第二話 魔法使い
お昼前の授業は、生徒の集中力もまちまちだ。
もうすぐ昼休みだからと張り切れる者もいれば、お腹が空いて力が出ないと嘆く者もいる。
「今日はここまで。解散」
チャイムが鳴り、氷堂は魔法実技の授業の終了を告げる。
昨日に引き続き、同じ内容の授業が行われていた。一本や二本しか倒せなかった生徒も、それどころか全く倒せなかった生徒も、ほとんどが三本以上の氷柱を倒せるようになっていた。
そういう意味では、不本意ながら氷堂は優秀な教師なのかもしれない。
響喜たちの成績はそれぞれ四本ずつだった。
どうしても、五本目の氷柱が倒せない。
「兄さんは簡単そうにやってたんだけどなぁ」
「奏司さんはこういう魔法が得意だったね」
奏司は音弾を多数作りだし、それを同時に発射する魔法を得意としていた。彼の力量なら、五本どころか、十五本の氷柱だって破壊できるだろう。
「奏司さまはとても素晴らしい方。できないことなんてない」
「いや、兄さんだって人間だし、できないことくらいあるさ」
「そんなことありません。わたし、信じてます」
過度の信頼を寄せられる兄を心のどこかで羨ましく思っていると、千歳の横で舞香が響喜に向かって手を挙げる。
「コツとか教えてもらえないのかしら?」
「だったら、今度の休みにでも家に……」
「言枝」
そこへ、氷堂が千歳を呼び止めた。
「話がある。少し残りなさい」
相変わらずスーツの上着を脱いだだけの氷堂は、熱さなど感じさせず彼女に命令する。
氷堂に鋭い眼差しを向ける響喜たち三人は、自然と千歳を背に隠した。
「何の用ですか?」
「お前には関係のないことだ、守屋」
低く尋る信護の言葉を、氷堂は冷ややかな声音で切り捨てた。
「音羽、五十嵐、お前たちも先に戻りなさい。用があるのは言枝だけだ」
言葉を詰まらせる三人と、彼女の返事を待つ氷堂。
睨み合いを続ける四人に、千歳はすぐに答えを出した。
「分かりました」
「千歳!」
責めるように響喜に呼ばれた彼女は、何を口にすることもなく、黙って氷堂の前へ進み出る。
「お前たちは校舎に戻りなさい。以上だ。……言枝、お前はこちらに」
「すぐに戻ります」
少し振り返ってそう言い残した千歳は、氷堂に連れられて去って行く。
その背中を、三人は心配そうな眼差しで見送った。
特に聞かれて困る話ではないのだろう。適当に歩いて、氷堂は振り返る。
「まずは、先日の非礼を詫びたい」
先日の非礼、と言われても千歳はすぐに何のことか分からない。しかし、彼女が頭を悩ませるより早く、答えがもたらされる。
「お前のことを『化け物』呼ばわりしたことだ。お前の実力を量るためとはいえ、随分と酷い物言いをしてしまった」
そう言いながら下げられた頭は、まるで角度を測ったようにきっちりとしていた。
「訂正させてもらいたい。お前は私たちと何の違いもない。私が氷の魔法を使うように、お前は言葉の魔法を使う、ただそれだけのことだ。私が氷を自由に操れるように、お前は言葉で様々な魔法が使える」
ただそれだけのことだ。
その言葉は、千歳の胸に浸透していく。
昨日、氷堂に言われるまでもなく、千歳は自分のことを『化け物』であると認識していた。他の魔法使いたちとは違う。それは『特別』ではなく『異常』であり『異端』。
それを『普通』であると言った氷堂は言った。響喜と同じ、魔法使いだと。
偽りを口にしないだろう氷堂からの言葉だったからこそ、それは彼女の胸を打った。
氷堂の謝罪に、千歳は静かに首を振る。
「その言葉だけで、十分です」
氷堂は己に対して高いプライドを持っているように思える。そんな彼が頭を下げたのだ。己の非を認めて。その謝罪を受け入れない理由は、千歳にはない。
それ以上に、貰ったものがあると思った。
彼女の返事を聞いて、彼は「そうか」とだけ口にする。
「では、本題に入ろう」
瞬間、氷堂の表情は教師のものへと一転した。
「言枝。私はお前を他の魔法使いと変わらないと言ったが、それはお前の魔法に危険がないという意味ではない。他の魔法使いより強力で、口にすれば全てが魔法として発動してしまう。その危険性は計り知れない。おまえ自身もそれをよく分かっているはずだ」
そして彼は一度言葉を区切り、「そこで」と続けた。
「お前に個人授業をつけようと思ったのだ」
「個人授業……」
「そうだ。私は教師の傍ら、まじないを中心とした、魔法全般の研究を行っているが、その中でも最近は特に、言葉使いに重点を置いている」
言葉使いは極端に数が少なく希少だ。そして、様々な魔法が使えるという多様性や、媒介を必要としない特殊性など謎が多いことから、研究者たちのテーマになっているのも珍しくはない。
「現在クラスでやっている授業は、お前には簡単過ぎて合っていない。だからこそ必要なことだと思った」
すでに校長から許可を取り、準備は整っているらしい。
千歳が返事をすれば、すぐにでも始められるそうだ。
「もちろん強制ではないから、必要ないと思うなら断ってくれても構わない」
言葉使いの研究。
一瞬、思い出したくない記憶が蘇ったが、千歳はそれを気力で振り払った。
研究をしているのなら、氷堂は言葉魔法の使い方を知っているのだろうか?
もしそうでなくても、言葉使いのことを……自分のことを知れるのなら。
彼女は、自分の魔法についてほとんど知らない。知っているのは、両親のどちらとも言葉使いだったということと、自分もそうであるということだけ。
音羽の現当主である奏司も、それ以上のことは知らないようだった。
答えを決めた千歳は、四角い眼鏡のフレームの奥にある瞳を見上げる。
「考える時間が必要か?」
「いいえ。ですが、わたしの一存では決められません」
彼女の中に、「断る」という選択肢はなかった。
だが、魔法行使に関して、彼女は自分に決定権を持たせていない。
「分かった。お前の事情は知っているつもりだ。では、週明けに返事を聞こう」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げた千歳は、「失礼します」と断って校舎に戻る。
少し振り返ると、氷堂はすでに背を向けて、彼女とは反対方向へ歩いて行っていた。
自分のことを知れるかもしれない。
期待に胸が膨らむ一方で、未知のことに対する不安もあった。
自分の持つ、『言葉魔法』とは何だろう。
簡単だ。考えるまでもない。『言葉』を使う『魔法』だ。
では、『言葉』とは何だ?
自分が、響喜が、みんなが、人間が口にする『言葉』。
どちらにしても、まずは響喜に聞いてみなければ。
千歳は足を急がせて、響喜たちの待つ食堂へ向かった。
「考えるまでもないわ! 今すぐ断ってきなさい!」
千歳から氷堂との話を聞いて、響喜が何か言うより先に舞香がテーブルを叩いて声を荒げた。
彼女の大声に、周りは何事かと振り返ってくるが、舞香は気にならないようだった。
だが、反応こそ違うものの、響喜と信護も意見は同じだ。
「昨日のことを言っているのなら、わたしは本当に大丈夫。それに、先生は謝ってくれた」
「謝った? あの氷堂が?」
響喜が問い返すと、千歳は大きく頷く。
あの冷徹な男が謝る姿なんて想像できない。正直千歳の言葉でなかったら信じていなかっただろう。
現在響喜たちが集まっているのは、学校内にある食堂だ。
すでに食堂はほぼ満員で、何とか四人座れる席を確保した彼らは、そこで昼食を摂っていた。響喜の右隣に千歳、正面には舞香、その舞香の隣、千歳の正面に信護が座っている。
響喜は日替わりランチ、信護はカレーライス、舞香はオムライス。遅れて来た千歳のメニューは、和風スパゲッティ、オムライスにハンバーグセットと、食事時間が短くなってしまっているにも関わらず量が多い。
千歳は細い外見に反して、かなりの量を食べる。それなのに、いくら食べても、それが身体の肉としてついている様子は見受けられない。
「……おい、舞香。グリンピースを避けるな。パセリも食えよ」
「何言ってるのよ、響喜。これは食べ物じゃないわ。彩りを添えるための、ただの飾りよ」
まるで、そうすることが当たり前であるように避けていく舞香の様子を見ていると、何だか自分の方が間違っているような気がしてくる。もちろん、それは錯覚だが。
「舞香、僕が食べてあげるから。響喜もそれでいいだろう?」
「そういう問題じゃないだろ。千歳が真似したら――……ほら、見ろ」
千歳に目をやって、案の定、響喜は大きくため息を吐いた。
彼女は現在食べているオムライスからグリンピースを避け始める。
「これ、食べ物じゃなかったのね。少し食べちゃったけど、おへそから芽が……」
「出て来ないから、ちゃんと食えよ」
「……ご命令なら」
彼の言葉に従い、彼女はしぶしぶといった様子で避けたグリンピースを頬張った。
「あら、千歳。良かったら、あたしのも食べていいわよ」
「ありがとう、舞香」
まだ食べるのか。
グリンピースを食べて腹が膨れるとは思わないが、すでにかなりの量を食べている。これだけ食べているのだから、もっと太ってもいいはずなのに。
信護が受け取るはずのグリンピースとパセリを食べ、さらに残りの並べられた料理を、その小さな口に全て運んだ。
すでに響喜と信護は食べ終わり、舞香もオムライスを食べ終えた。千歳が食べ終えるにはもう少しかかる。響喜はいつものように、食後に注文していた瑞々しい光沢を放つ、透き通った赤色のゼリー。響喜はそれにスプーンをつけた。
「それで、響喜さま。氷堂先生の個人授業についてですが……」
受けたい、と物語る千歳の瞳をちらりと見て、彼はきっぱりと言った。
「絶対ダメだ」
あんな教師と二人で授業なんて、と心の中で毒づく。
「響喜さま……」
無表情ながら哀しげな表情をする千歳に彼の良心が痛むが、その痛みを振り払って響喜は言葉を続けた。
「兄さんだってダメって言うに決まってる」
パクパク、とゼリーを口に放るが、罪悪感のせいで残念ながら味は感じられない。それでも、彼はその手を止めず、無関心を装った。
「それは……」
しゅん、と項垂れる彼女に、さらに心が痛む。
何だか、自分が千歳を虐めているような気がしてきた。
実際、兄のことは建前だ。きっと兄はダメだとは言わないだろう。奏司は千歳の意思を尊重するはずだ。何だかんだと言って、彼女には甘いところがある。
だが、響喜の中には、他にも行かせたくない理由があった。
自分じゃない、他の人間を頼らないで欲しい。
そんな、自分勝手な想いが。
「でも、わたしは……」
普段の千歳は、響喜の言うことには素直に従い、それに異を唱えることはしない。
それなのに、彼女は今回、珍しく食い下がってきた。
響喜の袖を掴んで俯く千歳に、彼はこれ見よがしに息を吐いて見せる。
「……分かったよ。兄さんには、俺から連絡しておく」
千歳の悲しい気な切ない表情に根負けして、響喜はとうとう頷いてしまった。
その言葉を聞いて、千歳の顔がパッと明るくなる。
「ありがとうございます、響喜さま」
「きょ、許可が下りるかは、知らねぇからな」
「はい」
喜びに微笑む彼女に、響喜は少し赤くなった顔を逸らし、口元が緩むのを手で隠す。昔から、彼女の笑顔には弱い。理由は分からないが、すぐに顔は赤くなるし、胸は熱くなるし、妙にそわそわしてしまう。
そんな二人のやりとりを見ながら信護が複雑そうにしていたが、それに気がついたのは舞香ただ一人だった。
氷堂は魔法実技と魔法学の科目を兼任している。
本日最後の授業は、氷堂による魔法学の授業だった。
この授業は、魔法を、実技ではなく理論で学ぶものだ。
現在までで分かっていることは多くないものの、遺伝する魔法の仕組みや、魔法の発動するための魔晶石の働きなど、感覚的に何となく知っていることを知識として身につける。
今日の内容は、遺伝する魔法について。
「親と子どもは必然的に同じ魔法を持つ。では、親が違う魔法使いだったら……どうなるか知っているな」
例えば、響喜の両親はいとこ同士で全く同じ音使いだ。そのため、響喜も奏司もその遺伝子を継ぎ、音魔法を使える。
しかし、両親がそれぞれ違う魔法使いだったら、どうなるのか。
答えは、どちらか一方の魔法を継ぐ、だ。
五十嵐舞香の父は風早家の『風使い』、母親は五十嵐家の『嵐使い』。風と嵐とはいえ、この世界では明確に区別される。この場合なら、風より嵐の方が強いということになる。
人間は苗字に魔法と同じ、または関わる漢字を持つ。そんな彼らにとって、苗字は名前と同じくらい自分を表す要素だ。だから、結婚しても苗字が変わることはない。
生まれた子どもは、同じ魔法使い同士の親を持つなら父親の、違う魔法使い同士ならば継いだ魔法を持つ親の姓を名乗ることになる。例外として、同じ魔法使いの場合、母親の姓を名乗ることもあるが。
つまり、舞香は『嵐使い』。そのため彼女は、母親の姓を名乗っているのだ。
黒板の字をノートに写しながら、先ほどの昼食で満腹になった身体は、さっそく春の陽気を浴びて眠気を訴えてくる。
良くも悪くも、氷堂の難しい話が子守唄に聞こえ、ノートの字はミミズのように歪み始めた。
何とか眠気を振り払おうと、響喜は信護たちの様子を窺ってみる。
響喜の列の一番前に座る信護は真面目なだけあって、氷堂の話に真剣に耳を傾けているようだ。ノートが取れなかったときは、また彼に見せてもらうことにしよう。その右後ろの舞香は、ちょうど欠伸を噛み殺しているところだった。翠玉の瞳がうっすら潤んでいる気がする。教室の中央前寄り真ん中の席に座る千歳は、うつらうつらとすでに船を漕いでいた。
あれだけ食べれば、眠くもなるだろう。
ときどき目を覚まして氷堂の話を聞くも、やはり眠気には敵わないらしい。いつもこうして、午後の授業はうつらうつらとしているのに、テストでは学年一位の成績を取れるのだから不思議だ。
ペンが落ちた音に気づいたのか、ビクッ、と千歳が顔を上げる。そして必死に氷堂が黒板に書いた字をノートに写し始めた。だが、段々と落ちる瞼と一緒に、顔も重力に従って俯いていく。
そんな彼女が可笑しくて、可愛くて、響喜はそんな千歳につい声を殺して笑った。