

 再び禅僧のような無表情になった弘志がためらいもなくケージに近づいた。

「まさか、アンタ…」

 最悪の予想をして由美子は白衣の背中を睨み付けた。弘志は半分だけ振り返った。

「そうだよ」

「かわいそうじゃない」

 恵美子も哀れみの声をあげた。

「?」

 片方の眉を器用にあげてみせる空楽の横で、正美だけ話しがわからなかった。

 ケージの中にいたのはポメラニアンと思われる小型犬であった。だが普通ならば活発に活動しているだろう犬種に似合わず、その個体は四肢を投げ出すように横たわっていた。

 寝ているのではない。わずかに首を持ち上げて近づいてきた人間たちを無垢な瞳で見上げていた。

 呼吸は浅く早く、口からは舌はだらしなく垂れていた。

 ケージに顔を寄せて弘志はそのポメラニアンの様子を観察しつつ口を開いた。

「まあ先程の佐々木さんの符丁とはまるで逆だけどね。このポメラニアンは大学の獣医学部へ持ち込まれた患畜でね、歳だし右心室にフィラリアが寄生してしまっていてね、飼い主は薄情にも捨てるように置いていったんだってさ」

「治療は絶望的だ」

 弘志の横に立った佐藤が、鉄のように硬くした声で補足した。

「手術でフィラリアを除去することも物理的には可能だが、それではこの患畜の体力が持たない。いずれにしろ死亡する」

「でもでも…」

 すがるように恵美子が弘志を見上げた。

「ま、そうなんだけどね」

 言いたいことが判ったのか、弘志は事も無げな様子で彼女の言葉を遮った。

「だが、このままでは苦しむだけだ」

 佐藤が強調した。

「そうだな…」

 佐藤の言葉で決心がついたように弘志は薬瓶を取りだした。

「このまま苦しみを長くさせても、かえって残酷だし…」

 さらに説明を続けようとする弘志を由美子は右手をあげて遮った。

「いいから…」

 由美子は黙ってその手を握って拳にした。

「…歯を食いしばれ」



「天国に行けたかなぁ」

 大学の敷地にある焼却炉の煙突からあがる黒い煙を見上げて赤い眼をした恵美子は、誰とはなしに訊いた。

「残念だけど…」

 空気の読めない正美は思いっきり地雷を踏んだ。

「魂なんてあるわけないよ。精神はただの脳細胞の火花の結果だもの」

 同意を求めるように、科学者である弘志を見た。

 その弘志の顔には赤いモミジのような痕ができていた。

 みんなと同じように黙って煙を見上げている弘志は何も言わなかった。

 しかたがないので正美は自分自身でダメ押しをした。

「精神がただの科学反応ならば、その精神が考え出した死後の世界なんてあるわけないじゃないか」

「ひどい」

 恵美子はほとんど変わらない高さにある正美の顔を睨み付けた。

 赤い眼になっているため迫力がある。剣道部のエースでもあるから、その気迫の鋭さは男の子を充分に怯ませるものだった。

「そ、そんな…」

 その様子にうろたえた正美は、反応のない弘志ではなく、反対側で合掌している空楽を振り返った。

「うむ。畜生道から上の段階に登れることを祈ろう」

 それを察したのか、合掌を解いて空楽。

「念仏を唱えて、アンタは坊さんか」

 由美子は重苦しい空気を嫌がって、わざとらしい声をあげた。

「念仏ではない、これはお題目だ」

「はぁ?」

 宗教的にはごく普通の家庭に生まれた由美子である。念仏とお題目の違いが判るはずもなかった。

「仏道では宗派が違っても、魂は輪廻転生すると考えている。天国に行きっぱなしの唯一神の宗教とは違う。われわれ仏教徒はこの宇宙の中で、六道輪廻の輪の中からの解脱を望んでいる。だがそこですらまだ有頂天の段階で…」

「わーかった、ストップストップ」

 長々と仏教の宇宙観を話し始めてしまった空楽に、由美子は両手を広げて振った。

「アンタはどう思うヨ」

 事の原因である弘志を見た。

「アンタも権藤と同じで魂なんて無いとおもう口か?」

「魂があるかどうか」

 先ほど彼女に殴られた痕を、ゆっくりとなでながら弘志は、放心したように口を開いた。

「それは判らないけど、地獄なら存在する」

「アンタが行くトコな」

「いや、帰ってきたことがある…」

 呆然としたまま弘志は言葉を口にしていた。

「まさか、この間のことじゃないだろうな」

「この間?」

 弘志は由美子の顔を身長差から見下ろした。そこで初めてスイッチが入ったように目を瞬かせた。

 他のみんなも不思議そうに血を昇らせた顔の由美子を見た。

「ああ、あのバスの事故か」

 我を取り戻して弘志は由美子へ微笑んだ。

「重傷を負った人も死んだ人もいないじゃないか」

 五人は、四月の学校行事で移動中に乗っていたバスが、トンネル崩落事故に巻き込まれるという、普通でない共通の体験で知り合いになった。

「アンタ、アタシと二人っきりで閉じこめられたことを言ってるンじゃないでしょうね」

 どうやら由美子の顔が赤いのは怒っているためではなく、めずらしく恥じらいを感じているためのようだ。

「忘れたとは言わせないよ」

「忘れるもんか」

 にこやかに弘志。

「姐さんの髪からいい香りがした」

「ちょ…」

「やっぱり郷見くんは王子のこと…。きゃーっ」

 絶句する由美子の横で、さっきまで半べそだった恵美子がうれしそうな声をあげた。

「いまはどうかな?」

 弘志がそういって由美子を無造作に前から抱きしめた。

「ちょ、ちょ」

 その衝撃的事実に他の全員が硬直してしまった。

 弘志は瞳を閉じて由美子の髪に顔をうずめた。

「ん、いい香り」

「変態!」

 そういえばあの時もこう言いながら由美子は鉄拳を食らわせた。

 弘志はたまらず殴られた腹を押さえて体を二つに折った。

「いてて」

「本当に地獄へ送ってやる」

 まだ頬に赤みを残したまま由美子は拳を握り直した。

「地獄と言ってもね」

 弘志を助けるためか、空楽が口を開いた。

「仏教には六つの地獄があってね、弘志の行く先がどこだかは、閻魔大王が決めるんだ。ちなみに閻魔大王は初めて地獄に落ちた人間らしい」

「へ〜」

 空楽のトリビアに正美が感心したような声をあげた。

「なんだよそれ。オレは地獄の沙汰に行くまでは確定なのかよ! ま、いちおうオレは神道の人なんだけど…」

 まだ殴られたあたりを撫でつつ弘志は言った。

「まあ地獄はあるな」

「神道では黄泉よみというのではないのか?」

 空楽が訊いた。

「または常世の国だけどさ。どちらも死後の世界の呼び名で、地獄でも極楽でもないよ。でも神道には無いはずだけど地獄はあるよ。それがキリスト教かイスラム教か、仏教のかは判らないけどさ」

 五人が立っていた大学の研究棟の裏にあたるその場所は、短く芝が刈り込まれた緑地になっていた。そこへ投げやりに弘志は、足を投げ出すように座り込んだ。

「昔さ…」

 弘志は再び煙突からたなびく黒煙を見上げて言葉を続けた。

「…ほんのちょっとの昔…」



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