異世界に響く 少女の祈り
――死はどこにでも転がっている
――街に、道に、路地裏に
――そして、私のすぐ側にも
長い廊下を男達が慌ただしく走る。
飾られていた高級そうな調度品は叩き壊され、カーテンからは火の粉が舞い散る。
「いたぞ! こっちだ!」
ドアの外で聞こえる声が、死を運んでくる。
私はここで死ぬのだろうか。
そう考えると、体の震えが止まらない。
「リネア様……」
そっと、侍女のトリスが私の肩を抱いてくれているが、気休めに過ぎない。
垂れ気味のくりっとした目の八の字眉。
綺麗、というよりも可愛らしい顔立ちでいつもニコニコと笑っていたトリスが、今は私をそっと抱きしめている。
ホワイトブリムやいつもの髪型のシニヨンは、私を連れて逃げ惑う中ですっかり乱れてしまっている。
「大丈夫、大丈夫ですリネア様。すぐに旦那様が騎士を連れて来てくださいますよ」
トリスは泣いていない……私がいるからだ。
三つの頃から側仕えとして一緒にいるトリスは、私にとって姉の様な存在だ。
二人だけの時は何かとお姉さんぶるトリスは、こんな時でも姉のように私を守ろうとしてくれている。
彼女との付き合いは十二年になるが、魔法の心得こそあるものの、戦いが出来るなどという話は聞いたことがない。
ましてや、外の賊達を退けることなど不可能だ。
「お父様……」
部屋の外で響いていた剣戟の音が、護衛の騎士の健在を教えてくれているが、次第にその音は減り、代わりに聞き慣れた声の断末魔が混じる。
「私も出ます。リネアお嬢様はトリスと共に隠し通路からお逃れ下さい」
いつも側に控えてくれた老執事のカウフが、優しく笑いながら白手袋をはめ直す。
白髪を後ろに流した清潔感のある髪型はこんな時でも全く乱れていない。
「かしこまりました。リネア様を連れて本邸へ」
既に、騎士たちの抵抗の声は殆ど聞こえない。
ただ、こんな私への忠義の為に剣を振るい、勇気を奮い、死んでいくのだ。
「ごめんなさい、カウフ」
お祖父様の代から我が家に仕えているカウフは、私が生まれてからずっと側にいてくれた。
お祖父様は既に亡くなっている為、執事……というよりも祖父の様に感じている。
「いえいえ、これも執事の勤め。旦那様への最後のご奉公にもなりますし、大旦那様に土産話の一つでも持っていかなければ、このカウフが叱られてしまいます」
そう嘯いて笑うカウフに、私は「一緒に逃げましょう」とは言えなかった。
従者達の献身を胸に抱き、棚を動かして、外へと続く隠し通路に向かおうとするが、時間は残酷である。
「お嬢様! 逃げ――」
今の声は、従騎士隊で一番若いトマスの声だろう。
「きゃあっ!」
その声は途中で途切れ、閉じられた分厚い扉を爆炎が吹き飛ばす。
遂に逃げることも叶わないのか。
ガチャガチャと具足の音を鳴らして、死がやってくる。
「傭兵団"血の軍団"だ。お前達には恨みはないが、これも仕事だ。」
二十人程の男が侵入してくる。
いずれの装備も整っており、家に仕える騎士達しか見たことのない、武に疎い私にも只者ではないと感じられた。
ただの賊に我が家の騎士である護衛隊が敗れるはずがない。
「リネア様! 早くお逃げ下さい!」
トリスが私を背中に隠し、逃げるように促すが、走って逃げたところで追いつかれるのは目に見えている。
盗賊とは一線を画す、組織的行動と金目の物を狙わずに真っ直ぐに私に迫ってきたという違和感の答え。
ようやく、身に迫った脅威の正体が理解ったが、理解ったところで今更の事。
「誰であろうと、お嬢様には触れさせぬ!」
カウフが七十近い老人とは思えぬスピードで、傭兵に突撃する。
左右の袖口からナイフを取り出すと、フェイントを織り交ぜて斬りかかる。
「くっ、中々速いが……まあ」
斬りかかられた男は、防戦一方と言った様子だったが、次第にカウフの動きが精彩を欠いていく。
ぜぇぜぇと肩で息をするようになり、その額にはとめどなく汗が滴る。
「年寄りの冷や水は良くないぜ。斬らないでいてやるぜ……俺は年寄りには優しいからな」
落ち着いた動作で斬撃をいなすと、ニヤリと笑ってカウフから距離を取る。
「だが、コイツは喰らっとけ」
男の背中でカウフから死角になっていた位置に隠れていたもう一人がカウフに手のひらを向け、魔法を放つ。
「衝撃波!」
不可視の衝撃波がカウフを襲い、反応できなかったカウフは直撃を食らってしまう。
「ぐぅッ!」
カウフが、家具も何もかもを滅茶苦茶に巻き込みながら、強かに壁に叩きつけられる。
明らかに重症だ。口から吹き出す血に、私も気が遠くなりそうになる。
「カウフさん! 今治癒をッ……!」
慌ててトリスが駆け寄り、カウフに治癒の魔法を使おうとするが、そのような暇を与えてくれる傭兵は、この世には存在しない。
「おっとお嬢さん。そいつぁ無理な話だ」
クロスボウの矢がトリスの太腿に突き立てられ、発動前に集中力を欠いた魔法は霧散してしまう。
「トリス!」
そのまま剣の柄で頭を打たれ、トリスは昏倒する。
額から流れる血が衣服を濡らし、痛々しい。
「さて、祈るのなら少しだけ時間をやるが?」
私がカウフとトリスの負傷に動揺している隙に、傭兵達に取り囲まれてしまう。
いよいよお終いなのか、そう思うと不思議と思考がクリアになる。
「では、そのようにお願い。でもその前に……」
私の思考は、死に対する観念を経て怒りへと変わる。
何もしないまま、このまま目を瞑り、与えられる死を甘受するだけなのか。
「何でしょう?」
傭兵達に下卑たところはない。彼らは彼らなりに矜持を持って戦っているのだろう。
死に向かう相手に対して、敬意を払おうとする様子が窺える。
「誰の差金でしょう?」
誰に殺されるのか、それだけは知りたかった。
「申し訳ありませんが、それは言えません。こちらもプロですから」
期待していなかったが、流石に口が堅い。
このまま理由もわからずに、私に死ねと言うのか。
「同情はしますよ」
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
沸々と怒りが湧いてきた。
「祈る時間をいただきますわ」
男達に背を向け、祈るフリをしながら囁くような小さな声で詠唱する。
『使い魔の召喚』
――魔道に進んだ人間ならだれでも使ったことがある低級魔法だが、この魔法の要点は、召喚の際に使用する魔力と触媒である。
意識を失う直前まで魔力を注ぎ込み、触媒にも魔力が込められた宝石を使用する。
「もう宜しいかな?」
わざとらしすぎる程に、恭しい態度で言う傭兵。
嫌なのだ。
運命をただ甘受するだけなのが、たまらなく嫌なのだ。
安穏とした幸せな結末を与えられるよりも、足掻いて足掻いて足掻いた結果、苦汁を舐める方がはるかに良いのだ。
ただ愛でられるだけの花となるよりも。
泥にまみれ、傷にまみれても。
「ええ、もう終わりました」
俯いたまま返答する。
男達からは、泣いているようにでも見えるのでしょうが――
きっとこの時の私は、笑っていたのでしょう。
「ご安心を、こちらもプロです。痛みは感じさせません」
剣を上段に構えた瞬間、召喚の魔法が発動する。
触媒とした宝石が砕け散る。
眼に見えないはずの魔力だが、その魔力は目に見えるまで膨れ上がり、荒れ狂う暴風となる。
「何をッ……!?」
「魔法だッ! 下がれッ!」
異変を察知した傭兵達が素早く離脱する。
「我が求めに応じて来たれ!」
身体から大量の魔力が抜け出るのが分かる。
技量はともかく、魔力の量だけはお父様のお墨付きだ。
いったいどんな使い魔が喚ばれるというのか……
「ヤバイぜありゃ……使ってる魔力が大きすぎる。魔力爆発するぞ!」
魔道の心得のある傭兵が叫ぶ。
何事にも適量というものがある。
料理なんかであれば、不味くなるだけで済むだろうが、魔法は違う。
術式で処理できる許容量を超えた魔力は、行き場をなくして爆発する。
純粋な魔力の爆発は、属性という減衰フィルターを経ていない分威力が段違いに高い。
「畜生。こりゃあ面倒な事になった」
傭兵は歯噛みする。
爆発で対象は死ぬだろう。
目的が達成されるのは良いが、魔力爆発は目立ちすぎる。
異変を察知したカルナストウの正規兵が来る時間が早まってしまう。
それは自分達を危険に晒す悪手である。
「お嬢様……」
意識を取り戻したカウフが私の名を呼ぶ。
この状況を打破する力を……
――何だっていい!
今にも魔力爆発しそうだった触媒の魔力が、私の魔力が誘導する。
不規則に体の周りを回っていただけの魔力の渦が、螺旋を描き天へと登り、さらにその輝きを増す。
――悪魔や死神でも!
魔力が光となり天井を突き破り、天高くそびえる柱となる。
これから起きる現象が単なる魔力爆発ではないことを察知した傭兵が、素早く対処を指示する。
「魔法使いはすぐに術者を殺れ! 魔力爆発に備えて魔道具で対魔障壁用意!」
幾多の死線を乗り越えてきたのだろう。
その反応は早い。
「応ッ! 炸裂せよ風! 衝撃波!」
「障壁展開!」
魔法使いは手のひらをリネアに向け、魔法を放つ。
その他の男達は、床に対魔法障壁の込められた魔石を叩き付け、効果を発動させる。
魔道具は高価だが、背に腹は代えられない。
「私だけの使い魔よ!」
発動と魔法の着弾は同時であった。
衝撃波が巻き起こり、何も見えなくなる。
「お嬢様ァー!」
カウフの絶叫が響く。
「やったか!」
傭兵が声を上げるが、視界が開けた先には、先程まではいなかった"何か"が立っていた。
戦いの後なのか、ボロボロに消耗しきっているが、体の線に沿った真っ黒い金属鎧を着込んだ騎士。
「なんだコイツァ!?」
「構わん! 殺せ!」
新たな脅威を認識した傭兵たちは手のひらを向け、衝撃波を食らわせる。
私は思わず目を瞑るが、再び目を開けたとき騎士は微動だにせず、そのままの場所に立っていた。
「あの世にしては物騒なお出迎えだな……で、現状はどうなっているんだ?」
歴戦の戦士の風格を持っているにもかかわらず、若々しい声。
唯一つ確かなことは、この騎士は私の求めに応じて現れた使い魔であるということ。
ならば最初の言葉は決まっている。
「お願い! 私と……私とみんなを助けて!」
騎士は私の顔を一瞥すると、私に背を向け傭兵と対峙する。
「いいだろう。俺もつい最近、ヒーローになったばかりだ」
その力強い背中を見て、ヒーローという言葉に、酷く納得がいった。