男が独り
また主役いない。
平原を臨む崖の上、男が独り遙か地平を眺めていた。
地面の色と酷似した服を着て、腹這いとなり体の殆どを枯れ草で覆い隠している。
風景と完全に一体化し、傍目にはそこに人間が存在しているなどとは思えない。
男はしばらくの間、何もない地平を眺めていたが口寂しくなったのか、ごそごそとポケットをまさぐり手製の煙草を取り出す……が、今煙草を吸ってしまうと今までの努力が台無しになることを思い出し、忌々しげに舌打ちする。
名残惜しげに散々手指で弄んだあと、代わりにと鼻と口の間にそ煙草を挟む。
「んー、恋しいねえ」
息を深く吸い込んで香りだけを楽しむ。至高の煙を胸一杯に燻らせた場面を想像し、自分を慰める。
普通、煙草はパイプで喫煙するが男は頑なに手巻の煙草を好んだ。麻の繊維を使ってちまちまと煙草を巻いていく作業もまた、男の数少ない愉しみの一つだからだ。
『見つけた。距離は2500』
頭に響いた声に反応して煙草をポケットに戻し、代わりに手近にあった枯れ草の茎を一本咥える。口寂しさを紛らわせるための子供騙し。
「あいよ」
声に小さく返事をすると、男は自分の仕事に取り組む為に詠唱を開始する。
「視力強化」
常人の肉体の限界を超え、魔力により視力が強化されるが、声の主の見つけた何かを見ることはできない。
「チッ」
舌打ちすると胸のポケットからレンズの入っていないモノクルを取り出す。魔力に親和性の高い銀でできたそれを右目に装着する。
「起動」
男の起動の声に反応して、込められた魔法が発動しモノクルに魔力による薄い膜が二枚張られる。
「距離入力――2500」
二枚の魔力の膜の距離が変化し、すぐに男の右目に声の言う何かが視認できた。
ゆったりと走る馬車とそれを取り巻く護衛とおぼしき一団。
そして、一団の魔法で感知されないように十分な距離をとって追跡する三つの人影。
「色は?」
『真っ赤。火竜の鱗の方がまだ涼しげだ』
声の主――相棒に尋ねると阿吽の呼吸で返ってくる。
男の相棒は、人間の感情を色で見分けることが出来た。対象が誰かまでは分からないが、悪意などのネガティブな感情であれば赤く、信頼や親愛などのポジティブであれば緑、無関心であれば青と大雑把なものであるが、男にとって相棒の能力は、この上なく使い勝手の良い無くてはならないものであった。
そして、今見ている三つの人影の色は赤色。その悪意が何に向けられているかはおおよその察しがつく。
『妙だな』
相棒の声に、男の緊張が否応なしに高まる。
「どうした」
『馬車の中の色が赤と緑で、ちかちかしてる……馬車の中、四人かな? 五人? 』
相棒が数を見間違えることなど今までなかったため、もやもやとしたものを抱くがが、その事実の確認は優先順位としては低い。意識を馬車から再び後方の三人に戻す。
「あの三人に周りは気付いているか?」
『いや、呑気なもんさ。あー』
相棒の呆れるような声。
「どうした」
『馬鹿が一人、馬の上で腕組んで立ってるよ。かっこいいと思ってるのかな?』
「あー、うん。馬車はその馬鹿共に任す。それぐらいはやってのけるだろうに」
男は、枯れ草の中から杖を取り出す。
真っ直ぐではない、曲がった妙な形の杖。魔法を強化する文字が彫られており、魔力を流すだけで特定の効果を発動させる、それなりに金のかかった逸品である。腹這いになったまま、杖の先端を遥か先の影に向ける。杖に頬をぴたりと付け、気持ちを切り替える。
「身体制御」
人の体は、静止するようには作られていない。
呼吸、脈拍、反射。そうした、生きるためにはどうしようもない現象による体のブレを、魔法により最小限に抑えつける。
「岩弾」
魔法により、親指程度の大きさの岩の粒を生み出すが、まだ射出しない。仮に射出したところで、この程度の質量では魔法障壁を抜くことは出来ない。
「錬金」
岩の弾丸を錬金の魔法で金属に変換する。この程度の質量であれば、男の魔力でも問題なく変換できる。何千何万と繰り返してきた動作に淀みはない。金属に変わると同時に、先端を尖らせ、細かく形を整える。
大きく息を吸い込み、杖に魔力を流す。
――加速魔法の発動。
それを四重に彫り込んだ狂気の逸品。世界最速を夢見た阿呆が創りだした杖。もし人間に四重加速魔法が発動すれば、人体がその効果に耐えられない、魔力だけを浪費する意味のない杖。
しかし、男は違った。この杖を手に入れた時から、寝床に入る時にも手放さずあたかも体の一部のように振る舞った。この杖は自分の体の一部であると、強烈な自己暗示にも似たそんな生活を数年続け、ついに魔法すらもそれを認めたのだ。
金属と化した弾丸に四重加速の魔法効果が発動し、解き放たれる瞬間を待っていた。
目標も移動しているため、弾丸が届く時点の移動先を予想する。
息を止め、身体を静止させモノクルの先の影の一つに狙いを定め――放つ。
男の知る限り、世界で一番速い物体が撃ちだされる。
「一つ」
一瞬の間を置き、弾丸が人影の頭の部分を貫く。倒れる人影を見て残りの二人が動きを止め、周囲を警戒する。モノクルの先には抜剣して障壁を展開し、姿の見えぬ敵に備えている姿が見える。
再度弾丸を生成し、狙いを定め射出。弾丸は障壁にぶつかるが、刹那にも満たぬ拮抗の後に魔法障壁を貫き、人影の頭に風穴を開ける。
「二つ」
為す術もなく仲間が討たれたことで、最後の一人は撤退を開始する。攻撃も防御もない、ただひたすらに逃走のみに全神経を込めている。遠距離攻撃だということは理解したため、ジグザグな機動で狙いを定めることを妨げようとする。
『手伝おうか?』
弾丸を生成し、深呼吸する。モノクルの先から見える狭い視界から人影が消えることはない。それは即ち、移動先を予想しつくしているという証左である。
「いらね」
返事とともに、最後の一発を射出する。弾丸は最後の一人の頭ではなく、足に命中する。かなりの速度で移動していたため、勢いをそのままに砂煙を上げて吹き飛んでいく。
『ミスった?』
「いんや、尋問する」
声は聞こえないものの、痛みで呻いているであろう目標から目を離すことなく相棒と会話をする。
『んー、でもさ……』
「あん?」
その声を皮切りに、目標が痙攣を始める。しばらく痙攣を続け、ひときわ大きく震えた後に、永久に動かなくなった。
『あー、やっぱり』
「ちっ……」
溜息を一つ吐いてから、杖を頬から外しモノクルを片付ける。体中に被せられた草を払い、縮こまった身体を伸ばす。
「帰るわ」
『あっ、馬車の赤が消えた』
「そりゃよござんしたね……っと。お前もさっさと戻ってこいよ」
『りょーかい』
男は相棒の声を軽く流し、帰路につく。尋問するまでもなく、あの人影についての察しはつく。情報を渡すくらいなら躊躇なく死を選ぶ。そんな組織など片手で足り、状況から推測すれば答えは容易に導き出せる。
戻って事の次第を報告した後の上司の顔を想像すると、思わず足を止めそうになるが、気を取り直してポケットから、先程仕舞った煙草を取り出し、火を点ける。
肺一杯に煙を吸い込み、その味を愉しむ。
――手巻きの煙草に拘るのは男の意地であった。
謎の男……一体何者なんだ?




