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第八話 想いの嵐

「ねぇ、舞香。音羽くんたち、少し遅くない?」

 そう言われた彼女が教室の時計を確認すると、もうすぐ次の授業が始まるところまで差し掛かっていた。

「ほんとだ。何してるのかしら、授業が始まっちゃうわ」

 まったく、焼却炉にゴミを出しに行くだけで、どれだけ時間を掛けているのだ。

 仕方ないわね、と舞香は千歳に声を掛ける。

「あたし、迎えに行ってくる」

「うん。いってらっしゃい」

 千歳は首を傾け、片手で小さく手を振った。それに合わせて、さらりと黒い髪が流れる。


 ……本当に、可愛いな。


 心の中で呟き、舞香は笑って手を振り返した。



 途中ですれ違った速水に軽く挨拶をして、彼女は校舎裏に出た。

 温かい春の陽気が制服の袖や裾から入り、金色の髪が風に煽られる。

 その風に乗って、微かに声が耳に届いた。

 この声は、響喜と信護のものだ。

 こんなところで油を売っていたのか。

 こうなったら、文句の一つでも言ってやろう、と足を踏み出すが、信護の固い声音が足を止めた。

「・……きだ」

 止まった足が、まるで地に根を張ったように動かなくなる。

 今、彼は何と言った?

 そう思ったが、頭の奥は警鐘を鳴らしていた。

 聞いてはいけないと。

 しかし、その思いは虚しく、彼は再び同じ言葉を繰り返す。

「僕は、千歳が好きだ」

 一息に紡がれた言葉に、思わず声が出そうになって、咄嗟に口を押さえる。

「だから、君には負けたくない」

 どんな顔をして言っているのだろう。

 いつもとは違う、柔らかさのない、真剣な声。

 信護のその言葉を合図に、舞香は逃げるように走り出していた。

 裏庭から校舎へ。そして階段を駆け上がって行く。

 逃げなければ。

 早く逃げなければ。

 そう、舞香は思った。


 ……何から? あたしは、何から逃げているの?


 胸が苦しい。

 苦しくて……痛い。

 まるで何かに締めつけられているように。

 走っているからだろうか。だからこんなにも苦しいのだろうか。

 涙が止まらなかった。熱い滴が頬を伝い、空気に溶けていく。

 廊下には、授業の準備をしている生徒や教師が行き交っていた。

 その中を、舞香はひたすら走る。

 そして、自分のクラスの教室を通り過ぎた。

「舞香、音羽くんたちは……って、あれっ?」

 聞き覚えのあるクラスメイトの声が聞こえたが、とても足を止める気にはならない。

 どこ行くの、と後ろから呼びかけられるが、それは彼女自身にも分からなかった。

 耳の奥で、信護の言葉がずっと反響し、胸を抉っていく。

 見飽きているはずの校舎の中が、真っ暗な闇の奥へ続いているように思えた。

 そんな中を、舞香は当てもなく走り続ける。

 ただひたすら、出口のない迷路のように。

 やがて、目の前に立ち塞がった何かを取り払うと、視界が一気に開けた。

 高い空は雲一つなく、先ほどより近い太陽に目を細める。


 ――僕は、千歳が好きだ。


「……っ、ふ……っ、うぅ……」

 波が大きく胸の内で荒れ狂い、それは熱い涙となって止めどなく流れ落ちる。

 足から力が抜け、すとん、と地面に座り込むと、冷たいコンクリートの感触が伝わった。

 ……知っていた。

 千歳を見る信護の瞳は、自分が信護を見る瞳と同じだったから。


 ――だから君には負けたくない。


 ……知っていた。

 なぜなら、自分が信護を好きになるより、信護が千歳を好きになる方が先だったから。

 その瞳が、自分に向けれられたらいいのに――。

 そう、思うようになっていたのは、いつからだろうか。

 あの黄玉の瞳で切なく見つめられる千歳を、彼の熱い眼差しを、想いを向けられる彼女を、羨ましいと思うようになったのは。

「…………っ」

 ずっと、知っていたこと。

 それでも、その事実を本人の口から聞きたくはなかった。

 耳を塞いでも、彼の声が消えてくれない。

 そこへ、自分一人しかいないはずの屋上に、足音が響く。小さく、躊躇いがちに鳴るその足音が誰のものなのか、舞香はすぐに気がついた。

 首だけで振り向いた先には、彼女の予想した通り、黒髪を靡かせた千歳が立っていた。

「舞香」

 目を腫らして泣く彼女へ心配そうな視線を注ぐ千歳に、舞香は奥歯を噛みしめた。

 どうして、こんなときにやって来るのだ。

 今、一番顔を見たくない人物。

 舞香は拒絶するように背を向けたまま、「来ないで」と小さく言った。

 しかし、それが聞こえなかったのだろう。

 胸の奥では、ぐちゃぐちゃにかき乱されて行き場のなくなった感情が荒れ狂っていた。

 常時身体に触れているヘアピンが、舞香の魔力を受けて風を巻き起こす。

「……舞香……」

 足を踏み出し、こちらへ来ようとする千歳に彼女は思わず叫んだ。


「こっちへ来ないでっ!」


 その声は、自分の喉から出たとは思えない迫力を持っていて、まるで他人の声を聞いたように思えた。

 舞香のその言葉を合図に、突如突風が屋上に吹き荒れる。

「きゃぁ……っ!」

 突然の突風に顔を庇う千歳へ、舞香は慎重に言葉を選んだ。

「今あなたに来られると、あたし……自分が何を言うか分からない……っ」

 驚愕に目を開く千歳を、腹立たしく感じた。

 イライラして仕方がなかった。

 妹だと思っているはずなのに。

 大好きだと思っているはずなのに。

 今は、大嫌いだとしか思えない。

 その感情を押し留めているのは、彼女との友情を無くしたくない、もう一人の自分で。

 その自分が、たくさんの恨みの言葉を喉の奥へ押しやる。

 大丈夫。

 またいつもみたいに、笑える。

 だから、お願い。

「だから、お願い。今は、一人にして……」

 そう言って、舞香は意識して、少しだけ風を弱めた。もともと、千歳がこちらへ来ないようにするために起こした風だった。いつもより少しだけ強くなってしまったのは、感情が乱れてしまっているからだ。

 これ以上は、気持ちを落ち着けなければ『暴走』してしまうかもしれない。

 ピンは、外しておかなきゃ。

 媒介を外しておけば魔法は使えないのだ。どれだけ感情が乱れても魔法を『暴走』させることはない。

 心の冷静な部分がそんなことを考え始めた、そのとき。

 千歳は一歩、風の中へ足を踏み出した。

 千歳が去るのを確認するために振り向いたままだった舞香は、驚愕に目を見開いた。

 収まりかけていた風が強くなり、やがてそれは嵐となる。

 普段『風』として使っている、彼女の本当の魔法『嵐』へと。

「……、……っ」

「止めて! それ以上、あたしに近づかないで!」

 その言葉は真空の刃となって、千歳の頬に裂傷が走らせた。その光景に思わず舞香の喉から小さな悲鳴が上がった。

 違う。

 自分は千歳を遠ざけたかっただけなのに。

 確実に、魔法が暴走している。

 無意識が、意識に勝ってしまっているのだ。

 荒れた心には、魔法を止めることができなかった。

 一歩近づくごとに千歳の傷は増えていき、舞香はどうしていいのか分からない。

 ただ、まるで舞香の気持ちを表すように意思を持った風の刃は、ひたすら千歳の身体を傷つけた。

「あ……っ」

「千歳っ!」

 制服を引き裂かれ、血の滲んだ細い身体を引きずりながら近づいてくる千歳に、舞香は顔を覆った。白い頬に裂傷を走らせ、痛みに顔を歪める少女をもう見ていられなかった。

 そこへ、小さく(うずくま)る舞香の身体を包み込むように、千歳は舞香を優しく抱きしめた。

「ちと、せ……?」

 予想外の行動に舞香は声を上げる。

「ごめん、な、さい……」

 微かに震える声で紡がれたのは、謝罪の言葉だった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 顔は舞香の首筋に埋められて見えない。

 だが舞香には、彼女の声が泣いているように思えた。

 どうして、あなたが泣くの?。

 身体の力が抜ける。

 きっと、何が悪いのか、彼女は分かっていない。

 なぜ舞香が泣いているのかも、分かっていないのだろう。

 それでも、自分のせいで舞香が泣いている、と思ったのかもしれない。


 そんなあなただから……。


 目頭が熱い。新たな涙が、頬を伝った。

「そんなあなただから、あたしは……っ」

 いつの間にか、舞香の嵐は止んでいた。

 裂傷が刻まれた屋上の壁や地面は、舞香の心そのものだった。

「う……っ、ふぇ……っ」

 普段舞香は、姉として千歳に接している。

 だが今は、千歳の腕に縋って、子どものように泣きじゃくっていた。

 ぎゅっと彼女の血だらけの背中に手を回す。

 何があったのか、舞香は言わなかった。

 そして千歳も、何も聞かなかった。

 その間にも千歳は、ごめんなさい、と繰り返す。その温もりに身体を預けていると、胸の中にわだかまっていた感情が、少しだけ静まったように思えた。




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