第六話 恋の話題
「千歳!」
信護の声に顔を上げると、二人の視線が彼をすり抜けて何かを見ていた。
舞香が立ち上がり、大きく手を振る。
「響喜さま……舞香と信護も。もう、帰ってると思っていました」
振り返ると、一度部屋に戻ったのだろう、私服に着替えた千歳が小走りで席に駆け寄って来た。
響喜の心臓が飛び跳ねたのは、彼女のことを考えていたからだ。
「あなたが来てないのに帰るわけないでしょ!」
真っ先に立ち上がった舞香は千歳に抱きつき、彼女の身体を確かめる。
「大丈夫? 怪我は? 痛いことされてない?」
「何もない。大丈夫」
響喜たちは言いたいことを舞香に言われて、千歳に声を掛ける言葉が見つからない。
そこで、ローテーブルに置かれた響喜たちの空のコップを見た千歳が身を翻す。
「わたし、飲み物を持ってきます」
その提案に響喜が半分腰を浮かせるが、それよりも早く信護が席を立った。
「僕も手伝うよ」
自然な動作で響喜と舞香に注文を聞くと、信護はテーブルのコップを手に、千歳と共に飲み物を取りに行ってしまう。
何となく先を越された感を感じながら、少々乱暴に椅子に座る響喜の向かいで、舞香が重いため息を吐いていた。
「どうかしたか?」
具合でも悪いのかと幼なじみに問うが、彼女の視線は去って行った二人を追いかけたまま動かない。
「舞香?」
言葉を重ねる彼の耳に届いたのは、空気のような微かな声だった。
「やっぱり、敵わないのかな……?」
それは音使いゆえに、聴力が良い彼だから聞き取れた呟き。
舞香の視線の先を追う。そこには、千歳と信護が飲み物を注ぐ列に並んで話しているのが見えた。今日は特に人が多いようで、長い列ができている。
二人は待ち時間の暇を持て余すことなく、楽しそうに話をしていた。千歳は相変わらず表情に乏しいが、付き合いの長い彼には十分楽しんでいるように見えた。
なぜかそれが、妙に苛立たしく思えた。
どうして、と考えるより先に視線を舞香に戻す。
彼女の翠玉の瞳は、切なそうな、苦しそうな。それでいて、愛しそうな……そんな色を宿していた。
幼い頃からずっと一緒にいた。
そんな彼女の変化。
その色の意味が、彼にはようやく分かった。
「……好き、なのか? 信護のこと」
好き、という言葉に躊躇いを覚えながらも、響喜は舞香に尋ねた。
明確な答えを期待したわけではない。
口にした後で、先ほど信護にしたように、答えをはぐらかされると思った。
しかし、それは響喜の考えすぎだったようだ。
彼女は、視線を二人に固定したまま、小さく頷く。
「……好きよ。一番、好き」
小さくとも、はっきりとした答え。
恥じらうことも、迷う素振りも、隠すことすらしない。
でも、と舞香は困ったように眉を下げた。
「信護が好きなのは、千歳だから」
「! まさか、そんなこと……」
信護が、千歳のことを好き……?
そんなことはない、と言いかけて、響喜は別の言葉を紡いだ。
「……信護から、直接、聞いたわけじゃ……ない、だろ?」
苦し紛れと取れなくもない、途切れ途切れの台詞に、舞香は響喜に視線を戻し、小さく笑った。
「そのくらい、見てれば分かるわ」
首を振る動きに合わせて、彼女の金色の髪が揺れる。
「あたしと同じ瞳を……してるから……」
同じ瞳。
好きな人を見る、愛しくて切ない瞳。
舞香の言葉を受け、彼は信護に目を移した。
千歳に向けられた黄玉の瞳は、確かに舞香のものと同じ色を宿している。
優しそうに細められた目はとても愛しそうで、胸が締めつけられるくらい、千歳のことが好きだと物語っていた。
胸が、気持ち悪い。
黒くモヤモヤしたものが、身体の中心に立ち込めている気がした。
「あたしね、千歳のこと、別に嫌いじゃないのよ。小さくて、あどけないところがまた可愛くて……守ってあげたくなる」
彼女は幼い頃から、千歳に姉として接してきた。
その様子は端から見ても仲の良い姉妹そのものだ。舞香自身も、千歳のことを妹として可愛がっているし、千歳も舞香を姉のように慕っている。
悲しげに顔を俯けて、彼女は話を続けた。
「きっと、嫌いになれた方が楽なんだと思う。試したのよ? 何度も、何度も……」
何度も、と舞香は繰り返す。
話しながらも、彼女は涙を流さなかった。
「でもね、ダメだった。どうしても嫌いになれないの。嫌いだって思うことはできても、本当に嫌いになることはできない」
その様子は、耐えているようには見えない。
おそらく、諦めているのだろう。
信護は千歳のことが好きだから、自分を好きになることはない、と。
「さっき、千歳が来る前なんだけどね、速水先生と話していたんだ。氷堂先生のことでね」
ドリンクバーの前にはまだ六人並んでおり、一人一人が二つ以上のカップを持っている。実際二人も二つずつカップを持っている。飲み物を注ぐには、まだ時間が掛かりそうだ。
時間を潰そうという気もなく、信護は速水との会話を千歳に話していた。
「それでね、舞香が一番に気づいたんだけど。速水先生って、もしかしたら氷堂先生のことが好きなんじゃないかって」
高校生といえば、男子でも女子でも、やはり恋愛は好きな話題だ。
誰が誰を好きで、誰が誰に告白をして、誰が誰に失恋した。
そんなことが、気になる年頃だ。
千歳は信護の話に、うんとも、そうとも、相槌を打つことはしなかった。だが、黒い瞳は話をしている彼に真っ直ぐ注がれていて、ちゃんと耳を傾けてくれていることが分かる。
そのことに、快感に似た幸福を感じながら、彼は話を続けた。
「もしかしたら、の話だけどね。でも、速水先生はよく氷堂先生と口論をしていたし、二人とも馬が合わないものとばかり思ってた」
そこでようやく、千歳が口を開く。
「わたしは速水先生の気持ち、分かる気がする」
「どういうこと?」
「氷堂先生って、カッコいいから」
「えっ?」
表面上はあくまで、驚いたと言っているが、内心では心臓が口から飛び出しそうだった。
信護から見た氷堂は、ただ厳しいだけの教師だ。
もちろんそれは、先の一件で大いに偏見が混じっている。
外見だけなら、目は切れ長で鼻筋も通っており、大人の魅力がある男性だ。女性が憧れるといえば納得してしまう。
そこで信護は、はっと思い至った。
千歳は学校の寮で暮らしているが、元は音羽の家で暮らしていたわけだし、もしかしたら響喜の兄である奏司が好きなのではないだろうか。
彼は、雰囲気やシャープな顔立ちが、氷堂ととても似ている。
そんな考えが、一気に頭の中を駆け巡った。
だが、千歳は首を振ってそれを否定する。
「厳しいだけじゃなくて、信念を貫いてる感じがする。そういうところ、すごく、人として尊敬する」
「そ、そうなんだ……」
とりあえず信護は安堵した。
どうやら、大人の男性が彼女のタイプ、というわけではないようだ。もしそうだったら、自分に勝ち目はない。
信護は自分が短気であると自覚していた。その上狭量で、嫉妬深い。大人のような余裕とは縁遠い場所にいる。
「あの、さ……」
言いかけて、千歳の視線が自分から外れていることに気がついた。
「響喜さま、待ちくたびれているかも」
彼女の視線を追いかけると、そこには響喜がいた。いつも、千歳の隣にいる少年が。
独り言のように呟く千歳に、彼の奥歯を噛みしめた。
そこでちょうどドリンクバーの順番が回って来る。
「あ、順番だね」
自分の中の嫉妬を押し込めて彼女を促す。
「うん。響喜さまはアイスココア、少し甘め」
言いかけた言葉を聞き取られなくて。
少しほっとしている自分がいた。
――君の好きな人は、誰?
それを聞いて、彼女は何と答えるだろうか。
千歳は「いない」と答えるだろう。
それとも「わからない」だろうか。
けれどもし「響喜」だと答えられたら。
自分はそれに耐えられるのだろうか。
信護は自分のグラスに注がれるコーヒーを見つめながら、隣の千歳に気づかれないようため息を吐いた。
「……ねぇ」
そのとき。
「響喜はどうなの?」
自分の話はここまで、と唐突に話を打ち切った舞香は、伏せていた顔を上げた。
翠玉の瞳は、さっきまでとは打って変わり、響喜の心の内側を探るように見つめている。
その瞳に、奇妙な居心地の悪さを感じた。
「あなただって、好きなんでしょう?」
ドクン、と心臓が脈を打ったのがよく分かった。
誰を、と馬鹿な質問はしない。
「お、俺は……」
そこへ、両手に一つずつコップを持って、千歳と信護が戻って来た。
質問の答えがうやむやになったことに、響喜は心のどこかで安堵する。
「お待たせしました、響喜さま」
「ごめんね。少し混んでいたんだ」
謝罪する信護の褐色の手からコップを一つ受け取った舞香はイタズラっぽく、くすり、と笑った。
「ちゃんと見てたから知ってるわよ」
ちゃんと、と強調して片目を瞑る彼女の様子はいつもと同じだ。響喜とは違い、さっきまでの話を引きずっているようにも、無理をしているようにも見えない。
今まで知らなかった。
知らなかったから、気づけなかった。
もしかしたら、意識して気づかないようにしていたのかもしれない。
信護は千歳が好きで、舞香は信護が好きで。
俺は――?
その先が続かず、思考が止まった。
千歳は大切な存在だ。
守らなければいけない、と思う。
いや、そうじゃない。守りたい、だ。
望むことを許されず、その小さな身体に膨大な力を秘めた少女を。
世界を手にすることも滅ぼすこともできる魔法は、欲のある人間にはまたとない宝と映るだろう。
そんな奴らから、千歳を守りたい。
だが、そう思う本当の理由は何だ?
守るだけなら別に自分じゃなくてもできる。
自分のような未熟な子どもじゃなく、もっと強い、例えるなら兄のような人間が適任だろう。
それでも、彼女を守ることを、他の誰にも譲りたくないと思う理由は――?
不意に袖が引っ張られる。
隣を見ると、千歳が心配そうに見上げていた。
「大丈夫? ずいぶん思い詰めた顔をしているけど」
信護も同じような顔で彼を気遣う。
舞香には、彼が何を考えていたのか分かったようだ。
千歳の深く黒い瞳に心を見透かされるような気がして、自分でも気づかない「何か」を暴かれるような気がして、響喜は堪らず目を逸らし、無理やり笑顔を作った。
「なんでもねぇ」
そんなもので誤魔化せるほど、浅い付き合いじゃない。
それでも、響喜にはそうする以外に思いつかなかった。